Missing Worid (短編)

楠 冬野

第1話 Missing World

※偏向思想と捉える方もおられると思う。受け止めます。そんな思想は全くありません。読解は読者次第です。委ねます。





 どこからとなく聞こえてくる小鳥の囀り。

 その快音がいつものように朝の気分を和ませてくれていた。普段通りに眠気など無い。頭の中はスッキリと晴れていた。

 溌溂として庭を眺めている僕は、そこにある清涼を胸いっぱいに吸い込んで吐き出した。今日も良い一日になりそうだ。

 僕は徐に人差し指を空中に投げ、その空間をポンと軽いタッチで叩いた。


「ええっと、今日はどんな具合かな?」


 視界の右斜め上の方。その空間に現れたホログラムディスプレイを見て、バイタルをチェックした。


「体温、脈拍、血圧、呼吸、意識、オールグリーン! 今日も異常なし! システムも正常」


 胸に埋め込まれているチップの状態も良好であった。

 部屋の真ん中では、見る者を感知して動く大型ディスプレイが宙に浮かんでこちらを見ていた。

 そのスクリーンから淡々と語られるニュースの音声を右の耳から左の耳へと流す。


「テロって……。まったくいつの時代の話だよ」


 口から零れたのは呆れ声だった。

 僕は、リビングのソファーに深く腰を沈めながら、そこに置かれた朝食を手に取った。ニュースと言えば……。その時僕は、時事ネタを一つ思い出した。


「オリンピックもいよいよ無くなるのか……。これって試験に出るのか? いや出ないのか?」


 ――既に形骸化されてしまっていたオリンピックも、ついに今年開催される東京大会で最後となるらしい。


「早くしないと、遅れるわよ」


 母親の声が急かした。


「さてと」


 僕は、とりあえず気持ちの切り替えの為に声を出し、朝食用ゲルのパックを握りつぶして立ち上がった。


 ――バス停に着くと、クラスメイトの吉田さんがいた。


「おはよう、藤原君」

「ああ、おはよう。どうしたの? 今日は遅い方のバスなんだ。珍しいね」

「寝坊しちゃったんだ」

「ええ! 寝坊って、吉田さんって自然派だったんだ」

「まぁね。古風だなんて言われるけど、私はその方が好きなの」

「へぇ」

「ああ、なに? 藤原君ってば全然関心なさそう」

「うーん。関心って言われてもね、タイマー掛けてる方が断然楽じゃん。それをわざわざさ」

「何でもかんでも、便利なものを便利だからといって、頼りっぱなしになると人間らしさを失っちゃうんだからね」

「人間らしさねぇ……」


 朝から「人間らしさ」というものを語られてもピンと来なかった。

 何が人間らしくて、何が人間らしくないのか。

 僕は「らしさ」を問われて頭を悩ませた。結局のところ、自分がこうして生きていて、人間をやっているということ以外には、彼女の言うところの「人間らしさ」というものが、一体どういうものなのか理解出来なかった。



「藤原君はさ、まだオリジナルだからね」

「オリジナルね……」

「勿体ないよ。命は尊いのよ。だからね、精一杯、生きているってことを実感しないと」

「勿体ない、かぁ……」

「そうよ。いくら医療技術が発達していても、人は死なない訳じゃないわ」

「それはそうだけど……」

「それにね、自然に目を覚ますときの、あの微睡んでいるような時間ってとっても素敵だと思うのよ。そりゃ、全自動でコントロールされた目覚めの方が楽よ。でもね、煩わしさや、不便な事がちょっとくらいはあった方が生きているって実感できるものよ」

「そんなもんかねぇ」


 生の実感など無かった。「オリジナル」だからと言われても、それはこの年齢に至るまでの時間の中で、単純に怪我や病気をしなかったという偶然が積み重なってきているだけのことで、取り立てて価値のある事だとも思わなかった。

