破「Baby, I love you.ー Really? 」

 会社を出る時、たまたま百合子にあった。姿勢よく歩く百合子の背中を見つけて、私は昼の事を思い出し、どうしても色々聞いてみたくなってしまった。


「百合子ちゃん。久しぶり」


 私が後ろから話しかけると、百合子が振り返った。広いおでこに、黒縁の眼鏡をかけており、理知的な顔立ちをしている。


「ああ、正美さん。こんばんは。お久しぶりです」


 百合子の言葉遣いは丁寧だ。私を見て少しだけ表情を崩した。久しぶりに見ても、やっぱり賢そうな顔をしている。ますます彼女が「自然繁殖」で妊娠しているなんて想像できなかった。


「ねえ、百合子ちゃん。久しぶりに会えたわけだしさ、ちょっと飲みに行かない? この後時間ある?」

「……ごめんなさい。今、お酒はちょっと」

「あ、じゃあお茶とか飲みに行こうよ。ちょっとでいいから」

「……それでしたらご一緒します」


 百合子はちらりと腕時計を見てそういった。


 私達は近くの喫茶店に移動した。私はコーヒーを、百合子はカフェインレスコーヒーを注文した。


「カフェインレスコーヒーっておいしいの?」


 私が聞くと、百合子はちょっとためらいがちに言った。


「いえ、母体にカフェインは良くないって聞いて……」

「ああ、ごめんね。変なこと聞いて……」


 やはり噂は本当だったらしい。百合子は妊娠しているようだ。


「百合子ちゃんが妊娠して会社辞めちゃうかもしれないって噂で聞いて驚いちゃったよ。ほんとに会社辞めちゃうの?」

「はい。一応辞表は出してます。あとは引継ぎと身辺整理くらいですね」

「えーそうなんだ。じゃあもう会えないのか……。ちょっと寂しいね」

「そう、ですね。この会社には大分お世話になりましたから少し名残惜しいです」


 コーヒーが運ばれてくる。私の前にブラックコーヒーが、百合子の前にカフェインレスコーヒーが置かれる。


「じゃあ、新たな門出を祝して、でいいのかな?……乾杯」

「そうですね。ありがとうございます」


 私達は重いマグカップを軽くぶつけた。陶器同士のゴツッという硬い音がした。「コーヒーで乾杯ってのもなんか変な感じね」と私達は少しだけ笑い合った。


「ねえねえ、色々聞かせてよ。確か相手は佐伯君なんでしょ?」

「ええ~嫌ですよ。お酒も入ってないのにそんな話」


 嫌がるそぶりを見せているが、百合子の表情は柔らかい。そんなに気にしていないようだ。


「えー、じゃあまた今度飲みに誘って聞き出そうかな~」

「そうですね。その時は是非」


 そういって百合子は笑った。会ったのは久しぶりだったが、自然に会話することができた。百合子は目が大きい。眼鏡の奥の瞳は少し落ちくぼんでいるようにもみえるが、それもなんだか可愛らしい。コーヒーが熱かったらしく右手でマグカップを軽くあおいでいる。立ち上る湯気が彼女の手の動きと共にゆらゆらと形を変えた。


 私達は一緒に仕事をしていた時の話をした。上司の悪口は鉄板として、当時の佐伯君をどう思っていたかなんかを聞いた。思い出話は尽きる事なかったし、のろけ話もちょっとずつ引き出すことができた。


 話は弾んで、気が付くともう一時間ほどたっていた。


「でも、いいなぁ。子供。よく産む気になったね」

「ええ、今もちょっと不安ですけどね」

「しかも、自然繁殖でしょ? 天才種じゃなくて」

「ええまあ……」


 コーヒーはとっくになくなっていて、私達は水だけを飲んでいた。


「なんで自然繁殖にしようと思ったの?」

 

 私はごく当たり前の質問をしたつもりだった。それこそ、さっき聞いた「どうして佐伯君を選んだの?」と同じ感覚の質問だった。でも、百合子の表情は、佐伯君の魅力をぼそぼそと語った時の優しい表情とは異なっていた。眉間に薄く皺が寄った、どこか険しい顔になった。


「なんでって……本来それが人間のあるべき姿だからですよ」

「まあ、生物学的にはそうかもしれないけどさー。ちょっと生まれる子供かわいそうじゃない?」

「……どういうことですか?」

「え? だってこれから優秀な人の精子とか卵子から生まれる『天才種』の人はどんどん増えていくわけじゃん? そんな中で競争しなきゃいけない『自然種』って厳しくない?」

