Memes Like the Plague
ゆうしゃアシスタント
ようこそ、スタン魔術研究所へ
穏やかで柔らかい日差しが差し込むキッチン。そこにチョコレートが子気味よく刻まれる音と水がぷつぷつと沸きつつある音、そして少女の鼻歌が心地よく混ざり合う。
そこにやや遅れてオーブントースターの甲高い音が響く。少女は紅い宝玉の付いた杖を杖を手にもって、オーブンに向けて一振りした。するとそれは独りでに開き、中で焼かれていたクッキー達がまるで小鳥の様に飛び上がった。彼らはしばしの間台所を遊覧飛行すると、白く綺麗な皿へと身を落ち着けた。どうやら彼女は少し早めのティータイムを楽しむつもりのようだ。
そんな彼女の家の戸を、客人が今まさに叩かんとしていた。ぼさぼさの金髪にそばかす、それからオーバーオール。なりはどう見ても年端もいかない少年であったが、その眼に宿る光は明らかに年長者のそれであった。
その眼が見据える先はドアベル、低身長の彼にとって決して優しくない位置にあるそれは、まるで彼をあざ笑うかのように見下ろしていた。二度三度と飛び上がり、やっとの思いでベルを鳴らす。しかし返事は帰ってこない。再びぴょんぴょんと飛びベルを鳴らすも、やはり反応はない。
荒げる息を落ち着けた後、彼は入り口のドアに耳を近づけた。そこから聞こえてくるは楽し気な鼻歌。彼はふぅとため息をつくと、ドアに背を向けて一歩二歩と下がった。そして――
「《ストロン》!」
「ぴぅっ!?」
ドアへ回し蹴りを食らわせた。カギはひしゃげ、蝶番は跡形もなく砕け散り、かつてドアだった木片はその場で地に伏せた。そんな惨状に少女も思わず間抜けな声を出し、持っていた杖をその場に落とす。杖はカタンと音を鳴らし、二転三転したのちにようやく止まった。その後、静寂が二人を包む。
「……チッ、これだから人間は」
慣れているのだろうか、そんな悪態をつく彼を彼女はすぐさま客と判断したようだ。すぐに落とした杖を広い、身に着けていたローブを整えてから、改めて彼にこう声をかけるのであった。
「ようこそ、スタン魔術研究所へ」
Memes Like the Plague 【スタン魔術研究所】
世界の理とはかくも緩く決まりのない物であり、この文章を読んでるあなたのように科学を世界の理とする種族も居れば、魔術のようなあなたにとってあり得ない物を理とする種族も存在する。
それらは異なる世界だからこそ成り立つことであり、世界の中で二つの理を同時に持つことはあり得ない。この世界は杖を振れば物は浮くし呪文を唱えれば自らの身体能力を一時的に高めることだってできる。そんな事が当たり前な世界なのである。
もっとも、世界の理が違うからと言って、知的生命体が持つ悩みというのは大体似通ったものである。やれアイツがやれソイツがと争っては武力で決着をつけるといった、まあなんとも見覚えのあるそれから、飼っていたメタ・エターナル・ドラゴンが迷子になったから探してくれないかといったそこはかとなく見覚えのあるそれも、この世界でも相変わらず見ることができる。
どうせさっきの段落は読み飛ばしただろうから簡潔に書いておくと、まあ要するに紛争とかペット探しとか、あなたにとってはもはや見飽きた些細な悩みも、この世界には相変わらず存在するという事である。それ以上でも以下でもない。
そんな悩みに満ち溢れた世界にて、特に魔術絡みの相談に良く用いられるのが「魔術研究所」である。スタン魔術研究所はその中でも一、二を争う手練れで有名……なはずなのだが。
「ばーっかじゃねーの……」
ドアそっちのけで客人に出すお茶をせっせこと用意する少女を見て、少年は独り言ちる。彼は身の丈に合わない椅子に座り、足をぶらつかせていた。
魔術研究とは、この世界に存在する魔術全般に強くなければ到底務まるような職ではない。故に研究者は、人間ではない長寿な種族であることが多い。だが、彼女はどう見ても人間の、それも女子供である。
小間使いか何かなのだろうか? それにしてはどうも垢ぬけておらずあたふたとしており頼りない。それならば弟子か? いや、ここの主人が弟子を取っているだなんて聞いたこともない。
「はい、どうぞ。何か相当思い詰めてらっしゃるようですけど、考えすぎも体に毒ですよ?」
彼が考えを巡らせている間に、彼女は一仕事終えたようだ。紅茶と茶請け菓子のチョコクッキーが宙を舞い、彼の目の前へと差し出された。遅れて少女が身の丈に合わない椅子をよじ登ると、彼の真向かいへと腰を落ち着けた。
彼は怪訝な顔のまま紅茶を口に運ぶ。彼女の幼さからは想像できないほど、丁寧に引き出された茶葉の香り。彼は思わず頬を緩ませた。続いてチョコクッキーを口に運ぶ。甘さ控えめな生地が砂糖たっぷりのチョコレートとよく合う。それに紅茶をあえて無糖で出す事によってチョコクッキーの甘さが引き立ち、紅茶とクッキーの往復が止まらない。人は見た目によらないとはよく言ったものだ。
ふと彼が視線を上げると、彼女が両手で頬杖をつきながら、にまにまと柔和な笑顔を投げかけていることに気づく。ばつが悪そうに視線を紅茶に向けるも、彼の頬は知らず知らずのうちにわずかに紅く染まっていた。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。私はスタンと言います。つまりはこの研究所の管理人ですね」
不意打ちを喰らった少年の口から、紅茶の霧が放たれる。恐ろしく細かい粒子と化したそれは、窓から入ってくる太陽の光を帯びて鮮やかな虹を作り出した。その虹の華やかさとは裏腹に状況自体はひどく凄惨な物であるのは言うまでもないのだが。
「ゴフッ、ゲホッ……あのな、お前、いい加減にしろよ?」
咳き込みながらスタンへと睨みを効かす彼であったが、あたふたしながら稚く粗相の後始末をする様子を見て、悪態をつくことしかできなくなってしまった。
今更だが、彼の名前は「パイア」と言う。なりはもはやクソガキ、もとい人間の子供にしか見えないのだが、一応これでも立派な魔物である。これ見よがしに人間への不満を垂れ流す彼に免じて、ついでにこの世界での人間の扱いについて少々話しておこう。
元よりこの世界には「魔物」と「人間」の二種族が存在した。魔物は人間より数では劣るものの、一体一体の力がとても強力なのが特徴である。人間はその逆として、力では劣るものの数が多いことが特徴であった。
力が弱いものが強いものに抗うには、それ相応の結束が必要と相場が決まっている。だが、かつての人間は、魔物の「所持物」であったのだ。故にそれが適うことはなかった。要するにかつての人類は魔物の「奴隷」だったのだ。