 それでも「僕は確かに生きている」と、そんな感覚は持っている。


「な、なんだよ」

「なんでも」


 言って吉田さんがクスリと笑った。彼女につられて僕も笑う。


 ――平穏な一日の始まり。ありきたりな日々の一場面。しかし……。


 この日もまた、穏やかに一日が始まったと思ったそんな時だった。

 僕と吉田さんを含めたバスを待つ乗客達の携帯端末から一斉に警報音が鳴った。

 突然の電子音。それは平穏を破る先触れのようだった。

 一瞬、自分の目を疑う。一斉に警報を鳴らす事態が身近で起こる事などありえない。それほどに世界は管理と統制がなされている。それなのにこれはなんだ。

 携帯端末に表示されているものは事故に対する注意では無く、事件を予期してのものであった。


 ――事件なんて……。


 目にしていたのは「緊急テロ注意情報」だった。

 それは文字を何度も見返して、ようやく認識する程の事態。

 僕は、朧気ながら今朝のニュースを思い出した。



「何これ!」

「そうだよね。なんなんだろうね」

「なんなんだろねって、藤原君、そんな悠長な……」

「うーん……。現実感に乏しいっていうか、実感も無い」

「でも、これって、今朝のニュースでやってたのと同じテロリストじゃ……」

「ああ、確かに今朝そんなことをニュースで言っていたね」

「もう、ちゃんと緊張感を持ってよね! こんな警報、冗談でも出るものではないんだからね!」


  21世紀の初めに急激な発達を始めたテクノロジーは、瞬く間に世界の諸問題を解決していった。

 その中でも特に医療の分野の発展は目覚ましく、現在に至って人は、ついに病気や怪我の完全なる克服を成し遂げていた。病気や怪我を憂慮する必要がなくなった世界は幸福に満ちていた。しかし、そのような幸福な世界にも反意を持つ人間はいる。報道されていたテロリストとは高度に発達した現代を嗤う者達のことをいった。

 

 警報の音が更にけたたましく鳴るようになった。どうやら危険度が一段階上がってしまったようだ。注意報が「緊急テロ警報」になっていた。


 切迫感はなかった。まさかこんな日常の中でと思いながら辺りを見回した。周囲は多少騒々しくはなっていたがそれでも混乱している様子はなかった。


「緊急テロ情報」などテレビの中でしか見聞きした事が無い。だから分からない。

 いったいどうすればいいのか。僕は今、何をすればいいのか。

 それでも端末が示す情報に間違いはない。しかも現在出ているこの表示は、更にもう一段上の「緊急避難指示」であった。


「藤原君、ねえ、見て、あれ」


 言って吉田さんが空を指差した。


「ドローン……」

「ねぇ、これってやっぱり……」


 僕達の上空を数機のドローンが行き交っていた。


「避難って言ってもどこへ……」


 このバス停は大きな通りに面しているが、付近に住宅はない。向こう側に渡れば店も並んでいるが、開店にはまだ早く人影も無い。

 背の方には大きな公園があった。その公園に入って木陰に身を潜めることも考えたのだが、そこも絶対に安全と言い切れない。

 身に迫る危機がどういう危機であるのか具体的に判れば対処も出来るのだが、そのような情報は得られなかった。携帯端末も逃げろと指示をするだけで何をどうすればいいのかは示してくれなかった。



『キケン、ガ、セマッテ、イマス。タダチニ、ヒナンヲ、カイシ、シテクダサイ。キケン、ガ――』



 ついに警報が「避難命令」に変わった。どうやらのんびりしている場合ではないようだ。


「藤原君、逃げなきゃ」

「でも、逃げるっていてもどこへ」


 もう一度辺りを見回す。せめてどの方向から危険が迫っているのかが分かれば動きやすいのだが。


「藤原君、とにかく逃げよう!」

「そうだね、この場にいてもどうにも出来ない」

『セッキンチュウ。セッキンチュウ……キケンガ、セマッテイマス……』

「藤原君……」


 名を呼ばれてハッとする。吉田さんの声は震えていた。

 その恐怖に怯える声を確かに耳にしながら周囲を警戒した。

 危険が迫っていると、頻りに避難を促されるがしかし、見ている景色のどこにも異常は見当たらなかった。


「こんな命令が出ているって事は、少なくとも周囲200メートル以内に、危険があるかテロリストがいるってことだ。しかし、どこだ。いったい何が起こっているんだ」


 身に迫ってきている危機がどのようなものなのか全く見当がつかない。

 その場にいる人々も、どちらに逃げればよいのか迷っている様子で、各々に端末に話しかけたりしながら情報を得ようとしている。


「吉田さん。こうなったら最善を尽くすしかない。痛いのはゴメンだからね」


 吉田さんを背に庇いながら、なおも辺りに目を配り警戒した。

 そんな緊張を強いられている時に、吉田さんの安堵の声が耳に届く。


「ほら、藤原くん、あれ、あれ見て!」


 急いで振り向くと、僕達を乗せる予定のバスがこちらに向かってきていた。


「良かった。これで助かった!」


 それでもまだ油断は出来なかったが、バスにさえ乗ることが出来れば安心だった。

 公共交通機関のセキュリティは信頼出来た。運転は全自動であり、乗降客も体に埋め込まれたチップによってしっかりと見分けられている。何より車体に関しては細工などは決して出来ないようになっていた。これでもう安心だ。


