エリックとコゼット
木々が揺れる音を聞いて、ああこれが風の音だと思った。
大きな木の幹のでこぼこが背中にあたる。
目を閉じれば何も目に映らなくなる。
見たくなければ、閉じてしまえばいい。
簡単な筈だ。
視界には何も映らない筈なのに、どうして目の前にあの子の姿があるのだろう。
耳元でまた風の音がした。
「後悔をしているの?」
瞳には映らなくっても誰の声か直ぐに分かる。
「そうかも知れない」
首筋に触れる髪が揺れる。
「貴方の所為ではないわって、言うところなのかしら。でも貴方の所為よ」
「うん、そうだね」
「だけれどもあの子を救ったのも貴方」
「それはどうだろう」
「ふふ、私には人間の感情ってものがよく分からないから真実は分からない。この言葉はセフィリアの言葉よ。だからきっと正しいのでしょう」
目を開く。
半透明で宙をふわふわと緑の長い髪を揺らしたコゼットは、いつもと同じ笑顔でそこに浮いていた。
「君はセフィリアの傍にいなくてもいいのかい」
「私にとって主は貴方一人よ、エリック」
「あの子は、どうしているかな」
追われている事は承知していていた。襲撃がある可能性は考えられた。
だから、特定の人間と親しくするのは間違いだったのだ。
「家族といるのでしょう。記憶の障害を負う事は死とは直結しないわ」
「けれど記憶というのは心なんだ。生きるという事は心と体があってこそのもの。ヴィンセントが言っていたよ。ただ息をしているだけというのは生きているとは言わないのだと」
指先に触れた雑草を引き抜く。
彼女の記憶がどこから抜け落ちてしまったのかは分からない。少なくとも俺達の事は覚えていなかったが、家族の事は覚えていた。
誰か分からなくなってしまった俺に、あの子は出会った時と同じ笑顔で同じ花を手渡して見送ってくれた。
ーーどうしてかな。お兄さんを見ているとすごく安心するの。
抱きしめたセフィリアの肩からあの子の顔がひょっこり出ていて、目が合った。その笑顔は一緒に過ごした時と同じものだった。
「ねえ、エリック。記憶というのは他人や出来事自体を覚えておくだけなのかしら。人の心だという記憶は、感情の記憶も含まれるのだわ、きっと」
「感情の記憶?」
「あの子は貴方を忘れてしまった。再び会った時も覚えていないのでしょう。でもね、貴方を好きだという想いは記憶している。忘れてしまった貴方のお見送りをする時の笑顔は、今が幸せだという事を示していたわ。それも心と言うのではないのかしら」
「君に人というものを教えてもらってしまったね」
「貴方もまだまだね」
また、風の音がした。
俺はこの音が好きだ。
もし記憶がなくなったとしても、この音を聞いて俺は好きだと感じるのだろう。
LIBERTY エリック王 番外編 檀ゆま @matsumayu
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