いやまあ奴隷とは言ったものの、皆が想像する過酷な物とは異なる。どちらかと言えば「社長」と「社員」の関係に近かったのは、彼らの尊厳の為に付け加えておくべきだろう。魔法がそこまで発達していなかった時代の仕来りである。現代なら一人で行える作業もほんの数千年前までは頭数が必要だったのだ。
人間は労働力を提供し、見返りとして魔物の加護や知識、そのほか生活の安全を保障してもらう。そういった具合に、お互いがお互いに助け合うような関係であった。魔法が発達した今ではほとんど形骸化し、この仕来りをそのまま用いている場所は少ない。すなわち統治者としての役割は何も魔物だけに限らなくなっているのだ。
その点、パイアは前時代の仕来りに取り残されている魔物と言えよう。人間に対して深いトラウマがあるのか、それとも元ある価値観の問題なのかはわからない。だが現に、彼は人間を見下している。
今の彼自身、物理的にドアホンに見下される立場になっているのには、もしかすればこの人間嫌いがまわりまわって影響しているのやもしれない、あるいは……。
「……して、用件は何でしょうか?」
粗方片づけを終えると、スタンは再び椅子をよじ登りパイアの向かいへと腰を落ち着けた。大人に合わせた椅子と机に、子供程度の体躯がふたつ。傍から見れば不格好で愉快な状況ではあるのだが、生憎当事者たちはこの滑稽さに気づけないようだ。
「用件はこのちまい体についてだ」
訂正しよう、パイアはうすうす気づいているらしい。彼が自身に持つイメージと現状の滑稽さによるズレからか、機嫌を悪くしているようだ。その態度を誇示するかのように眉間にしわを寄せてスタンへと迫った。
だが、その体ではいまいち厳かさにかける上に、私たちの視点から見るとその光景は尚更滑稽に見える。パイアは生憎他人からの視線に敏感なようでその後小さい舌打ちが響いた。
「確かに、相当高度な魔術が用いられているみたいですね」
机の上へとあがり、パイアのほっぺたに触れて魔法の強度を確認するスタン。質が悪いところとして、彼女はこの行動を静かに素早く、そして素で行っている所は特筆するべきなのだろうか。
「こ、こっちくんな!」
いくら年を重ねようとも、異性への慣れは時間では解決できないのだろうか。まるで年頃の少年が如く、顔を深紅のほおづき色に染めると、忙しなく両手を動かして彼女の手を拒んだ。スタンは最初こそピンと来ない様子で彼を見つめていたが、程なくして状況を理解すると、何も言わずにスススッと席へ戻った。
「それにしても……その魔法をかけた人はかなりの手練れですね。魔法の中でも特に上位、『ミーム』の扱いに長けてる者の仕業でしょう」
「……ミーム、か」
「ええ、ミームです。私たちが使う魔法の源にして、祖なるもの」
「なるほどな……そんで、ミームってなんだ?」
こてっ、とコケるスタン。先ほども言った通り、魔法研究は、種類や内容を問わずほぼ全ての魔法を網羅していなければ、大抵務まらない仕事である。その為に依頼人の知識量と乖離することはままあるんだとか。
襟を正し咳ばらいをして先ほどの椅子へと腰を落ち着けると紅茶を一口すすってからゆっくりと説明を始めた。
「ミームというのは、簡単に言うと『言葉が持つ、その言葉の意味の集まり』のようなものです。形だけをアボカドの実に例えるならば、種が言葉そのもので、果肉がミームといったところでしょうか」
「えらく単純だな……」
「何事も基本はとっても単純なんですよ」
「というかなんでアボカドなんだ」
「気分です」
そういうと彼女は杖を一振りして、背後の本棚から一冊の本を取り寄せた。【ミーム学入門】と書かれたその本をつまらなさそうな顔でパラパラ捲る彼女であったが、やがて捲る手が止まるとみるみるうちに嬉しそうな表情へと変化していく。
彼女が目的のページを見つけたことは言わずもがなであるが、そんな目まぐるしく変わる彼女の表情をパイアは終始つまらなさそうな顔で見つめていた。
「ほら、ここです」
ぱたむと倒された学術書から放たれる埃まみれの風圧に、パイアは一瞬顔をしかめる。だがスタンはそんなことお構いなしに話を続ける。
彼女が示したページには「鼻くそでもわかるまほうのしくみ」と明らかに幼児向けに描かれた図が彼の前へと開かれる。
「バカにしてんのか?」
「魔法学で使われる『ミーム』は私たちとは別の世界に生きる人たちが用いる言語の事を指すんですね」
思いっきり無視された挙句。説明を続けるスタンを見て彼は悟った。あぁ、こいつは一度語りだすと止まらないタイプだ、と。そしてそのまま彼女の口からは、もはや雪崩のように七色の単語が放たれていく。その様子を例えるなら、まるで知識の暴走特急といったところであろうか。
「――で、このトムさんのパンツが木端微塵に砕けた事件(以下トムパン事件)を切欠に」
「あー、スタンさん? ちょーっと学が無い俺にとっては難しい話ばかりかなー?」
その暴走特急にブレーキがかかったのはそれから大体15分程度後の事だった。パイアはそれまでずっと青筋を額に浮かばせており、彼女が止まるまでに相当のストレスが降りかかったのは言うまでもない。
「……失礼しました」
「確かにド失礼だったな」
彼女はもう一度咳ばらいをすると、噛み砕いた説明をしだした。先ほどと違うのは彼の額に浮かんだ青筋の数ぐらいだろうか。
「言葉があるならば必ずミームも産まれます。これはどのような生物にとっても変わらず、そして時間や次元を超えても変わることはありません」
「次元……? そういやさっき他の世界がどうとか言ってたな」
「そうなんです。世界は私たちが住むここのほかにいくらか存在する、というのはおそらくご存知かと思います」
「初級学校で習う分野だな」
「ですねー。本来なら異なる世界に干渉することは一部の例外を除いてできないと言われてますが、『世界の距離』が近ければお互い僅かに影響を受けあいます」
「距離」
「そう、距離です。物理的な距離もそうですし、互いの文化が似ているのもまた『近い』と言えるでしょうか。少なくとも向こう側にも本があったりする……らしいです」
「えらく弱気だな」
「さっき言ったように、私でさえ向こうの世界は殆ど干渉したことがないのでわからないものはわからないのです」
頬を膨らませ手足をじたばたさせるスタン。どうやら彼女にとって「知らない」という事は少々気に障る事のようだ。
「わかったから暴れるのをやめてくれ、ただでさえおんぼろな家がお前の体重で揺れて軋んで悲鳴を上げてるじゃねえか」
「……ド失礼ですね」
「お互い様だ」
まるで息の合った双子のように互いに紅茶を啜ってから話を前に進める。
「それで、向こう側の世界には魔法という概念はないそうですが、物語などのフィクションでは魔法の概念があるそうです。こちらが私たちの世界から受けた影響でしょう」
