急「ベイビー・カフェ」

「『Petit Ange』……ですか?」

「そう。聞いたことない?」

「まあ、聞いたことくらいは……ベビーカフェでしたっけ」

「うん。猫カフェとか昔流行ったじゃない? あれの赤ちゃんバージョン。めちゃくちゃ癒されるんだよねぇ」

「へぇ……」

「これからお母さんになるわけだし、赤ちゃんと触れ合うのもいいんじゃない?」


 そんな会話をしながら私達は「Petit Ange」に到着した。時間が少し遅めだったため、お客は少なかった。百合子の子育ての参考になればと、最年少エリアを選んだ。二人でまた飲み物を頼み、テーブルについた。


「正美さん、ここによく来るんですか?」

「うん。英子って覚えてる? あの子に紹介されてさ」


 へえ……と百合子は口から息を漏らす。飲み物が運ばれてくる。割れにくいプラスチックでできたコップで冷たいジュースが入っている。私達はもう一度カップを合わせて乾杯した。さっきのマグカップと違い、カツッという軽い音がした。


「このテーブル、柔らかい素材でできてる……」

「うん。赤ちゃんがケガしないようにってことらしいよ。カップがプラスチックなのも、ガラスとかだと割れてケガさせちゃうかもしれないからだって」

「へえ……。参考になりますね」


 そんな話をしていると、ハイハイで一人の赤ちゃんがこちらにやってきた。腕輪を見ると「さやか」とある。私のお気に入りだ。


「かわいい……」と百合子がつぶやく。その言葉に嘘は感じられない。私もまったく同じ気持ちだ。抱き寄せて匂いを吸い込みたい。そんな原始的な欲求が沸き起こる。


「触ってもいいんですか?」

「もちろん。抱き上げてみたら?」


 少し、緊張しながら百合子が「さやか」を抱き上げる。抱き方が不服なのか、「さやか」はだぁだぁと言いながら体をよじった。ポトリと地面に落ち、「さやか」はコロッと半回転した。地面は柔らかい絨毯なので、無さそうだ。


「ど、どうしましょう」


 慌てふためく百合子はちょっと可愛らしかった。


「緊張って赤ちゃんに伝わっちゃうんだよ。だから、百合子ちゃんも緊張せずに、優しく抱いてあげて?」

「わ、分かりました……」


 そういって、百合子は何度か深呼吸をした後、優しく「さやか」を抱き寄せた。今度は「さやか」も気に入ったのか。きゃっきゃと甘えた声を出して百合子に体重を預けた。


「かわいい……」

「ね、癒されるでしょ?」

「はい……とても」


 私も百合子も柔らかい表情になっている。やっぱり連れてきてよかった。百合子は愛おしそうに「さやか」をしばらく抱いて、匂いや柔らかさを堪能した後、ゆっくりと地面に「さやか」を座らせた。「さやか」はニコニコしながら別のテーブルを巡回していった。


「どうだった?」

「最高でした。かわいいし、柔らかいし……これから自分の子を同じように抱いてあげられると思うと、幸せです」

「百合子ちゃん、表情がふにゃふにゃだよー」

「すみません。でも正美さんもですよ」


 そういって二人で笑いあった。



 ちょうどその時、少し離れたテーブルから、急に赤ちゃんの泣き声が上がった。その泣き声は聞いたものすべてを不安にさせるような響きで、私達はすぐにテーブルの方に振り向いた。テーブルにはスーツ姿の男が座っていた。泣き声を聞いたスタッフが急いでその男のもとに駆け付けた。


「どうなさいましたかお客様」

「コイツ、俺の服にべったり涎つけやがったんだよ! どうしてくれんだ?! このスーツ高かったのに!」


 男は涎に驚いた拍子に赤ちゃんを放り投げてしまったらしい。赤ちゃんはまだつんざくような泣き声を上げ続けている。


「失礼いたしました。今、ふく物を……」

「そんなんで済むかよ!! クリーニング代ぐらい出せねえのか?」


 男の声は大きく、フロア中に響き渡った。その声に驚いたのか、赤ちゃんの泣き声はさらに大きく、さらに聞く人の不快感を高めるような音になった。


「ちょっと、うるさいじゃない! その子黙らせなさいよ!!」


 別のテーブルに座る女性が、しびれを切らせて立ち上がった。大きな声に驚いたのか、連鎖的にフロア中の赤ちゃんたちが泣き声を上げ始めた。泣き声の合唱は不協和音となって私の心をかきむしった。


