最終話 やあ、きてくれたんだ

「え?沙希さん山口と会ったことないでしょ」

「ないけど、わたしのこと見たことあるって感じだった」

「山口だって沙希さんの顔なんて知らないはずだけど」

「本当に?」

 いやらしげな顔でぼくの目をのぞきこんでくる。赤ちゃんを胸に抱いてゆすりながら。うん、思い当たる節があった。でも、それなら山口に限らず、全国の何人もの女の人が知っていてもいい。

「えーと、恥ずかしいな。でも、あれは売ってるものだから、ぼくが買ってもいいっていうか、あれですよ。祥子には内密に」

 バイクのエンジンがかかる音がした。アイドリング状態になる。

「ほら。ヘルメット抱えて写真見てたから、これだよ。帰っちゃうよ。すぐ戻るからって引き留めておけばよかった」

「沙希さん、いまさら顔をあわせても、なにも話すことないです」

「そう?向こうにはあるんじゃない?最後の写真見ながら涙流してたみたいだけど」

「ぼくの写真に感動したんでしょう」

「わたしに聞いてきたんだよ。この写真のシルエットの人ですかって」

「それでも、やっぱりぼくには話すことないです」

 もしさっきすれ違ったのが山口だとしても、向こうから話しかけてこなかったのだし。

「あの夏のはじめての個展がぼくにとっての葬式だったんです。ぼくたちの記憶の」

「なるほどね。最後のセピア色のポートレートは、すると、遺影みたいなものだったのか」

「そんな感じです」

「ふーん。わたしはまだわかってなかった」

「山口はとっくに新しい世界で生きてるはずなんです」

 しばらくアイドリング状態だったバイクのエンジン音が、一度高くなってから遠ざかっていった。

 会場の外に出てみた。空はよく晴れているし、そよ風が気持ちいい。うん、絶好のお昼寝日和だ。それは間違いない。

 視界の下側に人の影が見えて、全身総毛立った。ゆっくり視線をおろす。

「やあ、きてくれたんだ」

「邪魔だった?」

「まさか。でも受験生、学校は?」

「実力テストだったから早く終わった」

「そっか。お疲れさま」

「さっき、誰かと勘違いした?」

「なにが?」

 ミカンちゃんは山口と背格好と髪型が似ているし、性格も似たタイプだ。

「なんかすっごいビックリしてたでしょ」

「ビックリなんてしてないし」

「うそうそ。体がビクッてしてたよ」

「ミカンちゃんがぼぅっと立ってたから、幽霊かと思ったのかも」

 ミカンちゃんにはバイクに乗るようなおてんばにならないでもらいたい。お義兄さんとして、バイクには反対するつもりだ。

「ふぅーん。お姉ちゃんにもそういうの?」

「えーと。個展を閉めたらスイーツでも食べに行きませんか?」

「どうしよっかな。奥田がぜひっていうなら、すこし付き合ってあげてもいいかな」

「ぜひ、お願いします」

「しかたないなー」

 ミカンちゃんがガラスのドアを引き開けて建物にはいっていった。

「沙希さーん、奥田のおごりでスイーツ食べに行きましょう!どこかいいお店知ってますかー」

 ぼくも、一度振り返ってからミカンちゃんに続いた。

「まだだよ。個展を閉じてからだって」

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アイ色のアストログラフィー 九乃カナ @kyuno-kana

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