「……魔法が無いならどうやって湯を沸かしてるんだ? 植物でも燃してるのか?」
と、パイアは冗談めかして言うものの、大体その通りである。
「まあ、そこは私たちの常識では測れない物とかがあったりするのでしょう。もしかしたら向こうの世界ではいつでも口から火を吐けるように器官の一つに油袋があるのかもしれません」
そんなものはない。
「一方私たちは向こうの世界の『ミーム』を元に魔法を扱うことができます。例えば、先ほど貴方がどあをぶち破るのに使った呪文の『ストロン』、これは向こうの世界の『Strong』という『強い』を意味する単語から来ているそうです」
「こっちの世界だけ受けてる影響大きすぎないか?」
「そういうものなのです」
「そういうものなのか」
「ですです。ところで、言葉は生き物だ、なんて聞いたことありませんか?」
「随分突飛だな。いくら俺でも生き物じゃないことぐらいわかる」
「比喩ですよ比喩。時間がたつと言葉の意味が少しずつ変わっていくことからそういわれたりするらしいです」
パイアは気まずそうに紅茶を啜ってごまかす。
「だから向こうの世界で言葉の意味が変われば、ミームも変化するので呪文の効果が増えたりすることがあります」
「……そういえば『モエ』って呪文は昔は少し違ったな」
「ですね。昔は少しの間自らの姿を猫耳付きの女の子に姿を変えられる呪文でしたが、今では女の子の格好をした男の子に変わったり、その他の姿に変わることも多いみたいですね。それに呪文の前に『バビニク』と付け加えることで望む通りの姿に変われるようになりました。こちらはなぜか女の子限定ですけど」
余談だが、つい最近ではストロンを果物の搾り汁へと用いると水分のうち9%分だけアルコールへと変化を遂げるとの報告が入る事が多い。手軽に酔えると呑兵衛に好評だとか。
「逆に、この「ミーム」を弄ることによって呪文の効果を少しだけ変えることができちゃったりします」
「待ってくれ、そんなの聞いたことないぞ」
「でしょう。それはそれは高度な術式なので失敗した際のリスクも高いんですよ。だから命知らず以外挑戦しないんですよね」
「高度な……」
高度、と聞いてパイアは少しばかり過去へと思いを巡らす。
『確かに、相当高度な魔術が用いられているみたいですね』
「――まさか!」
「ええ、その通り。今日の夕食はえびふらいれす」
スタンの腹の虫がぐーと可愛らしい音を上げる。あたりに漂うえびのかぐわしい香りによだれをたらすスタンを見て、パイアは思い切り椅子から転げ落ちるのであった。
「もぐもぐ、パイアの察した通り、んぐっ、ミームは個人の名前にも存在する、はぐっ、物なので、むぐもぐ、ミームに手を加えれば、あむっ、他人の姿を強制的に、もごもご、変える事もできちゃいます、ごっくん」
窓から覗く月は、今の時間帯を何よりも正確に教えてくれた。タルタルソースたっぷりのえびふらいを頬張りながら、ご飯をかっ込むスタン。その頭にはどでかいたんこぶがついていた。
「お前、あぐっ、依頼人を呼び捨てにするなんて、もきゅもきゅ、いい度胸してんな、がぶっ、こっちもスタンって、んぐっ、呼んでやろうか、ごっくん」
彼女と同じく、タルタルソースたっぷりのえびふらいを頬張り、ご飯をかっ込むパイア。彼の後頭部にもそれはそれは大きなたんこぶがくっついていた。
「どうぞご自由に。というか何もそんなに強く殴らなくてもいいじゃないですか、鬼ですか? 悪魔ですか?」
「魔物だ」
「そういやそうでした」
「真面目な話をしている時にそんな間抜けな話をされるのが俺は一番嫌いなんだ。おかわりくれ」
真面目な話の最中におかわりを要求する奴も要求する奴もする奴でどどうかと思うが。
「それはこちらの非ですけども……ご飯って大事じゃないですか? 睡眠と食事は生物の三大欲求を担う大切なものですよ?」
「もう一つはなんだ」
「……おほん」
少々朱の混じった困り顔をみせつつ、スタンは話を進める。
「とにかく、これからそれなりの長丁場になるんです。しっかりと体力をつけてもらわないと困ります」
そういいながら、彼女は山盛りご飯とえびふらいを彼の前へと置く。ご飯は艶やかで張りがあり、その香りはかみしめた時の甘みや歯触りの良さまで想像させるほど。からっと上げあがったえびふらいは、尾っぽの鮮やかな赤色だけでなくキツネ色に上がった衣も美しく、また自家製のタルタルソースにごろごろと入った赤と黄のパプリカが、えびふらいにもう一つの衣を着せている。
「がぶり、っていうか、もごもご、なんでお前も、しゃくしゃく、着いていく前提なんだ、ごっくん」
「なんでって……」
と、彼女は困惑気味に答えを返した。それをみたパイアは何かを察した様に、綺麗に平らげられた皿の前で手を合わせた。遅れてスタンも手を合わせる。
「別にお前みたいなガキに心配されるほど俺はヤワじゃないんだが」
「私もヤワじゃないので心配しないでください」
パイアは見るからに露骨にスタンへと不信の目を向けていた。まあ言っちゃなんだが、彼女のそのちまっこい体で信用しろというのは到底無理な話である。ブーメランではあるのだが。
「本当ですから~大丈夫ですから~」
と、冗談めかしつつ手をひらひらと泳がせるスタンだったが、生憎不愛想で冗談の通じないパイアは変わらぬ冷めた目で彼女を見つめていた。
そのまま大体半刻程過ぎた。もともとスタンが言うに「食べてすぐに動くと体に悪いですからね」との事であったのだが、その割にはちょくちょくパイアにちょっかいをかけていた。
トランプを持ってきたり卓上ゲームを持ってきたりとあの手この手でパイアの気を引こうと努力するも、当然のように無視を決めこむ彼の前にすべては無駄に終わった。そして彼女の方も彼の気を引く種が尽きたところで、ようやっと本題を持ち出すのであった。
「んじゃあ、そろそろ行きましょうか……」
「おうよ」
スタンは呆れと不満が入り混じった顔を浮かべながら、椅子から飛び降りた。そして背後にあった本棚の、左から10冊目、下から2段ほどにある本をゆっくりと押し込んだ。
その刹那、本棚は耳をつんざく重厚な轟音とともに変化を遂げる。横板は歪み、本は背板に吸い込まれたと思えば全く別の場所から出現し、かつて整った長方形であった片鱗も感じさせないような前衛的で芸術的な幾何学模様の棚へと姿をかえた。かつて本棚があった部分はぽっかりと穴をあけ、そこからはひんやりと冷たく埃っぽく、鈍重な空気が流れ込む。
生き物は突如としてその想像力を超える事象を目にすると衝撃から思考をやめてしまいがちだが、まさしく彼はその一部始終をまるで牙を抜かれた虎のようにただただ見つめる事しかできなかった。そんなパイアの様子を見るなり、彼女は虚を突かれたような怪訝な顔をしながらこう質問する。
