夜明けの魔法使いを探して。
野秋智
夢から目覚めるために。
悪夢は唐突に始まる。
恐ろしいことが起きて、何もかもを失う事態が目の前に迫る。ここにいたくない、夢なら早く覚めてほしい――矢野要がどんなに願っても目覚めは遠い。
いつもそうだ。
要は今、高校からの見慣れた帰り道を歩く。冬の大三角と散らばる星々の下で、同じ高校に通う幼馴染の女の子が隣にいる。
弓倉栞との会話は尽きなかった。要と栞が買ったNC社の限定スニーカーの素晴らしい履き心地について。矢野要が気になっている有名な魔法使いについて。子どもの頃の思い出について。英語の時間にあった小テストに手応えがまるでなかったことと、弓倉栞の勉強方法について。
それから2人で、同じマンションのエレベーターに乗った。
栞は7階、要は11階で降りる。栞が門番のようにドアの傍らに立つ。気心の知れた友人同士でも押し黙る仄暗い空間が、音を立てて動き出した。
沈黙を破り、栞がつぶやいた。
――ねえ、要。
一つだけ、いい?
今日はもう、絶対に、ぜったいに、家から出ないで。
約束して。
一生のお願いだから。
栞の様子が変だ。一生のお願いにしては消え入りそうな声。ドアガラスに反射する彼女の姿は俯いている。要が顔色を伺うと、さっと目を背け、長い黒髪と首に巻いたマフラーの膨らみが覗き見る隙間をなくした。
ぽーん。7階です。エレベーターのドアがそっと開いた。
栞が降りて、手を振る。“またね”。要も手を振った。心がざわついた。
閉じたエレベーターが、また昇り始めた。
スピードがどんどん上がって――11階には着かなかった。
頼んでもいない上の階層へエレベーターは登り続け、止まる気配のない異常な速度が密室を大きく揺らし始め、要は自分が何か恐ろしいことに巻き込まれていると悟った。「開」や「閉」、押しても何も反応しない。焦る要を
このマンションではありえない26階で、照明が消えた。
暗黒の中で恐ろしい軋み音が増大し、天井のような何かにぶつかって、
エレベーターが崩壊した。
轟音と共に命綱が断ち切れた。
落ちる。常闇の密室を包む致命的な浮遊感の中で、要は悲鳴をあげた。
地面に叩きつけられる想像より前に、重力の渦の中で要は、
目が合ってしまった。
エレベーターの中に、黒い魔物がいた。
ずっと後ろにいたのに、気が付かなかった。
魔物は巨大な手で要を
ぐちゃぐちゃに噛み砕かれた。
*
「お兄ちゃんおはよ。
――なにその顔。
ねえ、プリンどこにあるか知ってる? 3個入ってるやつ」
「ごめんな」
「は?」
兄に真実を即答されたパジャマ姿の妹(12歳)が、スプーンを片手に絶句した。
「あれうますぎてさ――昨日ぜんぶ食った」
「は〜!?」
ねぇ、今日の帰りにスーパーで同じやつ絶対買ってきて。忘れたらあたし怒るからね――まくしたてながらシリアルを引きずり出す妹と、その妹のピアノの演奏会があるために慌ただしい母の足音。
矢野要が迎えた12月15日の朝、旭日テレビの「まいあさテレビ」が点いている。忍者をモチーフにしたマスコットが、『もうすぐ7時でござる!』と画面に煙玉を投げつけ、朝から視聴者を煙に巻く。
酷い夢を見た。
そのせいか早起きできなかった。矢野要は『早寝早起き魔物知らず』を信条とし、幼い頃から夜明けと共に1日を始めてきた。日が昇っていては大遅刻だった。
要が適当なぶどうパンを食べようとすると、まいあさテレビのアナウンサー山下真一(32歳・既婚)が、心配そうにニュースを読み上げた。
『――
今日未明、東京都
この魔震によるけが人はいませんでした』
テレビが見慣れた街並みを映し、瓦作りの屋根が本当に飛んでいた。
「えーっ。ここ通ったことある!」
妹が身を乗り出す。屋根はかまいたちにやられたかのように真っ二つに裂かれ、車道に落下している。誰も下敷きにならなかったのは不幸中の幸いだった。
「北都区ってウチじゃん。魔震、気づかなかったぁ」
要がふと、
「昨日はなんか俺、」
「ん」
「――嫌な夢を見たんだけど、これかなぁ」
「ふーん」
妹は相槌だけを打って、詳しくは聞かない。よくある話だからだ。魔震で浮き上がったマナが睡眠中の脳みそを覚醒させ、悪夢を見てしまう人は多い。