「別に……そんなことは……」

「それに、自然繁殖だと障害とか病気とか持って生まれちゃうかもしれないでしょ? 才能も健康も全部運任せって、ちょっとどうかなって思っちゃうんだよね」


 百合子は目を大きく見開いて、机を掌で叩いた。思ったより大きな音がして、他のお客さんも一瞬こちらを見た。急だったので私の心臓も跳ね上がった。


「私は!! どんな子が生まれてきてもきちんと愛します! 精一杯育てます!!」


 芯のある声だった。感情をあらわにする百合子は本当に珍しく、私は面食らってしまった。それでも、私はまだ言葉をつづける。


「いや、それは親側の都合でしょ? 生まれてきた子がどう思うかな」

「……」

「そうする手段があったのに、どうして才能ある子にしてくれなかったのとか、どうして病気や障害がない子にしてくれなかったのとか、そう子供に聞かれた時に百合子ちゃん、どう答えるのかなって」


 百合子は口を真一文字に結んだ。ちょっと、責めるような口調になってしまったかもしれない。百合子を糾弾するつもりはなかった。でも、どうしても聞いてみたかった。しばらく沈黙した後に絞り出すような声で百合子は言った。


「……そんなの、おかしい。才能も病気も、産まれてみないと分からないことじゃないですか……」

「おかしい、かな? 確かに生まれた後の環境も大事だけどさ、少しでも確率を上げるべきだと思わない? 百合子ちゃんがカフェインレスコーヒー飲んだり、お酒控えるたりするのって、生まれてくる赤ちゃんのためでしょ? それと同じだと思うんだけど」


 私はしゃべりながら自分の論理に穴がないか点検した。おかしなことを言っているつもりはない。それでも、百合子は納得いかないような、それでも何も言い返せないような顔をしている。今にも涙がこぼれそうだ。


「ごめんごめん! 別に責めてるわけじゃないよ? 百合子ちゃんの人生だし、百合子ちゃんの好きにすればいいと思う。でも、その辺のことどう思ってるのかなってちょっと聞いてみたかっただけ」

「……いえ。大丈夫です。すみません。感情的になって……」


 百合子は手元の水を一気に飲み干した。私は店員に呼び掛けて水のお代わりを頼んだ。

 百合子の顔は沈んでいて、私はなんだか申し訳なくなってしまった。


「……あのね。百合子ちゃん。私、自然繁殖なの」


 私や百合子ぐらいの世代だと半分ぐらいがもう「天才種」になっていて、自分がどうやって生まれるかを話題にすることはほとんどなかった。自分が「自然種」か「天才種」か知らない子も多い。変な話、自分が自然繁殖だと伝えることは、自分の両親の経済力がないことや、自分の能力が低いことを明らかにする行為になった。私自身、こんな話をするのは初めてだった。


「そう、なんですか……」

「そう。私、生まれてから今まで、いつもどこか『天才種』に劣等感を感じて生きて来たの。時々、『天才種』だったらなって思うこともある。だから、だからね、生まれてきた『自然種』の子の気持ちも分かって欲しいなって思って、あんなこと言っちゃったんだ。悪気があったわけじゃないの。ごめんね」


 そう言って今度は私が水を飲み干し、店員を呼んで水を汲んでもらった。


「……ありがとうございます。そんな話してもらって……気を使わせましたよね」

「ううん。私こそ……せっかく楽しく話せてたのに……」


 なんだか申し訳なかった。これが百合子とのお別れになると考えるとちょっと後味が悪い。どこか別の店に移動しようかとも考えたが、お酒は飲めないだろうし、ボウリングみたいな運動に誘うのもためらわれる。どこか、百合子が楽しめるような所は……


「あ、そうだ。百合子ちゃん。この後、もう少し時間ある?」

「え……。まあ大丈夫ですよ?」

「おっけー。じゃあ、おすすめの場所に連れて行ってあげる。きっと色々癒されるよ!」


 そういって私は伝票をつかんで立ち上がった。


「あ、正美さんお会計……」

「いいの。今日は全部私が奢るから! 百合子ちゃんの新しいスタートを祝わせて!!」

 

 財布を出そうとする百合子をおさめて、私はすたすたとレジに向かった。

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