第37話・もうお前の言いなりにはならない
忠郷は武術も苦手だし、運動も今ひとつだ。
だから足も遅いし、身体も固い。
廊下をあわてて駆けていく忠郷に僕らは難なく追いつくことが出来たよ。
まあ、ちょっと廊下を全力疾走しちゃったけどさ。
忠郷は呆然と部屋の入口前に立っていたよ。
忠郷に声を掛けようとしてしかし、僕は部屋の中から聞こえてきた声に驚いた。喉まで出掛かったそれを思い切り呑み込むくらいにはね。
「お黙り! お前ごとき学寮の下僕にあれやこれやと指図されるようなことではない! これは、蒲生家の問題じゃ。外の人間が口を挟むことではないわ!」
「……ですが、生徒を突然連れて帰るなんてことは、いっくらあなたが大御所さまのご息女であろうとも、到底認められることではございませんぜ、忠郷のご母堂さま。なぜなら、一度ここへ来た生徒が学寮を休んで実家に帰るには届けを出してもらう決まりになってる。そうしてそれが受理されねえことには、家へ帰すことは出来ない。もう何度もそうご説明申し上げたはずだがね」
僕と総次郎は部屋の入口からこっそり中の様子を伺った。
鶴寮の部屋の中——今日もけっこう散らかった鶴寮の部屋に、僕が見たこともないほど綺麗な打掛を羽織った女の人の後ろ姿が見える。彼女に勝丸が必死に話をしているんだ。
「休学を申請するには、それなりの理由が必要だし、それが寮監督はもちろんのこと、学寮長や、果ては将軍さまにだってお認めいただかなけりゃあならねえんだと聞いている。突然学寮へやって来て生徒を連れて帰るだなんて……それじゃあ、生徒を攫うも同じこった」
「何を言う! 実の母親が実の息子を、実の家に連れて帰ろうと言うのに、それを……攫うとは一体どういうことじゃ!」
「あ、あれは……お前の母親か?」
総次郎が忠郷に小声で尋ねたよ。忠郷の横顔は引き攣っていた。引き攣った表情で部屋の中を見つめていたよ。顔は真っ白く、表情は固まって動かない。
「だから……その申請とやらがちっとも受理されぬのだと申しておるだろうに! 兄上さまにも駿府の父上さまにももう何度もお願い申し上げておる! だのにちっとも忠郷がわらわの元へ戻らぬ理由は一体どういうわけじゃ。忠郷は会津の藩主。わらわの元へ帰り、藩主の仕事をするのが道理であろう! 学寮へは弟の忠知をやる!」
「だから、ここは藩主となるに必要なことを学ぶところなんだから……あんたのご長男にいてほしいというのが、学寮長さまや将軍さまのご意向なんですよ。俺も弟君ではなく、ご長男の忠郷どのこそをこの学校に居させるべきだと思いますがね」
すると、忠郷がふらふらと部屋の中へ入っていった。
「た、忠郷……」
僕は引き留めようと手を伸ばしたけど、すぐに彼が母親に声を掛けたのがわかって、その手を引っ込めた。僕らの存在までバレたら更に話がややこしいことになるに違いないもの。
「……こんなところまで何しに来られたのですか、母上」
部屋にいた二人が同時に振り返った。勝丸は困ったような顔をしていたよ。女の人は軽く息を吐いて忠郷に近寄った。
「おお忠郷! 屋敷へ帰ります。いつまでもこのような場所におってはお前のためにならぬ」
忠郷が「母上」と呼んだその女の人は、忠郷の手を取ると勝丸に背を向けて歩き出そうとしたよ。
だけど、忠郷は動かなかった。
「忠郷?」
忠郷は俯いて固まっていたよ。動く気配がない。足の向きが変わる気配も、長い髪の毛がゆれる気配もなかった。
「この部屋の荷物ならすぐに家の者に取りにこさせよう。お前が大事にしている着物
も、鏡台もみなすぐに運び出して屋敷に……」
「一体何をしに来たのかと聞いておるのですよ、母上!」
忠郷は勢い良く母親の手を振り払って叫んだ。一瞬、忠郷の母上は目を丸くして驚いていたけれど、すぐに彼に言った。
「お前のことは、この母がいちばんよくわかっておる。伊達や上杉の家の人間なんぞと、かような狭い部屋で息の詰まる暮らしをしておるだろうに……不憫なことじゃ。わらわと引き離されたことをいいことに、会津の裏切り者の家来どもが、学寮のお前のところに手紙を送り付けておると聞く。よからぬこと、ありもせぬろくでもないうわさをお前の元へ届けておるのだろう? この母はみな知っておるぞ。わかっておるとも……」
僕と総次郎は声は出さずに視線を合わせたよ。
忠郷宛に山のように届く手紙……彼が読む気配も見せなかった、机の上の手紙の山を、僕らは遠巻きにじっと見つめた。