「……男の子ってみんな『こういうの』が好きだと思ってました」
「いや……別に好きじゃないが?」
体裁だけでも取り繕うと虚勢を張るも、扉の向こうから垣間見える自らの存在をも矮小なものと感じさせる重圧には思わず息をのんでしまう。彼はようやく自らにかけられた呪いの重大さに気付いたのである。
ところで、この文章を読んでいるあなたは、本の保存に適した環境をご存知だろうか。一般的には室温はなるべく低め、湿度は程ほどに光量は控えめにするのが良いとのことだ。だが、それを忠実に実行した環境は皆が思うそれよりずっと、洞窟に近しい何かであるという事を、彼女たちを取り巻く環境から理解していただけるかと思う。
無機質な棚は無限の天井に向かって伸び、そのほぼ全てを大小さまざまな本が埋め尽くしている。一つの棚に万は下らない量の本を携えているが、それが数十個で済むとは思わないだろう。何故ならこの書物庫は、私たち人類が持つ知識を漏れなく文庫化した物だからだ。故に、棚も無限の奥行きに呑まれるように広がり、ぴっちりと等間隔に配置されている。棚と棚の間には人が五人ほど並んで通れるほどの幅が空いているものの、この圧倒的な窮屈さにおいては通路以上の意味はなさない。
薄暗く、薄ら寒い中、僅かな灯りを受けてほのかに光るのはパイアの脂汗である。自ずと呼吸は乱れ、歩調がズレていく。今までスタンに化かされていたが、今一度考えれば魔法の根本である「ミーム」に触れるからにはもちろんそれ相応の経験をするのは想像に難くはないだろう。最も、早とちりして忠告の機会を逃したのは、他でもない彼であるのだが。彼はスタンを半ば恨みつつ、脈打つ自らの鼓動をどうにか抑えながら、先方を歩くスタンへと顔を向けた。
「~♪」
だが彼女は相も変わらずこの調子である。ビスケット片手に鼻歌交じりでピクニック気分。先程までとまるで変わりがない。その能天気さにパイアは呆れる一方で、本能的な恐怖さえ感じ始めていた。なぜ、この身を焦がす瘴気の中で表情一つ変えずにいられるのか。
幾度となく問いただそうとしたが、彼のプライドはそれを許さなかった。それはやせ我慢にしか過ぎない。着々と浪費されつつある彼の精神とちっぽけなプライドを天秤にかけた時、そう遠くないうちに理解できる答えを求め安定を図るのはこの世に生を受けた者としては至極当然の考え方と言えるだろう。
「おまえは……」
そうだ、至極当然なのだ。
「何故、平気なんだ……?」
まあそうやって覚悟を決めたところで、質問の対象がいつの間にかどこかに消えてるんだから世話ないが。彼は思わず声を荒げその場へ寝ころがった。叫び声は無限の空間へとこだましては消えていった。自らのプライドは守られたものの、この虚しさと比べるとどうも得したとは思えない。
思えばこの魔術相談所にきてからずっと空回りしてばかり、いや厳密にはもっと前、自分がこの体になる少し前からだろうか。機械的に並べられた棚がいくつも吸い込まれていく天井をぼーっと見つめながら、パイアは自らの過去に思いを巡らす。
パイアが物心ついた時、彼らの家族はそこまで裕福という訳ではなかった。むしろそれとは対極の位置であり、言うなれば貧乏であった。彼の父親は元々膨大な富をもち、幾多もの信奉者を携えていた一国の主であった。しかしそれらはあっけなく崩壊した。騙されたのだ、人間に。
父親は少しばかり人が良すぎるきらいがあった。それが功を奏し、国を発展させたともいえるが、それが仇となりて国を乗っ取られたともいえる。なんとも皮肉な話である。先程説明した通り、一人の指導者は数多くの人間を下に持つことが多い。彼らは力が無い物の、数が多い上にある程度の知恵がある。故により大きい力を持つ魔物に畏敬の念を抱き易いのだ。
だが、もし「力を携えた人間が現れたらどうか」、それはパイアの家族を見れば一目瞭然であろう。人を操るには、安寧か恐怖のどちらかがあれば十分である。だが、安寧は恐怖には打ち勝てない。より大きい力、狡猾な知恵、そして暴力的な恐怖をもってして彼らはその地位を追われることとなり、その後、彼らの家族は散り散りになってしまった。魔物としては年端もいかないパイアも例外ではない。突如として社会へと放りだされたパイアは、盗みで飢えを凌ぐほかなかった。決して他には自慢できないような暮らしを続けて数か月は経った。
この近くに宝物庫があるらしい、彼がそう聞いたのは研究所の扉を叩くほんの数日前の事であった。元より彼は器用ではなく大雑把でいい加減な上おまけに脳筋な性格であり、身を隠すなどもってのほか。身の丈に合った対象しか狙った事が無かった。だがここで聞いたのも何かの縁、偶には背伸びするのも悪くない。そう考えたのだそうで。
最もそんな腐れ縁は無い方が億倍マシだし、好奇心は猫をも殺すなんて言葉もあるのだが。実際この悪縁が後に彼へ災いをもたらすのだが、縁というよりかは――まんまと天の罠に嵌められた、とでも言い換えられるのかもしれない。
隠密行動が絶望的に苦手な彼ではあったが、なんと奇跡的に警備をかいくぐり、宝物庫の中へと入りこむことができた。これにはそもそも、警備がド阿呆で手薄だったのが影響しているのだが、運も実力のうちである。
類は友を呼ぶと言ったところか、世界中の金銀財宝が彼の性格よろしく大雑把にぶちまけられた中で、一つだけ小綺麗な扉が彼の注意を引いた。その扉を、パイアは大変丁寧に蹴破ると、我が物顔でその内部へと踏み込んだ。
中はひんやりと冷たく薄暗く、そして前の部屋からは考えられないほど、綺麗に整理された宝石達が、左右のガラスを隔てて彼を出迎えた。それもただの宝石ではない、なんと中に実在する魔物のミニチュアが入っているのだ。古今東西空陸海、ありとあらゆる場所に生息する魔物を精巧に模しており、それらが一匹ずつ綺麗な結晶へとパッケージングされている。その欠片にはもはやある種の「生命力」でさえ感じられた。
……のだが、彼にはそれらが単なる子供騙しのおもちゃにしか見えなかったらしく、大層つまらなさそうに、死んだ魚の目をしながらそれらを脇目に歩を進めていた。芸術とは、理解できる者に対して開かれていればそれで十分であり、何もパイアが理解できなくとも問題など決してない物である。だが、そんな彼だからこそ嫌でも「理解」出来てしまう宝石を目の前に、彼の瞳孔は大きく開いてしまう。
その紅色に輝く宝石に、胎児が如く手足を折りたたみ眠りについていたのは、間違いなく彼の両親であった。思い入れなど何もなければ、同じ種族が入った宝石など只のダブリにしか過ぎない。だが、改めて別の種族の宝石も見てみると、やれ羽が小さい、やれ体が一回り大きい、やれ角が一本多い……そう、これらは只の宝石でもなければ、もちろんおもちゃでもない。それは「魔物の檻」に他ならない。無知な人間は、この忌々しい檻を琥珀か何かと思い込み、大金をはたいて買っていくのだ。