 警報は相変わらず鳴り響いていたが、周囲にいる人達からもホッとした様子が見て取れていた。


「吉田さん。これでもう大丈夫だとは思うけど、まだ警報は止んでない。君は女性で学生だから優先的にバスに乗れるはずだ。だから前の方へいって」

「で、でも……」

「僕なら大丈夫だから、学生優先っていっても僕も男だからね。こんな時にはね。さあ僕の事はいいから早く」


 僕は躊躇う様子を見せる吉田さんの背中をそっと押した。


「では、みなさん。僕が一番後ろで、最後を確認しますので」


 人の列を見渡して言った。


「おいおい、君は未成年の学生じゃないか。優先されているのだから君が後ろに行かなくても……」

「大丈夫です。僕はオリジナルなんで」

「お、オリジナルって、へぇすごいね君」


 感嘆の声を漏らすサラリーマンの声に合わせるように、周囲の者達も驚きの声を漏らした。


「オリジナル」とは、生まれて現在に至るまで、身体の部位の交換をした事が無い者を示す言葉だった。


 バスが、徐々に停留所に近付いてくる。

 ――もう直ぐだ。来い、早く。


 列の一番後方につきながら、辺りを警戒しつつバスを見ていた。もう少し。あと僅か。

 バスが進路を傾け、こちらに向かって停車する動きを見せた。これでもう大丈夫だと緊張を解こうとした。だがしかし、絶対に安全なはずの公共交通のシステムは、あっけなく人々を裏切ってしまう。