要自身、悪夢の内容の輪郭は既に失っていた。
ニュースは天気予報に変わる。今日は全国的によく晴れた1日となりそうだ。
少し大きめの魔震が起ころうが今朝の要には関係なかった。
新宿に行く。長蛇の列に並んでも12時から販売されるNC社の限定スニーカーは必ず手に入れる。決意を胸に秘め、夜型の幼馴染を朝から行列に巻き込むために11階から7階へ階段で駆け下りる。
701号室のベルを3回鳴らして矢野要が来たことを知らせると、ドア越しに聞こえるほどの足音が鳴って、勢い良くドアが開いた。なんとピンクのパジャマ姿で玄関先に飛び出した女は、無造作な長髪を振り乱した弓倉栞だった。
栞は、充血した丸っこい目をしばたかせていた。幼馴染の少年を見上げる少女の視線は、面食らう少年の頭から爪先までざっとなめ回した。
顔を突き合わせた。
不意打ちだった。
赤い瞳からなにかが零れ落ちる。
――え、
泣いて、
――ビビる要の思考が現実に追いつく間もなかった。
栞の口がみるみるうちに開いていき、やがてカバになった。
「ふわぁ」
喉仏まではっきり見えた。
嫁入り前の少女が絶対にしてはいけないあくびだった。流れ落ちた涙と目ヤニをパジャマの袖で拭って言う、
「おはよぅ。いま何時」
「8時だけど。どうしたのその恰好。よくそれで外に出るなぁ」
「――突然来た奴が何言ってんのよ。日曜の朝っぱらから人ん家(ち)に来て、私が朝弱いの知ってるでしょ。――なに?」
「俺は今から新宿。12時からACDマート」
「あー」
栞には心当たりがありそうだ。高校の食堂で要が見せてきたカタログに載っていた。90年代に大流行した名スニーカーの復刻版。男女両様のデザイン。カジュアルでありながらも、学校にも履いていけそうなシックな雰囲気を無くしていない。
しかも色違いのペアルックモデルがあった。
栞の目は輝いていたが、27800円という一介の高校生には過酷な金額に目が行くと、「ちぇ。バカみたい」と捨て台詞を吐いたことを要はよく覚えている。
「じゃあ今から行って、この寒い中、何時間も並ぶ気?」
「そうだよ。すぐになくなるから」
「それにしちゃ薄着なんじゃない? 風邪引くわよ――」
栞が要の胸を小突く。
「で。ここに来たってことはつまり、」
「行こうよ。――折りたたみ椅子持ってさ。昼飯おごるから」
要は単に、栞と一緒に行きたかった。
昼飯代まで用意して畳みかけた要に対し、栞はけんもほろろに答えた。
「ごめん。私はパス」
「ありゃ」
「今月、お金なくて――今度、買ったの見せてよね」
ばたん。
ドアは、あっけなく閉じられた。
――仕方ないな。
要は一人でエレベーターに乗り、新宿に行った。
スニーカーは無事に購入できた。
妹にプリンとチョコレートも買った。
要は自室で寝転がり、スマホでとある動画を眺める。
――環境問題から社会情勢まで、あらゆる混乱に反応した不可視の物質「マナ」が渦巻き、昇華し、突如発生する「魔物」。災害を引き起こす魔物を退治するために、自然界のマナを操れるのは「魔法使い」だけだ。
魔法使いには人気がある。
今どきの小学生に「将来の夢は?」と聞くと、女子のトップ3には必ず入る。
決して安全安心な稼業ではない。給料は大したことなく、スポーツ選手の方が稼げる。しかも、魔物災害を防げなかったときに世間の批判の矢面に立つのは、どうあがいても有名人の魔法使いだ。
それでも、「魔法使い」には人気がある。
人助けが魔法使いの
恵比寿に本部がある大日本魔法管理協会に登録された1,800人の魔法使いには、一人ひとりのマナ適正に沿って、二つ名を名付けられる。「不知火の魔法使い」「月明かりの魔法使い」「木枯らしの魔法使い」――その名の通りに現れ、異能を体現する彼らの魔法が、今日もどこかの誰かを助けている。
要は、「春風の魔法使い」が配信する動画を見ていた。
彼女は西東京を中心に1都6県を根城にする18歳の女子高生である。
春一番が吹く頃に、屈指の魔法使いに変身する。風の噂によれば、関東甲信越の花見スポットの治安がいいのは彼女のおかげであるとか。桜の木が生み出した魔物を退治できるのは彼女だけであるとか。花粉症も治せるらしい。