それに気づいた瞬間、彼はその身体を自ずとショーケースへぶつけていた。だがいくら叩いても軋みすらしない、響くは鈍重な騒音のみ。何回やっても同じこと、連なるは彼の身体の軋みのみ。隠密行動によって、せっかく手に入れたチャンスであろうと、このような事をやっていればすぐさま無へと帰す。そんなことは誰でもとわかる事だろう。そして、彼は警備に見つかったその時に、「親たちの檻を置いて逃げる」以外の選択肢を残されてなかったことに気付いた。
けたたましくなり続ける警鐘の音。鈍感な彼であろうと、廊下を走る人間どもが、血眼となって自分を探している事にはもちろん気づいていた。悪運だけは強いのか、彼は幸いにも気づかれずに、浮遊魔法を用いて逃げることができた。
だがその刹那、彼の背中に何か鋭い物が刺さった。ちらと後ろに目をやると、別の窓よりローブを着た怪しげな老婆が、こちらを見てにたりと笑っているのに気づく。その手に握られた銀色の筒は、パイアの背に向かって伸びていた。――吹き矢、その三文字が脳裏に浮かぶと同時に彼はスピードを上げた。無数の矢が身体を掠める中、森に入ってどうにか追っ手を撒くことに成功する。その森の中で猛烈な疲労感に襲われたパイアは、そのまま倒れるように眠りへとついたのであった。
「……それで目が覚めたらその体になっていた、ってことですね。なるほどなるほど」
背後から聞こえる声に、彼の意識は現在へと引き戻される。声のする方向へ顔を向けると、そこにはまるで英国が如く、テーブルに本を積みつつ紅茶を嗜むスタンの姿があった。そのテーブルと椅子とティーポットはどこから持ってきたのやら。
「お前はバケモンか何かか」
思わず本音がこぼれるパイア。このような回想でよくありがちな「途中より自ずと口に出してしまっていた」なんてことはない。文字通り突然湧いて、当然のように脳内モノローグを踏まえ会話してきたのだ。至極真っ当な反応である。
彼の反応から程なくして、スタンはテーブルに積んであった本を全て持って立ち上がる。その直後、テーブルセット一式はまるで地面に吸い込まれて姿を消したが、まあこの場においてはそれすらも些細な事でしかない。
「失礼失礼、ログを見てたんです」
「ログ?」
「はい、何かしらの魔術を用いてミームに変更を加えた場合、こういう本にその履歴が刻まれるんですよ。パイアがモエを用いて自分の姿を変えて侵入したことも、ストロンで宝物庫のドアを蹴破ったことも分かりますし、ガラスが割れるたびに魔法を発動させ、『壊れる』というミームを無かったことにさせてたのも全てわかります。それらをつなぎ合わせれば、何が起こった読み解く事なんて造作もありません」
「ミームって……そんなに軽々しく変えられるもんじゃないんじゃねーのかよ」
「いえ、ミーム自体は一次的なら誰しもが簡単に変えることができますし、だからこそ元に戻すのも容易なんです。というかそれが『魔法』ですからね。何なら先ほどサラっと調べた際に戻せればとっくに戻してました」
「高度、ってのはそういう事か」
「ええ、私たちが持つミームというのは、まさにここにある本棚たちのような無限の知識から受信しているにすぎません。その受信したミームに手を加えることで魔法を使うのです。しばらくすれば本家本元から、再びミームを受信するので魔法の効果が切れるんですね。そしてパイアの場合……その『元』の周りで何かしらが起こってるが故にこのような事態に陥ってしまっています」
「分かったような……分からないような」
彼女が言うには、どうやらその「宝石」らも同じ様に、魔物らが持つ根本のミームが書き換えられることによって、物質にされてしまったものなのだという。やろうと思えば人間も宝石に変えられるというが……中身に人間が閉じ込められた趣味の悪い宝石など需要は無いだろう。そう、パイアにしては珍しく、意図を寸分の狂いもなく汲めたという事でもあるのだ。おめでたいね、今夜は赤飯でも炊こうか。
「ただ……一つ訂正しなきゃいけない事があります」
「どうしたいきなり、お前にしては珍しい」
「先程私は貴方にかけられた魔術を「相当高度な魔術」と言いましたがアレは間違っていたという事ですね。ログを見る限り、元々吹き矢には対象を宝石へと変える魔術が込められていたみたいです。でも、処理が終わる前に同じ魔術がかけられた痕跡があって、それが原因となって、変化先が宝石から人間になってしまったようです。これじゃ私の足元にも及びません」
「足元って……」
思わず半笑いになりながらスタンの足元を見るパイア、もちろん彼なりの皮肉であることは言わずもがなである。だが、スタンのちまい体を見上げるように眺めていると、彼は今まで気付かなかったことに気付く。
「……どうしました?」
先程までのスタンと比べて、明らかに「眼が違う」のだ。正確にはその目に宿している光が違うと言ったところか。よく考えてみれば、この場所に来てから彼女が纏っている雰囲気も、何もかもが明らかに違う。なりはどう見ても年端もいかない少女だが、その眼に宿る光は明らかに年長者の――
「というか、いくら相手が極悪人だろうと盗みはいけませんよ盗みは。うりゃ」
「ぐえっ!」
そういうとスタンは先程からずっと持っていた、ログよりか薄めの本でパイアを天誅した。角じゃない辺りが小さじすりきり一杯のやさしさである。
彼女はその本をパイアへと渡した。
「なんだこれは」
「おそらくパイアには一番必要な物だと思います。中身は理解できなくても大丈夫なのでとりあえず持っててくださいな」
そういうと彼女は再び前へと歩き始めた。パイアは時折先ほど受け取った本を、開いてはすぐに閉じることで暇をつぶす事が出来た。どうせなら読めればもっと時間は潰せたのだが、彼にそこを期待してはいけない。というよりかそもそも書いてある言語があまりにも古く、この世に生を受けて幾千年しか経ってない彼には、理解ができない代物であったのが主たる原因なのだが。
「そういや、さっき聞き逃したんだが」
「なんでしょう?」
「お前はなんでこんな場所で堂々としていられるんだ? こっちは冷や汗だらだらで歩いていたんだが」
「でしょう、だからそれを渡したんです。その様子だともう大丈夫そうですね」
「答えになってない」
「その本もミームの一つなのですが、他の本と違って『この本棚の仕組み』が書かれた本なんです。さらに持ってるだけで、なんと勝手に知識が頭に入り込んでくるおまけつき。これが作れるのは本当に一握りの人だけなんですよ?」
彼はなお怪訝な顔をスタンに向けた。