 バス停の直前で急に向きを変えたバスが、そのまま人々の列に突っ込んでしまった。その直後、僕の耳がパンッという乾いた破裂音を捉えた。


 ――なんだ! 花火か? い、いや違うか。なんだこれ……。


 現実的にはあり得ないことだと思いながら、映画やドラマのシーンを思い出していた。思い浮かべたのは狙撃という言葉だった。


「そんな……。まさか、銃声、だとでもいうのか……」

 震える唇から言葉が零れる。


 銃など、もう何十年も前にこの世から無くなっていた。

 所持することはもちろんだが、作ることも出来なくなっている。

 絶対的なシステムの基に管理されているこの社会において、銃を手にすることなど不可能であった。


『――キンキュウヒナン、ハ、カイジョ、サレマシタ』


 携帯端末からの音声にハッとする。


「不味い! 吉田さん、吉田さんは!」


 我に返って、事件現場を見た。



「――なんだよこれは!」


 地獄絵図がそこに広がっていた。急いで吉田さんの傍に駆け寄ったがしかし。


「吉田さん、しっかりして! 意識をしっかり保って!」


 見ると少しずつではあるが、トクトクと脈に合わせるように口から血が流れ出ていた。彼女の肉体は見るも無残な様相を呈していた。

 僕は負傷した彼女のために何かやれることはないのかと頭の中をかき回した。

 だが答えは見つからない。

 その時、僕は無力だった。必死になって彼女に声を掛け続ける事しか出来なかった。


「誰か! 救助を、早く救助を呼んで下さい!」


 大声で訴えるが、誰も見向きもしてくれなかった。

 見た目で既に、彼女に残された時間がそう多くはないと分かった。

 それでも出来る事はないかと考える。とにかく意識だけは戻さなければならないと名前を呼び続けた。

 意識さえ戻すことが出来れば、僕にはまだ彼女にしてあげられることがある。


「吉田さん! しっかりして! 意識を! 意識を!」


 必死の呼び掛けを続けた。すると吉田さんが薄く目を開けた。


「良かった! 吉田さん、今、助けるからね」


 大きな声で語りかけると、吉田さんは僅かだがコクリと頷いてみせた。

 残された時間は僅かだ。やるしかない。

 直ぐにエマージェンシーコールを起動させて、携帯端末をコールセンターに繋いだ。

 猶予はない。時は待ってくれない。そのわずか数秒がもどかしかった。

 胸の中では心臓が跳ねるように踊っていた。携帯端末を握る手にびっしりと汗をかいていた。


『セツゾクガ、カンリョウ、シマシタ』

「よし! もう少し、もう少しだよ。だから頑張るんだ!」


 なんとか端末を操作し終えて言った。その後、手に持っていた端末を吉田さんのチップが埋められている胸の上に置いた。



『データ、ヲ、リンクシマス。シバラク、オマチクダサイ』


「くそ! なんだよ! 早くしろよ!」


 拳を強く握って振り下ろした。

 吉田さんの胸の上に置かれた端末のディスプレイに赤い円が表示されている。その赤い円の外周を点がクルクルと周回しながら状況を知らせていた。


「まだか! 早く! 早く、緑に!」

『――リンク、デキマセン』

「くっそ! なんだよ! なんでだよ!」


 頭を掻きむしり、強く地面を蹴った。


「どうすればいい。僕はどうすればいいんだ!」


 吉田さんの息が途切れ始めた。流れる血もその勢いを失いつつあるようだった。

 だがその時、彼女の体の近くてコール音が鳴った。咄嗟に感じた。これは救いかもしれない。

 辺りを見回すが、コール音が発せられている音源は見当たらなかった。

 目が傷ついた吉田さんを見る。ゴクリと唾を飲み込むと、僕は耳を頼りに彼女の体を探った。


 衣服の中に手を伸ばすと胸のふくらみに当たった。

 手にぬめりとした温度を感じる。内臓を弄る様を想像すれば全身に鳥肌が立った。

 その感触が人体のものであると考えれば、更に恐怖を覚えて奥歯がガチガチと音を鳴らした。

 その時、死を直ぐ隣に感じていた。生まれて初めて味わう死との対面は、僕をこの上なく怖れさせた。


「大丈夫だ。コールの音声はまだ鳴っている。今しかチャンスはない。やるしかない。音が鳴りやんでしまえばもう終わりだ」


 事態は急を要している。彼女も僕自身も追い込まれていた。


「あった!」


 ――バイブの振動を指が捉えた。手応えを感じた。


 彼女へのコールは母親からのものだった。娘の異常を知らせる通知があったそうだ。僕は彼女の母親に急いで状況を伝えた。


「分かりました。では、そのようにします。でも急いでください。吉田さんはとても危険な状態です」


 エマージェンシーに対する不具合は、どうやら彼女の抱えている事情によるものらしい。どういう事情なのかは教えてもらえなかった。


「吉田さん。もう大丈夫だよ」


 声を掛けると、吉田さんの唇が小さく微笑んだように動いた。

 再びのエマージェンシーコールの後、僕の端末は無事にリンクを果たした。

 ディスプレイに映し出された緑の円が波紋を描くようにしてその良好な状態を示していた。

 どうやら僕の端末は、吉田さんの胸のチップから無事にデータを吸い上げることが出来ているようだ。

 もうこれで、彼女は終わりの時に無念を残す事はないだろう。


『ダウンロード、ガ、カンリョウシマシタ』


 こうして彼女のデータは、僕の端末を通してセントラルに無事に送られた。

 それから暫くして、吉田さんはゆっくりと目を閉じた。

「ありがとう」彼女の口の動きが最後にその言葉を僕に伝えてくれた。