要は彼女を見たことがある。それ以来活動を追いかけていた。彼女が不定期に配信する日記のような動画は、物静かな彼女の性格を表すかのようだ。
白いソファーに座り、正面のカメラを見つめる少女、「春風の魔法使い」がぼんやりとつぶやく。
『こんにちは。
春は、まだ来てません』
夏から冬にかけての彼女の口癖だ。
春になると『春が来ました』しか言わなくなる。
『北都区の件は、ご存じですか。
やられてしまいました。
わたし、何もできなくて――ごめんなさい』
魔法使いの能力は、マナの相性の関係で季節・時間・天気に常に左右され、人によっては魔法を全く使えない時季も存在する。春風の魔法使いはいつも、「冬はそよ風も起こせません」と言って悔しがっている。
謝罪の後は穏やかなプログラムが続いた。最近聞いた曲、面白かったゲーム、茶トラ猫の使い魔『シルフィ』と遊ぶ。リスナーからの質問を受けるコーナーでは、
“最近注目の魔法使いはいますか?”という質問に反応した。
『――あの、夏の台風で荒川が氾濫したとき、助けてくれた人がいて、』
春風の魔法使いは、記憶を探るように語り始めた。
『「夜明けの魔法使い」と名乗っていました。
あのとき、雨も風も強くて、真夜中で魔物もいっぱいいて――。
東京が沈まないようにみんな頑張っていたけど、危ないところだったんです。
――空が明るくなると、いつの間にかその人がいました。
水を押し返す炎を見たのは、あのときが初めてです。
顔はよく分かりません。まだ暗かったし、マスクをつけていたので。
もし、夜明けの魔法使いさんに出会ったら、よろしくお伝えください。
あなたが危ない目に合ってしまっていたら、きっと助けてくれますよ』
動画が終わった後、要は栞にメッセージを送った。
限定スニーカーが限定の箱に入っている写真をまず送り、さらにそれを履いた写真も。最後に『大勝利』とだけ書いた。
30分後に返事がきた。
『うらやましいな。
覚えてなさいよ』
要は少し笑った。それから歯を磨いて、風呂に入って寝た。
矢野要と弓倉栞は、小学校からの付き合いだ。クラス替えの春、「や」と「ゆ」から始まる彼らの席は、5年3組の一番端の隣同士になった。
要は栞に興味があった。なんせ「矢」野と「弓」倉だからだ。
また、当時の彼女は自分より身長が高かった。今は腰近くまで伸ばしている髪も肩まで、まだ洒落っ気のないストレートだった。行儀のいい座る姿勢も、あまり笑わないからいつも憂いでるように見える表情も、気になった。
――ねえ、弓倉さん。
友達になりたかった。
そこからの関係づくりは困難を極めた。要は何かに付けて栞に話しかけ、趣味や、さっきの授業のことや、妹の
いち早くできた男子の友人には女子への積極性を囃し立てられ、周りの女子は憶測で要の下心を決めつけてくる。
要はまだまだ諦めなかった。
5月が近づいたある日、転機が訪れる。
英語の授業が始まる直前、ランドセルの中を探る栞が青ざめた。「教科書もノートも全部忘れちゃった」と顔に出ている。運の悪いことに今日は栞が当てられる日で、英語といったらあの尾花靖彦(当時35歳・バツイチ)だ。尾花は女子小学生相手にも容赦をしない。教科書を読み上げろと順番に命令され、忘れたことがばれたら最期、「お前なめてんだろ?」から始まる公開処刑が待っている。
栞の机上に英語の教科書はなく、ノートは代わりの国語だ。
誰にも助けを求めなかった。
要のやることはもう決まってはいるが、タイミングが大事だ。授業の最初から教科書を手渡した場合、恐らく栞は勉強する気がない要に失望し、突っぱねられる可能性があった。
要はかつてないほど授業に集中した。そして今にも当てられそうな雰囲気を敏感に察した。栞が覚悟を決めて唇を引き結んだその瞬間、とても自然に差し出した。
栞は、教科書に書かれた英文を見事に読み上げた。
満足げに頷いた尾花が栞から視線を外すと、すぐさま要の机に教科書が返ってきた。
事なきを得た後の休み時間に、初めて、彼女から声をかけられた。
――ね、ねえ。
さっきは、ありがとう。
*
懐かしい夢を見た。悪い夢じゃなかった。
だが12月16日(月)の目覚めは最悪だ。まずは頭痛。喉の痛みも耐え難い上に、全身に寒気が襲ってきた。