「人でも魔物でも、自分の理解を超えるものをうっかり見てしまうと気が動転してしまいます。これは仕方のない事なんです。でも理解が及ばないのが原因なら、及ばせればいいんです。その本はパイアの様な初心者に向けて書かれた入門書の様な物だと思ってください」
言われてみれば、と彼は自らの額に手を置いた。なるほど、汗はすっかり引いてるし動悸もしない。健康そのものだ。
「ここでは、あらゆるミームを本として閲覧したり書き換えたりできますが、あくまで仮想的な箱にすぎません。書き換えたミームを実際のミームへ置き換える際には、一冊ごとにそれはそれは煩雑な術式と儀式が必要なんですね。なのでぶっちゃけここにある本も偽物に過ぎないので、この図書室が大爆発しても大丈夫なのです」
自分でダウンロードしたファイルを好き勝手に編集したところで、ダウンロード元のサイトには一切影響を与えない、というのはおそらく理解できるだろう。この部屋に置かれている「ミーム」達も、本物からダウンロードしたコピーに過ぎない。故にここにある本たちをいくら引き裂こうと、燃やそうと、噛みつこうと、また新たにダウンロードすれば問題ないのだ。最も偽物だと言ってぞんざいに扱っていい道理も、大爆破させていい道理もないが。
編集したミームを本元に反映させる方法は存在するが、先程スタンが説明した様にミームは魔法の根本。故にいたずらな編集を防ぐためにも、普通は反映にとてつもない労力が必要となっている。ミームをもっとかみ砕くならば、「編集の反映にとてつもない数の認証が必要なWikiサイト」と形容するのが一番だろう。
この世界において人間や魔物、植物や動物、機械に材料まで……存在するものは全て「ミーム」を持っている。あるいは「ミーム」があるからこそ存在が担保されているともいえる。
ミームとは、その物質がどういう役割を持つか、硬いか柔いか甘いか酸っぱいか、味噌汁はなめこ派かしじみ派かまで。様々な情報を事細かに記されたデータの塊であり、普段は干渉を受けないように遠く離れた、別の世界に保存されている。彼らはその別の世界から、定期的に「ミーム」を受信し続けることでその存在を保ち続けているのだ。
しかしこの受信は、そこまで頻繁に行われる訳ではない。この世界で魔法と呼ばれる諸々は、その受信したデータを一時的に書き換えることにより成立しているのだ。姿を変えたいのなら姿に関するデータを、力を増強させたいのなら力に関するデータを書き換えればいい。
そして問題は……「宝石」やパイア自身の事だ。彼らにかけられた魔法が解けないのはそもそもの根本から書き換えられているから、あるい本元から送信されたミームに途中で何かしらの細工が施されているからだろう。元が間違えていれば自然と受け取るデータも間違えたものになる。故に彼らの姿は変えられたまま元に戻らないのだ。あ、ちなみに筆者はしじみもなめこもどちらも好みである。
「なるほどな……スタンの説明よりもよっぽどわかりやすい」
「ド失礼ですね」
「お互い様だろ」
この本棚からパイアのミームを探し出し、書き換える。言葉にすればこれほど単純なのにその労力は果てしなく思える。それもこれもこの無数の本からたった一冊を抜き出す事が一番難しいと感じるからだろう。事実何のあてもなく探し出すのは無理に等しい。何故ならこの本棚は世界の知識そのものなのだから。
しかし彼女は相も変わらず歩みを進める。まるで道が見えているかのように。しばらくスタンの後をついて行っていたパイアであったが、不意にスタンが歩みを止めると同時に彼もまた歩みを止めた。怪訝な顔をしながら前方を見つめるパイアに、スタンはスキップするように振り返るとこう話した。
「そういえば、先程彼らの技術を私の足元にも及ばないとは言いましたが、だからと言って楽に済むかというとそういう訳ではありません」
――パイアは気づく、彼女の背後より突如として黒く巨大な影が現れた事を。そしてそれは今まさに彼女を喰らわんとしている事を。
「危ねぇ!」
刹那、凄まじい風圧がパイアを襲う。咄嗟に腕で顔を覆うものの、子供ほどしかない彼の体躯はバランスを崩した。
そのまま数メートルほど体の自由を奪われ乱暴に引きずられるも、程なくして風は収まり、彼は土埃が舞う中再び立ち上がった。
彼が立ち上がった時、その巨大な影は――にたりと笑ったような気がした。
視界が悪く、不気味に静まり返った中でもスタンを襲った黒い影はその規格外の巨体故にはっきりと視認することができた。
大体数十メートルほどはあろうその体には硬質な鱗と体躯に見合っただけの翼を携えているのが見えた。その姿はまさに竜と呼ぶのにふさわしい。その体をこの狭苦しい部屋のどこに隠していたというのか、いや、ミームの知識を叩き込まれたパイアの脳内にはもう一つの可能性が浮上していた。
エディット・ロック、いわゆる一種のセキュリティである。いくらミームを編集したところで、再び差し戻されては何の意味もなさない。ならば編集しようと試みた際に、ガーディアンが場に出現する罠をしかける事で、牽制と撃退の効果を望めるといったものだ。最もこれは……その目的に対していささかオーバースペックな気はするが。
竜は荒ぶる息を抑え、眼前の獲物を見据える。見据えられたパイアに今の状況が分からない訳は無かったが、彼に残された選択は「ここで命を散らす」か「竜と闘う」以外にはない事もまた彼は理解していた。規則的に並べられた本棚は方向感覚を失わせ、もはや彼には自らがどこにいるかでさえ把握していない。逃げようにも逃げ道が無いのだ。
彼は状況を把握すると大きく舌打ちをした。ある程度一筋縄では行かないと考えていたとはいえ、差し出された相手は彼の想定を大幅に上回っていた。
「……ですので」
聞き覚えのある声。パイアは目を見開き声の聞こえた方を向く。時が経ち、埃がある程度視界が開けると今度こそ正しく状況を把握することができた。
「――油断しているとこうやって不意を突かれかねません」
僅かな光を跳ね返し、赤く光る刃。彼女が持っていた杖の宝玉が細長く伸び、刀身と化していた。そのちまい体に不釣り合いな日本刀は、目測だが大体彼女の身長より一回りは大きく思えた。
驚くべきは彼女はその刀を片手で持ち、なおかつ襲いかかった竜の牙を受け止めていたのだ。竜の牙に刻まれたヒビからどれほどの衝撃を彼女が受け止めたかは容易に想像がつくが、それと同時にパイアの想像の範疇を超えていたとも言えようか。
彼女はパイアに向けて微笑を贈ると、その刃を返し牙をいなす。それと同時に体をひねり刀に遠心力を乗せ、竜に向かって思い切り振りぬいた。竜は咄嗟に後方へと飛び、切先は惜しくも宙を舞う。