 これほどの損傷だ。痛みはあっただろう。しかしその痛みも、最後にはチップによって促され分泌された脳内麻薬によって緩和されたはずだ。

 その証拠に吉田さんは、こと切れるときには綺麗な笑みを浮かべていた。


 役目を果たした僕の携帯端末は吉田さんの血に塗られて赤くなっていた。

 それでも、どこか誇らしげにディスプレイは輝いていた。


 赤色を塗られた携帯端末を吉田さんの胸の上から拾い上げて周囲を見回す。

 結局、この事件で三名が亡くなっていた。三名は間に合わなかった。

 怪我をした者は、重症から軽傷まで合わせて八名だった。

 事件後、残った人々は一様に安堵の表情を浮かべて、事件の様子と怪我の具合を語り合っていた。

 倦怠感を抱いていた僕は、脱力したままの体勢でその軽い調子の声を耳にしていた。


「お前、大丈夫か? その足」

「あ、ああ、痛みはとりあえず抑えられたからな」

「しかしよう、どうするんだよその足」

「あ、ああ……どうしようかな……。これじゃあ、直しても不具合があるだろうな」

「だよな」

「それよりお前はどうすんだ? 腕、ちぎれているじゃないか」

「そうなんだよなぁ……。再生医療っていってもなぁ、馴染むかな?」

「だよな……」

「体ごと全部を交換した方がいいんじゃないか? 特に差し迫った仕事とか用事がないならその方が早い」


「やっぱりそうだよな」

「俺もな、どうせならとっ替えようかと思うんだ。この際」

「全部、交換しちゃいますか、有給も結構余らせているし、これってテロだから国から補償も出ることだし」

「そうだな」


 惨事を目の前にした後でも、自分が怪我をしていても、男達はどこか他人事のように話をしていた。

 目の前で死人が出ているというのに、さして感傷的になる様子も無いようだった。

 ぼんやりと眺める景色の中で虚無感に襲われた。見回せば、事件現場のどこにも悲壮感など無かった。


 これが、「人間らしくない」ということなのだろか。と、そんな考えた時、吉田さんの笑顔が頭の中をよぎった。――僕は、何かを考えなくてはならない気がした。


 人が人を見なくなっている。痛みを感じなくなっている。これは果たして正常な事なのだろうか、異常なことなのだろうか。人間らしさとは一体なのだろう。

 怒りに似た感情が胸の内側にあった。しかし忌避を感じながらも、怪我のリカバリーに安堵している人々を非難するような気持ちは湧いてこなかった。

 医療の発達で人は死ににくくなった。体の欠損も簡単に補えるようになった。

 確かに人類は、怪我や病気に対して強くなった。


 ――僕は、落胆しているのか……。


 目の前の笑顔の人々を見ていると、やはりこの世界から何かが欠落してしまっているのではないと思えた。


 警報解除から間もなく、現場に警察車両やら救急車やらが駆けつけてきた。

 当然の事だが、現場に来た警察官にも救急隊員にも悲壮感はない。淡々と職務をこなしているといった感じだった。


 警察官の一人が近づいてきて僕に声を掛けた。


「大変だったね。でも、もう大丈夫だからね」


 警察官が微笑みを浮かべなら言う。次にその警察官は、徐に腰から小型の端末を取り出して僕の方に向けた。機械的な言葉を並べる公務員。司法儀礼だろうか、法律の文言を唱えていた。僕は自然と首を傾げていた。


「役目だから、調書を取らせてもらうよ」

「役目、ですか……」

「ええっと。あ、これ、さっきの彼女の」

 端末を見ながら警察官が話す。


「あ、はい。そうです」

「よくやったね。大丈夫。ちゃんとデータは送られているよ」

「そう、ですか……」


 返した言葉には感情が籠もらなかった。それが何故だか理由は分からなかった。


「あ、あの……」

「ん? 何だい?」

「彼女は、彼女の体は……」

「あ、あれね」


 僕の問いに軽い調子で答えた警察官が、笑顔で指を差した。その方向を見ると。

 丁度その時、彼女の身体は死んだ老人の身体と一緒くたにされて運ばれていくところだった。

 その様子を見て愕然とした。

 その作業は、ただの肉の塊を扱っているようだった。

 彼女のそれは遺体ではなく死体だった。物だった。


 理解はしていた。そのことがごく普通の光景であるということを。

 このように気持ちを揺らす必要も無いということも分かってはいた。しかし、僕は愕然として腹を立ててしまっていた。その光景を見て虚脱感に襲われていた。無意識に拳を強く握りしめていた。


 そんな自分の様子に気が付いて思った。この一連の出来事は、僕の中の何かを狂わせるようだと。


「吉田さんの体が、こんなにも軽く扱われるのは、やはり変だ。おかしいよこんなの……」


 医学が発達して病苦が無くなった世界。

 幸福であるはずの世界は、どこかが歪んでいるのではないだろうか。


「これで人は本当に幸せなのだろうか……」


 人間が人間らしく生きるとはどういうことなのだろうか。

 汚い荷物のように運ばれていく彼女は数時間前にこんなことを言っていた。


『煩わしささ、不便があってこそ、人は生を実感できる』と。


 確かに、そういうことがあるのかもしれない。

 朧気ながらに思い至ると、僕は彼女の言葉をそっと心に刻んだ。



 ――あのテロ事件からちょうど一月が過ぎた。


 この日から最後のオリンピックが始まる。

 リビングに備え付けられたモニターに、色とりどりの衣装を身に纏った人々が入場する場面が写し出された。いよいよ開幕セレモニーが始まる。と、そこでスクリーンの端に「CALL」の文字が浮かんだ。