母が持ってきた体温計によると熱は38.6度を記録した。
いつもは兄の部屋に近寄らない妹の環が、大きなマスクをつけて、ヨーグルトとりんごと冷えピタを盆に乗せて部屋まで持ってきた。ありがたかった。いろいろと声をかけられたが、つらくて返事もできなかった。妹は「ちゃんと寝ててね」とだけ言い残して部屋を出る。
生温い布団の中で悶えていると、枕元のスマホが唸った。
『弓倉 栞』からの電話だ。
要は不思議に思った。
まだ6時25分だ――起きてるなんて。あいつ、朝弱いのに。
やっとの思いで電話に出た。
「――もしもし」
『要。風邪、引いてる?』
いきなりすぎた。
頭の中に浮かんだ疑問をうまく言語化できずに、脊髄反射のように言葉が出る。
「うん、引いてる、けど、」
激しく咳き込む。喉が痛いから喋りたくない。
「――なんで知ってんの」
『鼻声だから』
用意されたような即答が返ってきて、要はそれ以上何も聞かなかった。
それから栞は、要が風邪を引いた理由を、頼まれてもいないのにまくし立てた。
『昨日の東京の気温、何度だったか知ってる?
最高で7度よ。今年一番の寒空の下で3時間も並んでたら、風邪引くわ。
昨日からそんな気がしてたのよ。熱は何度?』
「――さんじゅう、7度」
実際は39度に近い38度だが、無用な心配をさせたくなかった。
『――そっか。あんまり上がってなくてよかった。
1日寝てたら、きっと良くなるわ。
私も学校あるからもう切るけど――最後にひとつだけ。
ひとつだけなんだけど、いい?』
栞は、こう言った。
『今日はもう、絶対に、ぜったいに、家から出ないで。
約束して。
一生のお願いだから』
電話が切れた。
既視感がある。
前にも、こういうことを言われた気がした。
17年の人生の中で何度目かの「一生のお願い」だったのかもしれない。言われなくたって動く気はしない。熱に浮かされて不快な現実から早く離れるため、無理にでも眠りにつこうとする。目をつむる。
悪夢はもう見たくないと思った。
眠る。
魔法使いの夢を見たと思う。
*
かなめ。
誰かが自分を呼んでいる。
かなめっ。
どこか舌足らずな呼び方は、小さい頃から変わってない。
「――ねぇ、起きて! 早く、逃げなきゃいけないのよ、要っ!」
すがりつくように懇願され、要はようやく目を覚ました。
夜闇に包まれた中で人と目が合う。栞は必死だった。もう泣きべそをかく寸前で、頭にかぶった大きな魔女帽子が震えている。
世界の終わりがすぐそこに迫った人の顔をしていた。
唐突に、強烈な振動と風圧が世界を駆け抜けた。
地震と台風が束になってきたような衝撃に要はベッドから転げ落ち、栞に抱き起された。まだ熱のある頭を必死に働かせて、状況を理解しようとした。恐ろしいことが急激に起きていることだけが分かった。
自室はもうめちゃくちゃだ。壁がかまいたちにやられたように大きく裂けていた。本棚、ラック、ロッカー、ありとあらゆる家具から物がみんな落ちている。天井のライトは粉々で、いつの間にか止まった壁掛け時計は午前4時51分を指している。夜明けは遠く、闇の中に暴力の風が吹き荒れていた。
ドンッどっがっごんッ
理性の欠片もない乱暴さで、ドアが外からぶっ叩かれていた。
要が即座に連想したのは、ゾンビパニック映画のバリケードだ。ドアの向こうに、なにかがいるらしい。ぶち破られたら、なにか恐ろしいことが起こる気がした。
「――な、なぁ。あれは、」
「魔物よ」
栞はいとも簡単に言い放った。
「人を食うことしか脳のない奴が、向こうにいるわ」
ドアを押さえつけるバリケードはベネルクス式の魔法で、丸くて真っ白な防護結界だったが、素人目が見ても分かるほどに綻んでいた。あちこちからルーンが零れ落ちて、ひび割れた窓ガラスのように頼りない。あと2、3回も叩かれればまず崩壊するだろう。
夢なら早く覚めてほしい。
そんなときに、要の目の前で決然と立ち上がった栞の姿は、伝統的な「魔法使い」そのものだった。大きな魔女帽子を被り、袖がゆったりとした黒いトップスとロングスカートを身につけ、でかい魔法石を先端に付けた青い
栞はドアの向こうへ、番犬のように吠えた。
「――“トコヤミ”!
