夕陽の照らす教室
しましま
夕陽は照らす
放課後、僕は今日もまた教室に残り、一人席に座っていた。
ルーズリーフを一枚と、教科書、問題集をカバンから取り出して机の上に並べる。
今日は水曜日だから、教科は数学だ。
誰もいない放課後の教室で、紙一枚分だけ問題を解くこと。それが僕の日課だった。
必ず紙一枚。それ以上でも以下でもなく、ただ一枚分だけ問題を解くのだ。
……先週はたしか……そうだ、微分だった。
問題集をめくり、問いを紙に書き写していく。
いくつもの記号と数字が並び、まっさらだった紙がどんどん黒く染まっていった。
かつかつとペンを走らせること数分、静寂に包まれた教室に突然物音が響いた。
ビクッと驚き、勢いよく開けられたドアの方に顔を向ける。
……あれはクラスメイトの……誰だっけか……?
クラス替えから数ヶ月は経っているのに、未だにクラスメイトの名前を覚えていないとは。
我ながら他人に無関心すぎる気もする。
まあいいか、と再びペンを動かそうとしたときだった。
「あれ? 三上くん、まだ残ってたんだ」
どうやら彼女の方は僕のことを覚えていたらしい。
ペンは持ったまま顔を上げると、彼女は僕の方に近づいてきた。
「……これ、数学って……こんな時間まで勉強してるの?」
「うん、まあ」
短く淡白な返事をすると、感心しているのか、それとも呆れているのか、彼女はよく分からない表情を浮かべていた。
問題を解きながら訊きかえす。
「君は?」
「私は忘れ物を取りに来ただけだよ。ほら、これ」
彼女が手にしていたのは、進路希望調査のプリントだった。
「三上くんはさ、もう進路って決めた?」
「まだ」
「私もまだなんだよね。やりたいこととか見つからなくてさ」
そう話しながら、彼女は前の席の椅子を動かして腰掛けた。
「みんなすごいよね。夢とかやりたいことがちゃんとあって」
「……僕はない」
「あ、ごめん」
彼女は少し笑いながら謝った。
「でもさ、もうそろそろ考えなきゃだよね」
ふと顔を上げると、窓から吹き込んだ風に彼女のロングヘアーが揺れた。
沈みかけの夕陽が柔らかなオレンジ色で彼女を…………。
……そうか。夕陽だ。
平川夕陽。彼女の名前は平川夕陽だ。
彼女は、じっとプリントを見つめている。
「……私も、少し勉強してこうかな」
小さく微笑んで、ここいい? と僕の机の端を指差す。
本当は一人の方が好きだけど、なんとなく頷いてしまった。
教科書や問題集を少しずらして彼女の分のスペースを空ける。
彼女も数学をやるらしい。僕と同じように問題集を取り出して、机に置いた。
「あ、ノート……」
席を立とうとした彼女に、僕はルーズリーフを一枚取り出して差し出す。
「これ、使いなよ」
「いいの? ありがと」
また軽く微笑み、ちゃんと椅子に腰掛け直して、彼女も問題を解き始めた。
僕も問題も解き進めていった。
ペンの走る音だけが聞こえ、少しの間、無言が続いた。
先に静寂を打ち破ったのは僕の方だった。
この空気に耐えられなかった訳じゃなく、自分でも意外に思うほど、自然と言葉が口を出たのだ。
「君さ、部活とかやってないの?」
僕から話しだしたのが意外だったのか、少しだけきょとんした表情を浮かべた。
だけどすぐ、その表情はさっきのような微笑みに変わる。
「知りたい?」
「いや、別に」
「しょうがないなぁ。教えてあげるよ」
「…………」
正直あまり興味があった訳ではなかったが、自分から訊いた手前、何も言えなくなる。
「私、料理部なんだ」
意外、でもないか。スラっと細身の彼女には、エプロンや調理器具なんかが似合うことだろう。
「クッキーとかお菓子を作るんだよ」
絶えず笑顔の彼女は、まだ上手には作れないんだけどね、と楽しそうに付け足した。
僕は話を聞きながら、手だけは動かして問題を解き続けていった。
「あ、そうだ」
何かを思い出したのか、彼女はカバンをガサゴソとあさり出す。