 来たなと思って、急いで立ち上がる。僕は胸を躍らせ玄関まで迎えに出た。


「いらっしゃい。ようこそ」


 彼女に会うのは実に一月ぶりであった。


「その節は世話になりました」


 ニコリと笑う彼女の笑顔が眩しかった。


「元気な姿が見られて安心したよ。吉田さん」

「おかげさまで。この通りになりました。これも藤原君が、あの時に全データを避難させてくれたおかげです」


 あの時、僕がセントラルに送った吉田さんのデータは全て無事にバックアップされ、その後そのデータは、彼女の細胞から培養された彼女に無事に移植された。

 今の彼女の体はクローンであるが、記憶も、感情さえも全て元通りに戻っている。

 事件の時には確かに喪失感を覚えていた。だが、元気そうな吉田さんの笑顔を見れば、この世界に彼女を復活させる医療技術があって良かったと心の底から思えた。


 彼女の再生は初めから分かっていた事だったけれど、あの時も、きっとまた会えるのだと信じていたのだけれど、それでも今こうして再び会えたことが嬉しい。 


「オリンピック、もう始まっちゃったよ。さぁ上がって、上がって」

「そうね、急がなきゃね。でもその前に一つだけ」

「え? 何?」

「私が死にそうになっていたあの時、藤原君、私の胸、触ってたよね?」

「え? あ、ええっと……。あ、でも、それは……」


 返事をしながら違和感を抱く。――なんだろう。何かが変だ。

 状況について行けずに少し混乱してしまっていた。言葉に詰まってしまった。


「うそ、うそ。ごめんね。元気な姿をお見せ出来たついでに、ちょっとからかってみただけだよ。でも――」

「でも?」

「私の体は無事再生されたけど、以前の体の方がもうちょっと胸が大きかったような?」

 吉田さんが笑う。


「……」

「藤原君? ちょっと触って確かめてくれる? なんてね」


 吉田さんが悪戯な目で僕を見ていた。僕が驚きの声を上げると、彼女がニコリと微笑んだ。

 僕は、その笑顔につられるようにして笑顔を作ってみせた。

 僕は吉田さんの笑顔を見ながら自分に言い聞かせた。これでいいではないか、吉田さんはこうして無事に帰って来られたのだからいいではないかと。


 そのようなことよりも、僕は今、再び会うことが出来た彼女に、どうしても話したい事が一つだけあった。いや報告したい事があった。それは、あの事件を経て自分なりに解釈することが出来た「人間らしさ」という事についてだった。


「そういえばさ、吉田さん」

「なに? 藤原君」

「吉田さん、前に言ってたじゃない」

「え? 何を」

「ほら、吉田さんが僕に教えてくれた朝の目覚めの事だよ。実は、僕も最近、朝の目覚ましタイマーを使わずに起きているんだよ」


 あの事件以来、僕は吉田さんに教えてもらった朝の目覚め方を実践していた。

 自然に目覚めることで少しでも人間らしさを失わずにいられるような気がしていた。そのようなことをしてでも、人間らしくしていたかった。

 そんな僕が、その事を吉田さんに伝えて期待したものは、彼女からの共感だった。 しかし、僕の言葉に対して彼女は何の興味も示さなかった。


「藤原君、私、そんなこと話したのかな?」

「え?」

「それにしても、なんでそんな無駄な事をしているの? オートコントロールで目覚めた方が効率的なのに」


 不思議そうな顔を向ける吉田さんが、何故だか別人に見えた。


 人の体は完全に再生させられる。しかし、心まで完璧に移植することなど出来るのだろうか。例えば、今目の前にいる吉田さんは、果たして本物なのだろうか。


 ――分からない。


 僕はこの世界の何を見て、何を感じて生きているのだろうか。

 自分が、まるで虚構に取り囲まれている気がした。

 この場で、ただ一つ言えることは、自分は確かにここで生きているということだけであった。

 そのこと以外は、何も分からなかった。


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Missing Worid (短編) 楠 冬野 @Toya-Kusunoki

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