この、化物めっ!!
闇夜の魔法使いがあんたの相手よ!
要はぜったい、ぜったいにやらせないんだから!」
栞が唇を引き結んで、覚悟を決めていた。
あまりの事態に、要は腰を抜かした。
「し、栞。おまえ」
「あとでぜんぶ話すからっ! だから今は、私から離れないで!」
魔法を繰り出す。
“Sta op! Char libre――”。欧州のどこかの言語で軽やかに詠唱し、魔杖が信じられないほど青い光を放ち、共鳴した部屋中のマナが、巨大で無色透明な糸の塊を紡ぎだした。
糸は瞬時に編まれ、折り重なっていく。無限軌道の履帯、カーキ色で塗られた車体、機関銃の銃口と大きな砲塔、どんどんどんどんと結び合う。
――思ってたより、小さな戦車が出来上がった。
100年以上前に設計された2人乗りの戦車が、六畳間の部屋に入り切っている。
ばんっ。
横開きのハッチがひとりでに開いた。
要は、目の前にある何もかもが信じられなくなった。
「乗って!」
2人も乗れなさそうな車内に強制的に乗せられた。
「さぁ動いて――ルイ! 100年も戦ってきたんでしょ、今が一世一代の勝負所よ!」
戦車は、膨大なマナを全身から吐き出して唸り声を上げた。
栞が声をかけたのはこの古ぼけた戦車に他ならない。車内の操縦桿は折れていて、アクセルもブレーキも見当たらないが、栞が念じることで動き出すことはなんとなく分かる。栞の声に応じた何かの意志が、気合十分でエンジンを回している。
この戦車は生きている。
どうせ使い魔なら、猫やホウキにでも宿らせたらよかったのに。
「――栞って、昔から、
栞は無視して叫んだ。
「要のお母さん、ごめんなさーい!」
戦車は半時計周りのドーナツターンを決めた。
部屋にある何もかもを薙ぎ倒し、短いながらも勇ましい砲塔をドアの向こうへ、スライドを続けながら狙いを定めた。
その瞬間、ドアは何かに破られた。
もちろん化物だった。
六足歩行で、巨大な目だけが血走っていた。裂けた口から真っ黒な刃が吐き出される寸前だ。瞬時に伸びる鋭利な刃が、戦車の装甲ごと車内の人間を串刺しにする前に、戦車は無慈悲に攻撃した。
発砲。
魔法の砲弾が、化物の肉体に食いついた。
体内に留まり、青い光を放つ。
炸裂。
弾頭に凝縮されたマナが体内で破裂し、化物は一帯を揺るがす咆哮を上げた。戦車は戦果確認もせずにまたもドーナツターンを決め、荒川の河川敷を見下ろせるベランダの方に向きを定め、前進する気配を一身に漲らせた。
アクセル全開。
正気の人間がやることじゃない。ゾンビの群れのように窓を一挙に割った後は、落ちたらひとたまりもない11階分の空が目と鼻の先だった。
何の躊躇もなかった。
ベランダをぶち破り、栞は叫んだ。
いっけ――――――――――――――――――っ!
戦車は、見事に飛び上がった。
*
夜明け前の北都区と荒川を見下ろす、美しい眺めだった。
後は落ちるしかなかった。
距離にして200メートルは先にある河川敷へ、戦車は重力に引かれたまま、奇妙にも着陸態勢を整えつつある。要と栞と戦車は、冬の大三角が輝く夜空の下、圧倒的な浮遊感と絶望的な絶景の中にいた。
いつか見た悪夢を思い出した要は、叫んだ。
うわあ――――――――――――――――――っ!