轟音と共に翼やその風圧に押しのけられた本棚がドミノのように連鎖反応を起こしていき、この図書室にすり鉢状の大きな花を咲かせた。まさにこれより始まる死闘に、うってつけの闘技場と言ったところか。上段に置かれた本たちが席を失って、重力の赴くがままに落下しては地面に刺さる。中には落ちる際の抵抗に耐えられず、自壊する本もちらほらと。そしてそのページが雪が如く降り注ぐ。
ページが舞う中、彼女はおもむろに刀を地面へと突き刺した。それに呼応するように、彼女を中心に紅色の同心円がいくつか展開される。遅れて円に沿って紋様が記述されると、それらの輝きは一層増していく。
「《スタン・リ・ローダ》」
彼女の詠唱はとても短く一瞬で済んだが、それに反して周りに与える影響はとてつもなく派手だった。
まず最初に魔法陣を中心に風が起こる。周囲に落ちていたページが彼女を取り囲むように引き寄せられ、魔法陣へと集う。それと同時に彼女の体がふわりと宙に浮き、ローブが解かれる。すると、露わになった身を纏うように、様々な本ののページが巻き付いた。そして徐々に彼女の体は変化していく。少女が如き彼女の体躯は、秒を刻む毎に急速に成長していく。腰は括れていき、胸は膨らむ。ショートだった髪の毛がロングへと変わると、彼女を覆っていたページは粉々に砕け散る。新たな衣装を身に纏ったスタンの腰に、先程のローブがスカートのように巻きつけられると、彼女は再び地面へと足を付けた。ぐっと背伸びをして先程突き刺した刀を抜き取ると、その切先を竜へと向けた。
「知識は力なり」
そう短く言葉を紡ぐと、先程までとは違う、妖艶で大人びた不適な笑みを竜へと向けた。
「……認めたかねえが、確かに本気で油断してた」
パイアはそうぽつりと呟く。竜の登場、退避、それからスタンの変身と、合計三度の風圧に姿勢を低くして耐えることは出来た。だが、彼の体中に紙が吹き付けられ、もはやミイラの様な姿になっていた。ぶるぶると体を震わせて振りほどく様子を見たスタンは、とてとてと幼げの残る急ぎ足でパイアへと近寄る。
「お手」
「俺は犬じゃねえ」
と言いつつも彼女の手を取り立ち上がると、スタンに向けて質問を投げかけた。
「お前、サプライズ好きだろ。よく人にクソガキとか呼ばれてないか?」
「単純に今まで披露する機会が無かっただけです。ほら、能あるアレはアレをなんとか」
「どこか抜けてんのは相変わらずだな……てかお前いつもあんな奴とやりあってんのか?」
「いえいえ、あんなの数年に一度あるかないかですよ」
答えると、彼女は視線を竜へと向けた。竜もまた丁度姿勢を整え、その闘気に満ち溢れた瞳を彼女らへ向けていた。戦闘開始まで秒読みと言ったところか。
「――ですがこれからは月一くらいになりそうですね」
彼女がそう続けたと同時に戦いの火蓋が切って落とされた。猪突猛進を仕掛ける竜をスタンとパイアは二手に分かれ避ける。猛烈な土埃と共に竜はブレーキをかけ、次の獲物を見定める。その視界に捉えたのはパイアだ。
竜は小さく跳ねるとその場で宙返りし、勢いをつけてパイアへと飛び込む。その鋭い爪で彼を引き裂こうというのか。向かってくる竜にパイアは敢えて突っ込み、下へ滑り込んだ。
「《ストロン》!」
上半身をバネに、彼の眼前を通り過ぎるその柔らかな腹部を蹴り上げる。確かな手応えを覚えるも、竜は臆せずに切り返して再び彼へ滑空し始めた。パイアの着地を狙う算段なのだろうか、それとも竜の闘争本能が計算せずとも、闘いの最適解を導き出しているのだろうか。
その瞬間、竜の首筋へスタンの刃が突き刺さった。
「図書室で走り回っちゃダメなんですよ? ご存知でしたか?」
宥めるように、いたずらな笑みを浮かべるスタン。突然の激痛に呻き、暴れ狂う竜。程なくして彼女は振り落とされるも、華麗に着地し刀に付いた血を振り払った。急所を突かれよろめきながら、竜は未だ本の舞う天井へと上昇を始める。
「なるほど、いい判断ですね」
「褒めてる場合か」
彼らは共に頭上を見て、戦況を分析していた。そして時を同じくして竜もまた戦況を分析していた。先ほど竜がパイアを狙ったのは手練れているスタンを避け、いち早く戦力を削ぐことを目的としたからだ。だがパイアは闘いに慣れていた上に、スタンはまるでテレポートするかの様に距離を詰めてきたのだ。
竜はその手品の種については大方予測がついていた。刀だ。竜は彼女よりほんの一瞬早く、刀が先に飛んできたのを見逃さなかった。大方、刀に何かしらの魔術的な細工が施してあるのだろう。彼女はその刀が飛んだ場所へと瞬時に移動することができるのだ。それに加え竜の牙を受け止める彼女の腕力をもってして、縦横無尽に飛び回ることを可能とさせている。
地上では二人を同時に相手せねばならないのならば、一対一の状況へと持ち込めばいい。おそらく片方――パイアの事である――は彼女とは違い、地に足を付けた戦い方しかできないのだろう。そう竜は考えた。パイアを始末出来れば、すべての能力を彼女の対処へと注ぐことができる。竜には人間と違い火球を飛ばすための油袋という器官が存在する。つまりは遠距離から一方的に攻撃ができるという訳だ。
竜は大きく息を吸い込むと、地上の二人に向けて特大の火球を打ち出した。煌々と輝き、紅色と橙色のグラデーションを伴いながら火球は地上へ迫る。
「だーかーらー!」
だが火球は地上へと届くことは無かった。半ば呆れを含む怒号と同時に、突如として姿を消す火球。よく見ると、火炎がスタンの持つ刀へと吸い込まれていくのが分かる。程なくして「すぽん」と間抜けな音と共に全ての火炎を吸収しきると彼女はこう続けた。
「図書室で火を使うとか正気ですか! 常識というのをご存じないんですか!」
女子力のかけらもないガニ股と共に、竜を指さすスタン。竜に対して常識を説くその姿は、常識とはズレた行動をとっていた彼女自身と相まって、いささか滑稽に思える。だが竜はそれ以上に、自らの予想を裏切られた事に酷く動揺していた。そう、その場にはパイアが居ないのだ。
ではパイアはどこへ消えたのか、その答え合わせと言わんばかりに、竜の頭上で本が弾ける音が聞こえる。パイアは彼女が時間を稼いでいる間に、降り注ぐ本の雨を足場にして高く高く上っていたのだ。
最後の本が弾けると同時に彼は飛び出し宙返り、竜の首めがけてかかとを落とした。一方スタンは刀を竜の腹めがけて投げると、その刀を軸に移動し飛び込んでいた。深手を負った首に追撃が与えられ、骨が砕け柔くなった腹部を刀が切り裂く。
「ギュアアアオオオオオ!!」
落雷が如き断末魔が図書室を駆け巡る。次の瞬間、竜の体はSの字にひん曲がったかと思えば、ただの紙の束となって砕け散るのであった。
「よっ、と」
「ぐえっ」