 声を上げた女は、スーツ姿の男のもとに詰め寄っていった。慌てて店員も二人の間に入っていく。


「なんだよ。俺が悪いってのか!? 俺だって被害者だろ!!」

「大きな声出さないでよ!! この子たちが泣き止まないでしょ?!」

「お客様、他のお客様にご迷惑ですので……」

「おい。もとはと言えばこのガキのせいだろ? なんで俺が迷惑なんだよ!!」

「その声がうるさいって言ってるの!! あんたもこの泣き声静かにさせてよ!」

「そんなこと言われましても、自分アルバイトですから……」


 議論ともいえない言い争いが熱を帯びていく中、百合子がそっと私に話しかけてきた。


「正美さん、外、出ましょう?」

「……そうだね」


 私達はすぐに荷物をまとめて、会計を済ませて外に出た。

 店の外に出る直前、店内の声だけが響いてきた。


 ベンショーダ! カネカエセ! ナニガセラピーダ! オギャー! オギャー!! ウルサイ!! シズカニサセロ!! テンチョー!! ウギャ―!! テンチョー!! ウギャー! オギャー!! ニドトクルカ! バカニシヤガッテ!! オカネカエシテヨ!! アンギャ―!!!……


 私は、少し強めに音を立てて扉を閉めた。



「なんかごめんね……こんなことになっちゃって……」

「いえ、正美さんのせいじゃないですから……」


 百合子を駅まで送る途中、私は彼女に謝った。

 気にしてないそぶりを見せつつも、百合子の表情は暗かった。


「どこにでもいるよね。あーいう心狭い人。せっかく癒されに来てるのに邪魔されたくないって気持ちはわからないではないけどさ……」

「……」

「それでも、あの場は他のお客さんもいるわけだから、あーやって大声で騒ぐのはよくないよね~」

「……あの、正美さん。それだけ、ですか……?」


 百合子は歩くのをやめ、私の腕をつかんで自分の方に向かせた。つかむ力は少し強かった。


「それだけ……ってどういう事?」

「あの時、赤ちゃんの心配をしてる人、一人もいませんでしたよね? 私はそれが異常だと思うんです。あんな状態になったら、まずは赤ちゃんの身の安全を確認するのが普通でしょう?」

「そう、かな? みんなお金払ってきてるわけだし、自分のことが優先なんじゃない?」

「なんで、そんなこと言えるんですか?!」


 百合子はなぜか大きな声を上げた。私はまたおかしなことを言ったのだろうか。


「え、だって、あのお店は赤ちゃんを使った『癒し』を提供するサービスでしょ? なのに癒されないんじゃサービスとして成立してないじゃん。自分の子供がいない人でもベビーセラピーを受けることができるっていうのがこのお店のウリなんだから」


 しゃべりながら自分の話した言葉を点検する。何も間違っていないと私は思うのだが、百合子はさらに怒りをあらわにした。


「それじゃ、あの赤ちゃんたちは道具だっていうんですか?!」

「違うよ。ほら、アイドルとかと一緒。あの子たちは自分の持つ魅力でお金を稼いでるの。私達はあの赤ちゃんたちの可愛さにお金を払って、そのお金であの子たちはおいしいご飯やかわいい服を着る事ができるの。これって良いことじゃない?」


 私は冷静に言った。思ったよりも自然に言葉が出た。意地になって言っているわけではない。特に普段からこんなことを考えているわけでもない。ただ、状況を自分の知っている知識と結びつけただけだ。多分だけど英子に聞いても同じことを言うように思う。やっぱり、百合子は変わっているのかもしれない。


「魅力でお金を稼ぐ……? そんなのおかしいでしょう?! そんなのは普通親が……!!」


 そこまで言って、百合子は何かに気が付いたように言葉を切り、愕然とした表情になった。半開きになった口から、ほとんど吐息のような声で言った。


「……正美さん。あの子たちは、あの赤ちゃんたちはどこから来たんですか……」


 その言葉を聞いて、私はやっぱり、百合子は変わっていると思った。


「そんなこと、どうでもいいじゃない」

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ベイビー・カフェ 1103教室最後尾左端 @indo-1103

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