栞は、祈るように目をつぶった。
戦車は進む。魔物から逃れるため。100年の戦歴に恥じない逃走を果たすために。
――なのに。砲弾をまともに食らったはずなのに、いつの間に回復したのか。
“トコヤミ”という魔物は、自身の闇を瞬時に伸び縮みできる。闇には実体がある。刃にも鈍器にも変貌し、人を殺す。
11階から瞬時に伸びた闇は巨大な鈍器だった。
闇は、空中の物体を正確に薙ぎ払った。
戦車がおもちゃのように飛んでいった。
河川敷に叩き落され、回転するたびに部品をぶちまけ、最後は情けない腹を見せて、グラウンドのゴールポストに当たって止まる。
煙が上がり、動かなくなった。
*
目が覚める。
煙臭く、血の匂いのする、身動きできない闇の中。
額から血を流す要に庇われて、子どものように泣きじゃくる栞が、すべてを話そうとしている。
――要、聞いて。
要はね、あいつに、12回殺されてるの。
ドンッどっがっごんッ
横転した戦車の外装をひっきりなしに叩くのは、あの化物以外にいるはずがない。
ルイが持ちこたえているうちに、栞が続ける。
――トコヤミは、昨日、12月15日に初めて観測された。
でもね。私にとって、12月15日は13回目。
あいつは、魔法使いに勝ったら、時を巻き戻すの。
12回、あいつに負けた。
――あいつの餌は、魔法使いの「絶望」。
私を狙って、わたしの――。
大切な人を、殺すの。
私が泣くたびに、あいつは強くなっていく。何度も巻き戻す。
要はこの前、エレベーターに閉じ込められて殺された。
もっと前はリビングで――要のお母さんも、タマちゃんも巻き込んじゃった。
風邪を引いたのは、昨日の私のせいよ。
服の上から触って、わるいマナを入れたの。
ごめんね。つらかったよね。
でもあの日、学校に行ったら、要がやられるのはわかってた。
昼間にあいつが出てきたら、もう私の手に負えない。
化物が叩いている。喋ってないで早く出てこいと言わんばかりだ。
要の胸の中で、涙と鼻水をすする音がした。
そして要は、栞の最後の決意を聞いた。
私、もう泣かないから。
あなたが死ぬのなんていや。
ぜったいにあきらめないから。
次はぜったい、あいつを倒すから。
――だから、もうおしまい。
どうせ死んじゃうなら――痛くないと、いいのにね。
話は終わった。
死ぬより重い沈黙が流れた。
――大切な人、か。
要はまだ生きていた。
――栞。今までこうやって、俺にぜんぶ話したことはある?
闇の中で、栞の目がぱちくりと瞬いた。
――ない。
周りの人に話した途端に、あいつが殺しにくるわ。あんなのは、私一人でなんとかするしかない。
私は、真夜中しか戦えないけど。
「闇夜の魔法使い」か。
おまえ、朝が弱いのも、夜中に仕事があったからだな。
――隠してて、ごめん。
ずっと言おうと思ってた。でも、
昔と変わらないなぁ。
一人でよく頑張った。
「助けて」って、ひとこと言ってくれれば、俺も頑張るのに。
――え?
な、なによ急に。こんなときに。
どういう意味? その遺言を次に活かせってこと? ばかじゃないの?
違うって痛、やめて叩かないで、傷が開くだろ。
大丈夫だよ。
もうすぐ、魔法が使えそうなんだ。
栞は気づいた。
――血の匂いがしない。
要の額に刻まれていた深い裂傷が、瞬きもしない間に魔法のように消えていた。
ようやく、朝だ。
あの化物、勘が冴えてるな。
俺がマナを操れない時間を狙ってたんだ。
要が身をよじった。栞の頬を、掌で優しく包んだ。
栞の息が止まる目の前で、要はついに言った。
「闇夜の魔法使い」。
あんたの噂は聞いてるよ。いい腕だ。
俺も手伝うよ。
――初めまして、先輩。
俺は、「夜明けの魔法使い」っていうんだ。
驚きすぎてカバになった栞の顔を、要は一生涯忘れないだろう。
――ずっと言おうと思ってたんだ。
隠し事は、もうないかな。
じゃ、行ってくる。
要は太陽のような笑顔を浮かべて、ハッチに手をかけた。
隙間から光が零れている。
曙色の光が星空に満ちていく。新たなマナを生み出す夜明けは近い。
時間だ。
誰かに叩かれなくたって、今すぐ堂々と出ていってやる。
あいつと戦う。栞が弱らせた化物を、この手で燃やす。
――栞を泣かせやがって。
かかってこい。今度はおれが相手だ。
悪夢は、これでおしまいだ。
夜明けの魔法使いを探して。 野秋智 @ID_aizenn
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