先程まで降り積もっていた本の代わりに、かつて竜だったものが辺りへと舞い散る。黒々としたハードカバーが無いだけで、紙吹雪がここまで儚く見えるとは誰も思わなかっただろう。最も生きているうちに無数の本が空から降ってくる状況なんて出会う方が珍しいのだが。
スタンは微笑を浮かべ、ふわりとスカートを浮かせながら着地した。顔にかかったその長髪を払い、持っていた刀を杖へと戻すと、自らの懐に仕舞った。その動作一つ一つが上品で、先程までの豪快な戦い方や、あどけない少女の姿からはとてもじゃないが想像できない。あ、ちなみにパイアは顔面から地面に突き刺さりました。
「収穫」
「やかましいわ」
すぽん、と先程どこかで聞いた間抜けな音と共にパイアは地面から引き抜かれた。その顔はまさに収穫されたてのじゃがいもが如く土まみれであったが、パイアはすぐさま両手でその土を拭った。
「どうやら、あの竜〈ロック〉自体がパイアのミームに作用してたみたいですね。このタイプだと相手にかけるのは簡単なんですが、その代わりにロックが解除されるのと同時に、魔法も解けちゃいます。しかもそもそも数年たてば魔力が尽きて、自動的に解けてしまうんですね。つまり元に戻す儀式が必要ない為、解くのもずっと簡単なのです。やはりこの魔法を使った老婆とやらは、私の足元にも及びませんでしたね」
「なるほど、為になる。できればそのご高説を俺を降ろした後にしてもらえればなお良かったな」
彼女の解説が終わった後、ようやく彼は上下逆の状態から解放された。服やズボンについた泥は気にせずにすくっと立ち上がると、彼女に向ってこう質問した。
「ところで……魔法が解けたってことはもう俺は元に戻れるってことか」
「ええ、後はパイアが呪文を唱えて再びミームを受信すれば本来の姿に戻れますよ」
「そうか。んで、なんて呪文だ?」
「《リ・ローダ》です」
「……だよな」
知っていた上でもう一度聞いたのか、それとも何か疑問を持っていたのか。いささか腑に落ちない様子だったが、程なくして彼はゆっくりとその呪文を唱えた。
「……《リ・ローダ》」
次の瞬間、彼の体はまばゆい光に包まれていく。もはや体の輪郭線しか視認できなくなると、少し時間を置いてからゆっくりと変容し始めた。そう、人ならぬ異形の怪物へと。
両腕はミシミシと不快な音を立てながら蝙蝠のような皮膜を持つ翼へと、足は企鵝が如き三本爪へ。ああ、その鋭い爪で今まで何人殺してきたというのか。足に注意を取られているうちに、体は丸を基本とした。まるで饅頭が如き容姿へと変化を遂げていた。その柔軟な頬は人を惑わすには十分すぎる。そして彼の変身は、上部に二本の角と臀部に一本の尻尾を生やしたことにより、終わりを告げるのだった。
「世話になった」
淡白にそう一言だけ告げると、彼は空を飛んでこの場を離れた。その風貌を見るに、元々空を飛び移動する種族だった事が伺える。みるみるうちにスタンと激闘の跡が小さくなっていき、遥か遠くにある出口を目掛けて羽ばたき続けた。
その直後である。彼の近くを紅色の宝玉を携えた杖が通り過ぎたのは。それを軸とし、スタンがテレポートしてきたのは。
「待たれい」
がしっ。
「ぐあああああああああああああああ」
スタンはバスケットボール並みの大きさになったパイアを片手で掴んでいた。その後、空中で何回転かすると華麗に着地を決めた。
「おお、すごくむにむにしてる」
彼女は片手で持っていたところを両手に持ち変えると、気の赴くがままにパイアをもちもちと弄び始めた。
「なんだお前! アレか! バケモンか! 一旦目を離すといつの間にか背後に忍び寄るタチ悪いタイプの!」
「これからどうするつもりですか? また盗賊に戻るんですか?」
「は? あ、いや、……まあそのつもりだが」
「なら私はこのまま離すつもりはありません。揉み心地も最高ですし」
「ひゃみぇろ! わかった! わひゃったから!」
そう聞くと、彼女は素直に両手を放した。
「とは言ってもよ、こっちもここに来るまでに相当あちこちに喧嘩を売ってきちまったもんで、今更真っ当な所なんて」
「でしたら私の助手をするのはいかがでしょう?」
「あ?」
「めちゃくちゃ嫌そう」
だが彼女はそれを無視してこう続けた。
「私はずっと、宝石の件について追ってきました。正確には、ミームを不用意に書き換える者たちの動向を探っていたところです。そして、私はようやくその手掛かりを掴めました。それがパイア、貴方です」
「つまり、情報と引き換えに俺の身の安全を保障すると?」
「はい」
パイアは少し考えこんだ。ちなみにその最中も彼は頬をもちもちと弄ばれ続けている。
「あ、あと見るからに貧乏で報酬金払えそうにありませんし」
「ド失礼だな」
「お互い様です」
もとよりそれを踏み倒すつもりでの先程の逃走でもあったのだが、こうも簡単に捕まえられては仕方がない。
「あとほっぺの揉み心地がさいこうですし」
「お前どっちかというとそれ目当てだろ」
ええ、と軽く受け流したのちに柔和な笑みを彼女は浮かべた。こうも馬が合わない人物は魔物としては、幼いパイアにとっては初めてであった。だが、それと同時にどこか懐かしく、ここ数年で触れることを許されなかった気持ちを、その表情が呼び起こした。
「……仕方ないか」
そうぼそりと呟くと、彼は右の羽を彼女の前へと差し出した。スタンは首をかしげる。
「そういえば、上の名前は言ってなかったな。俺は『パイア・ヴァン』、見ての通りの魔物だ」
それを聞くと彼女は意図を組んだのか右手を差し出して、彼の羽を握ってこう言うのであった。
「ではこちらも改めて……私は『ミューア・スタン』、ミームを専門とする魔術研究師、管理者〈ミームキーパー〉です」
Memes Like the Plague 【スタン魔術研究所】
〈ようこそ、スタン魔術研究所へ〉
「なあ、スタン」
図書室の帰り道、不意にパイアが声をかける。
「なんでしょう?」
スタンは相も変わらず気の抜けた声色で応えた。その姿は子供に戻っていた。ちなみにパイアがそのままなのは言うまでもなくパイアのもちもちほっぺを堪能したいがためである。
「お前、魔物じゃなくて人間なんだよな?」
「ええ、そうですけど」
「何年生きてるんだ?」
「とは?」
「人間のたった百年ぽっちの寿命で詰め込める知識じゃないだろ、こういうのは」
と、色とりどりの背表紙を横目に彼はそう問う。それに対してスタンは少し困った顔をするが、程なくしてこう答えた。
「さあ……一万年から先は数えてません。あ、一万年生きてまんねん! みたいな?」
頼むからクソみたいなダジャレで締めないでくれ。
Memes Like the Plague ゆうしゃアシスタント @yuusyaasisutanto
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