「……裏切り者かどうかはまだわかりません。母上が家臣たちの言葉にちっともお耳を貸さぬので、皆、私に宛てて文を送ってくるのです。わかりますよ……そんなことは中身を見ずとも」
「おお……忠郷。なんということ……母の言うことを聞いておくれ」
忠郷の母上は彼を一度抱き締めてから膝を付き、頬を優しく撫でて言った。
「皆、お前がまだ若く幼い子どもであるのをいいことに、わらわから引き離して自分のものにしようと企んでおるのじゃ。皆、お前のことなど誰もちゃんと考えてはおらぬ。お前のこと、蒲生の家のこと……誰よりも一番ようく考えておるのは、この母じゃ。だからこそ……お前は、わらわの言うことを聞いておればよい。ここにおる人間の言うことなど徒にお前を惑わすだけじゃ」
忠郷の母上が彼の頭を優しく撫でたよ。何度も、何度も。僕は本物の母上がいないのでなんだかとても羨ましい。
だけど、忠郷の表情を見たらすぐにその気持は冷めた。忠郷はおよそ喜びとは遠い、感情のない表情でぼんやりと彼女を見つめている。
「父上さまのようになってはいけませぬぞ。そうとも……わらわがそうはさせぬ。蒲生の家は、わらわが必ず立派な会津の太守にしてみせる。なればこそ、お前はわらわの言うことだけ聞いておれば……」
すると、再び忠郷は母親の両腕を振りほどいた。ふるえる両手が彼の母親の身体を突き放す。
そうして忠郷は自分の文机に駆け寄ると、山のように積まれた自分宛ての手紙を彼女に向かって投げ付けた。
「聞いた結果がこれでもか!」
山の下の方から一つ取り出して投げ付けたそれは、手紙の封が開いていた。蛇腹折りの手紙が宙を舞って、ふわりと彼の足元に落ちる。
「……うんざりだ。もううんざり……会津の領国の様子を考えただけで胸が痛くなる! 吐き気がする!」
空気を震わせるような忠郷の悲鳴はなおも続いた。
「家来たちは誰一人として、国がうまく行ってるとは言ってこない! 言ってくるのは、お母様への不平不満と家来同士の争いのことばかり。どうして自分は何もしてくれないんだと……そう文で私を直接罵る奴もいる! 家来たちがこんな有様で……国が上手く行ってるはずなんかないじゃない!」
髪を振り乱し、喉をかきむしる彼の姿はまるで毒を宿した身体の激痛に身悶えする病人のように見えた。二言三言獣のように絶叫し倒れ込んだ忠郷の瞳からは涙が溢れている。
僕は思わず部屋の中へ飛び込んだよ。
「なんにも上手く行ってない……ちっともよくなんかなってない……お母様のいうことを聞いたって蒲生の家は、会津は……わたしは……ちっとも、さっぱり……なにもかもぜんっぜん……上手くなんか行かないじゃないですか!」
忠郷は懐から取り出した文の一つを、思い切り握り潰した。
「今日ここへやって来た理由だって予想がつくんだよ! 剣術の試合だろ!? 上覧試合のことを聞いて、それでやって来たんだ。自分を家へ連れ戻すために。そりゃあそうだろうよ。ふだんの授業も見学しているような自分みたいな奴が剣術の試合になんか出たって負けるに決まってる。蒲生の家の恥になるだけだ。将軍様の御前で派手に負けて恥をかくくらいなら……いっそ学寮になんか居ないほうがいいに決まってる! だから私を迎えに来たんだろう!」
「忠郷……おまえ……」
勝丸が忠郷を見つめて呟いた。
忠郷の叫びは、普段の彼の喋り方とはぜんぜん違っていたよ。僕らにはどちらが本当の彼かはわからなかった。
今、こうして彼が自分の母親の前にいる時の忠郷と、いつも僕らと一緒にいる時の高飛車でワガママな女々しい彼と。
「だけど……自分は帰らない! 会津にも、江戸の屋敷にも帰りません。ここでみんなの文を読んで、何かあれば直接自分に言うように……これからはそうみんなに返事を書きます。会津藩主として」
「お前……どうしてそんな風に……どうしてそんなことを言うの……いつからお前はそんな風に……」
うろたえた様子でそう呟く母親を見もせずに、忠郷は勢い良く駆け出した。それ以上には何も言わず、寮の部屋を飛び出してしまったよ。
「た、忠郷!」
僕はもう一度彼を追い駆けようとしたけれど、総次郎に止められてしまった。
忠郷の母上が後を追うように廊下へ出てきたけれど、彼女も僕らと同じように次第に小さくなっていく彼の後ろ姿を見つめていただけだった。
若さまのがっこう! ーー信長のひ孫と政宗の次男坊と上杉家の若さまで、お城の事件解決しちゃいます!? 四万 @ezima465
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