僕のとは違って、彼女のカバンには沢山の物が入っているようだ。紙と紙が擦れる音以外にも、色々な音が聞こえる。
少しして、あった! と明るい声が響いた。
「はい、これ」
そう言って手渡されたのは、小さな袋だった。
ひし形にハート形に星形、様々な形の小さなクッキーが入っていた。
「……これは?」
「昨日の夜に焼いてみたんだけど、一袋だけ多く作っちゃったみたいで。三上くんにあげるよ」
クッキーを見て、彼女の顔を見て、もう一度クッキーを見つめる。
「……ありがとう」
なぜ自分にとか、深いことは考えずにお礼を言う。
人から物を貰うのなんていつぶりだろう。ましてや、彼女のような女子からの貰い物なんて、数える程もない。
「よかったら食べてみてよ。あまり自信はないけど、不味くはないと思うから」
言われるままに、袋を開けてクッキーを一枚だけ取り出す。
いかにも手作りの、星形のクッキーだった。
口に放り込むと、サクッと気持ちいい食感が口全体に広がった。
「どう……?」
おそるおそる、と言った感じで彼女は訊く。
「……クッキーの味」
「もぉ、そうじゃなくてさ、ほらもっとなんかさ」
「……美味いよ。甘くて美味しい」
「ほんとっ!?」
噛みながら無言で頷く。
「よかった! やっぱりさ、自分の作ったもの誰かに食べて貰うのってすごく緊張するよ」
胸に手を当てホッと息をついて、とても喜んでいるように見えた。
それを見ながら、二枚目を口にする。
また、気持ちいい食感と甘さが口に広がった。
サクサクと噛み、飲み込む。
「これが君のやりたいことじゃないんだ」
ふと、そんなことを思った。
「……うん。パティシエとかそういうのは私には無理だよ」
「そういうことじゃない」
「え?」
僕が頭に思い浮かべたのは、あんなフワフワした帽子を被ったパティシエじゃない。
「誰かのために、お菓子とかご飯とか作るってこと」
エプロンを着けて台所に立つ、そんな彼女の姿だ。
「別にパティシエとか職人にならなくても、君の欲しいものは手に入る」
「私の欲しいもの?」
「君が作ったものを食べた人の、幸せそうな表情……とか」
目を逸らして、手元の袋のとじ紐をクルクル回しながら言った。
「君の進路だし、僕が首をつっこむことじゃないけど」
僕は一人でいることが好きだ。他人と話すのは好きじゃない。関わるのも苦手だ。
でも、今のこの時間は嫌いじゃない。
何も言わない彼女の前で、何事もなかったかのようにペンに持ち替え、再び問題を解き始める。
裏面の半分までが文字で埋まり、今日の勉強もあと少しで終わる。
「……そんなことで良いのかな?」
不安そうな声で彼女は訊いた。
「……なにが?」
「進路って、そんな簡単なことでいいのかな?」
「好きなことを書けばいい。それに、簡単かどうかは君次第だよ」
じっとプリントを見つめている彼女の背中を、ひと押しするように言った。
「そっか……そうだよね。とりあえず書いてみるよ」
そう言うと、彼女はプリントに記入を始めた。
僕もせっせと問題を解いていく。
少しして、最後の一問が解き終わる直前、彼女が声をあげた。
「よし、書けた!」
立ち上がり、僕にプリントを見せる。
進学、就職と並んでいたが、彼女のそれには大きくバツ印がついている。
そして、職種の解答欄の中には、パティシエでも職人でも、料理人でもなく、『主婦』の二文字が堂々と書かれていた。
「じゃあ、先生に出してくる!」
そう言うことでは、と僕が口を開く前に、彼女はプリントを片手に走り出していった。
まあ……それでもいいか。
ガララと勢いよく開くドアの音が響き、再び教室の中に静寂が訪れる。
……進路、僕も考えないとか…………。
陽も落ち薄暗くなった教室で一人そんなことを考えながら、両面が埋まったルーズリーフとまっさらな進路のプリントを見つめ続けた。
夕陽の照らす教室 しましま @hawk_tana
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