悪魔の所業

 


 十字架の前で、カトリーヌは手を組んで跪いていた。

 胸のうちにうずまく感情を抑えて、ただ無心に祈りを続ける。それは懺悔であり、新たな神託を授かるための、浅ましい行為であった。

 ステンドガラスから降り注ぐ光は、曇り空からわずかに降ろされたぼんやりとした光で、虹色をぐちゃぐちゃに混ぜた気持ちの悪い色をしている。薄暗い灰色の教会のなかで、ただカトリーヌの周囲だけが、光に曝されていた。

 やがて、聖堂のなかに風が吹く。

 なにも変わらず、その風だけはふわりと優しくカトリーヌの金髪を揺らし、どこからともなく白い羽根を運んでくる。


「〝再び、召喚の儀式を“」


 目を開けて、そこに刻まれた神の意志を読み上げる。


「なぜ、なのですか?」


 理由を問いたくても、神は多くを語らない。

 神託とは、そういうものなのだ。


 


 二度目で召喚されたのは、少女だった。

 カトリーヌが急ぎ足で石壁の小部屋を訪れると、そこで少女は両手を縛られて、椅子に拘束されていた。カズヤの時とは違い、床には絨毯さえ敷かれていない。

 肩にかかるくらいの黒髪と、茶色がかった瞳は、カズヤにそっくりだった。


「彼女を放してあげて」


 カトリーヌは眉を顰めて、兵に命令する。

 そして少女に歩み寄ると、優しく抱擁した。見ていてはわからなかったが、その身体は細かく震えていて、カトリーヌは俯いた。


「ごめんなさい。わたくしの臣下が無礼をしましたね」


 王族が謝罪をするなど、そう簡単にあってはならない。

 兵たちがうろたえると、奇しくも少女はカトリーヌの腕のなかで、安堵のため息を吐いていた。見知らぬ地で、罪人のように扱われたのだ。その恐怖がいかほどのものか、カトリーヌには想像することさえできない。


「あなた、お名前は?」

「伊藤、美紀、です……」


 名前の響きを聞いて、カトリーヌは少女――ミキがカズヤと同じ国の出身であると理解した。それが一層、胸を締め付ける。


「ミキ、困ったことがあったら、なんでもわたくしに言ってくださいね」


 カトリーヌが目を合わせて微笑むと、ミキは唇を固く結んだまま、こくりと頷いた。



 それからカトリーヌは四六時中、ミキに付いて回った。姫が動けば、その護衛も動かざるを得ない。マルセルが付いているなら、賊が潜んでいたとしても安心だと踏んだのだ。


「姫殿下、就寝まで共にするおつもりですか」

「ええ。だめかしら?」

「なりません。私とて、常に付いていられる訳ではないのです」


 そしてついには、マルセルにも苦言を呈された。

 カトリーヌが傍にいるため、ミキの城での扱いは丁寧なものだった。異世界人の事件があった直後ではあったが、自分が裁かれてでも他人を貶めようなどと考える者は、一人としていなかった。


 月日は流れ、ミキが召喚されてから、百近い日が経った。ミキはすっかりと生活にも慣れ、最初の頃の怯えも、ほとんどなくなっていた

 今度は誰かに利用されることもなく、カトリーヌも少しずつ、安心を覚えていた。それでも、カズヤが処刑されていく姿は瞼の裏に焼き付いている。

 絶対にあのようなことが起こらないように、ミキが無実の罪で裁かれないように、カトリーヌは祈りを捧げながら、毎日を送った。

 そんなある日、ミキが風邪を患った。万が一があってはいけないと、ミキは離れの館に映され、カトリーヌは強引に引き離されることになってしまう。


「ミキ、体調はどう?」

「カトリーヌさん……毎日来てもらって、ごめんなさい」

「良いの。わたくしができることなんて、これくらいしかないもの」

「ふふ、カトリーヌさんはほんとうに、心配性ですね……」


 大きなベッドに横たわり、青白い顔をしつつも、ミキは嬉しそうに笑って面会に来たカトリーヌを歓迎した。

 目の下の隈が酷く、満足に眠れていないことがわかる。残された食事を見る限り、咳が止まず、食事の量もずいぶんと減っているようだった。

 カトリーヌは氷のように冷たくなったミキの手を取り、そっと両手で包み込む。

 このままでは、ミキは亡くなってしまうという焦りが、カトリーヌを襲っていた。


「姫殿下、ご案じなさいますな。国中の医師がミキ殿を治療すべく、会議をしております」


 マルセルの励ましも、段々と真実味を失っていく。

 原因不明の難病にかかるなど、運が悪いとしか言いようがなかった。


 何かに呼ばれたような気がして、カトリーヌは目を覚ます。

 カズヤのときと、似たような感覚だった。嫌な予感を覚えたカトリーヌは、軽く外套だけを羽織ると、急いで部屋を出た。

 石造りの廊下を通り、螺旋階段を下りて、ミキがいる離れの館へ向かう。

 本来は館を彩るために美しく飾られた木々から、黒い鳥が飛び立った。葉のこすれ合う音が、嘲笑っているように聞こえる。

 呼吸が早くなり、カトリーヌは外聞も構わず走り出した。

 門を抜けると、普段は入り口を見張っているはずの兵たちがいない。大きな両開きの扉をなんとか押し開けて、広間へ入った。

 そのまま広間の隅にある階段を上り、二階の廊下を走る。

 突き当りにある扉へ手を掛けて、開けた先には、ミキが眠っているはずだった。


「ミキ!」

「カトリーヌ、さん?」


 ミキは、起きていた。

 やせ細り、干からびたような指を動かし、虚ろな目で天井を見つめながら、カトリーヌの声に、かすれた声を返した。

 その周囲では白い服をまとった医者たちが、ただ黙り込んでいる。


「ごめんなさい、ミキ」

 医者を責める気はなかった。彼らが手を尽くしてきたのは、その疲弊した顔を見るだけでわかる。あまりの衝撃に、カトリーヌは微笑みも忘れて、ミキを抱きしめることしかできなかった。


「ありがとう……ございます……」


 その体は、震えていた。怯えていたのか、それとも寒かったのか。あるいは、悲しかったのかもしれない。

 絞り出すように紡いだカトリーヌへの言葉を最後に、ミキは眠りに就いた。

 カトリーヌの涙が見られなかったのは、せめてもの救いだった。


 †


 カトリーヌはそれから何度も、同じ内容の神託を授かった。

 そしてその都度――生きた時間の差こそあれど――何の罪もない少年少女たちが、不幸の死を遂げていった。

 せめて苦しまないように、と祈りはじめたのは、いつだったろうか。微笑みさえ忘れて、カトリーヌは必死に、異世界人たちの幸運を願った。

 そんな彼女を嘲笑うかのように、無慈悲な運命は彼らの命を奪っていく。


「神よ。あなたは、何を望んでいるのですか? 罪なき子どもたちの死が、一体どのように、繁栄につながるというのですか!」


 聖堂で、カトリーヌは叫んだ。

 祈りをささげるつもりもなく、ただ、神の真意を知りたかった。


「神託は、ほんとうに、あなたの意思なのですか……!」


 祈祷をしてもいないのに、風が吹いた。カトリーヌの前に、どこからともなく一枚の白い羽根が、舞い降りた。


”最後の召喚を行え。もう充分楽しんだ”


 口に出して読むことはしなかった。

 カトリーヌは片手を血が滲むほど握りしめながら羽根を摘まみ上げると、天使の像に背を向けて、聖堂を出ていく。

 空は、憎いほどに青かった。


 †


「姫殿下を狙う愚かな異教徒に、裁きを!」


 裁きを。民衆が叫び声を上げる。

 王城の前に建つ十字架には、『最後の召喚』に呼ばれた少年が磔にされていた。片手に松明を握ったマルセルが、顔を顰めながら、徐々に十字架へ歩んでいく。

 民衆はもはや、処刑を楽しんでいるようにも見えた。真実はどうであれ、悪人を裁くという事実が、民衆の暴力的な衝動のはけ口になっていた。

 松明が十字架に近づけられ、おぉ、と民衆がうごめく。


「待ちなさい!」


 ぴたりと、マルセルの動きが止まった。

 近衛兵団の長である彼を一声で止めるとなれば、その声の主は、彼の主に他ならない。


「姫殿下――」

「もういいわ、マルセル」


 処刑台を上り、カトリーヌはマルセルの手から松明を奪った。

 そして、注目する民衆に向かって、それを掲げる。


「無実の罪で子どもたちを殺すだなんて、そんなこと、悪魔の所業よ」


 美しい碧眼から、雫がこぼれた。

 悲しみや怒りが詰まったそれは、頬を伝い、ゆっくりと地面に落ちていく。

 その涙が処刑台に落ちるのと、カトリーヌが松明を離すのは同時だった。


「マルセル! その子を解放し、育てなさい」

「姫殿下、なにを、」

「その子の罪は、わたくしが背負うわ」


 木製の処刑台に火が移り、燃え広がっていく。民衆は悲鳴を上げ、処刑台から一斉に離れたが、カトリーヌはドレスの裾に炎が点いても、動こうとしなかった。

 マルセルは目を迷わせながらも、剣を引き抜き、十字架に縛られた少年の拘束を解くと、抱え上げる。


「神託なんて、ただの遊びだったの。意味なんてなかったのよ」


 カトリーヌはつぶやき、自嘲気に笑った。

 そして目を伏せると、ドレスに炎を纏わせながら、両手を組んで跪く。その姿勢は、今までの祈祷の姿とは、すこしだけ違った。


「だからマルセル。わたくしの命をもって、あなたに本当の祈りの姿を見せるわ。二度と間違えないように、広めてちょうだいね」


 カトリーヌの額が、組まれた手に触れる。

 炎は、わずかな時間で処刑台を火の海と化した。しかしカトリーヌは、ぴくりとも動かない。どれだけの痛み、どれだけの想いが、そこにあるのだろう。マルセルには、到底計り知れなかった。


 やがてすべてが燃え尽き、それでもカトリーヌは、祈祷の姿勢を保っていた。かすかにも動かなくなったそれは、まるで彫像のようだった。

 彼女が跪いているその眼前には、なにも落ちてはこない。

 しかし暗雲立ち込める空から、まるでカトリーヌを照らし出すように、一筋だけ光が下りていたのを、マルセルはその目に焼き付けていた。


 †



 カトリーヌの死は、マルセルの口から民衆へ伝わった。一部脚色を入れて語られるその内容に、民衆の多くは己の過ちを知る。

 そして、彼女の死によって救われた少年は、カトリーヌの思いを継ぎ、新たな国教を作り出した。


 少年少女の死を嘆き、自らを犠牲にしてでも悪神に逆らった彼女の物語は、やがて国に伝わる聖女の物語として、語り継がれていく。

 もしも祈りが届くなら、死んでいった少年少女の魂に、救いがあるようにと。

 

 

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