ベイビー・カフェ

1103教室最後尾左端

序「Petit Ange」

 やわらかな絨毯の上を、「さやか」がハイハイでこちらにやってくる。顔からも、二頭身ほどしかない身体からも、愛らしさが溢れ出ている。女子中高生が挨拶のように交わす軽薄な「かわいい」ではない。私の本能がこの子を「かわいい」と思っている。


 絨毯の上に座る私の膝に、「さやか」が手を触れた。何度か会っているうちに私のことを覚えてくれたのだろうか。それとも、誰に対してもそうするように訓練されているのだろうか。ともかく、無償の笑顔を振りまきながら私に触れる「さやか」は天使そのものだった。


 抱きかかえると、私の鼻腔に甘く清潔な香りが広がった。ミルクの匂いか、着ているベビー服の洗剤の匂いか。ともかく、その香りは私の鼻を通って、頭骨の内部で心地よく広がった。癒し、とは多分このことなのだろう。


 ちょっとだけ強めに「さやか」を抱きしめる。軽い圧迫感が心地いいのか、「さやか」は嬉しそうに声を上げた。まんま、まんまという両唇音は、食べ物を求めているのか母親を求めているのか。もしかすると「さやか」にとってそれは同じことなのかもしれない。五感が活性化していくのを感じる。脳内に甘い痺れが走る。自分の脳の皺が一本一本伸ばされて行って、多幸感にくらくらしてしまう。


 この子のすべてが「かわいい」でできている。曖昧な関節や、ぷにぷにした手足。膨らむお腹も愛らしい。中年男の飛び出た腹や、30歳を超えてから油断するとすぐに下腹につくようになった私の贅肉とは違う。「さやか」のお腹は愛らしさと生命力で膨らんだ風船のようだ。


 ちょっと強く抱きしめすぎたのかもしれない。「さやか」はいやいやと身体をよじった。ほんの少し力を込めれば折れたり割れたりしてしまいそうな柔らかな陶器を連想させる。そっと「さやか」を抱く腕をゆるめ、白い絨毯の上に座らせた。


 「さやか」はコロコロと笑い、またハイハイで私のもとから離れて、別のテーブルに座る女の人のところへ向かって行った。「さやか」が去っていくとき、腕についた名札が見えた。


 ああ、あの子、「さやか」じゃなくて「あすか」か。


 ぼんやりと頭の中で抱きしめた時の柔らかさを反芻しながら、私はおもちゃみたいなテーブルの上に置いてある、冷めたコーヒーに口を付けた。



 店から出る時、いつも後ろ髪をひかれるような思いをした。強すぎる癒しは、日常に戻ることをためらわせる。ベビーカフェ「Petit Ange」が時間制限を設けている理由がよくわかる。長居しすぎるともうその日は仕事なんて手につかなくなってしまう。90分くらいがちょうどいい。


 帰りの電車をホームで待っていると、遠くで喧嘩らしい声が聞こえた。肩がぶつかったか、スマホを落としたか知らないが、他人の迷惑も顧みずに大声で怒鳴り合っている。私は急いでイヤホンをして、音楽の音量を上げた。醜く言い争う彼らにも、天使のような赤ちゃんの時代があったのかと思うと、どうしてあんな風になってしまったのか不思議だった。いっそそのままだったらいいのになんて空想する。


 スマホの画面には、たくさんの通知が来ていた。友人からのメッセージに返事をして、新着のネットニュースを流し読みする。「ベイビーセラピー」の特集記事が目に留まって少しだけ注意して文字を追った。0歳~4歳までの子供と日常的に触れ合う人々の方が、健康指数が高く、老後も痴呆になりにくいという統計結果が出たようだ。記事の中で「Petit Ange」の社長がインタビューを受けていた。社長は私よりも若い二十代後半だった。年収は私の10倍近い。多分、「天才種」なのだろう。


 私はため息をついた。最近、こういうことが多い。少しだけ両親を恨む。どうして自然繁殖なんかで私を生んだのだろう。おかげで私は大変な苦労を強いられているというのに。


 突然、背中を小突かれた。はっとして前を見ると、もう電車が到着していて扉が開いていた。画面に熱中しすぎたせいで、私の後ろに軽い渋滞ができていた。私を小突いた男が何か言っている。耳の中はイヤホンから流れる音楽で満たされていたから、何も聞こえず、男は無声映画のように口をパクパク動かしていた。男もイヤホンをしていた。私が悪いのは明らかなので、少し頭を下げてすぐに電車に乗り込んだ。



 翌日のお昼休み、英子と話していると、「Petit Ange」の話になった。


「え、正美、昨日アンジェ行ったの?」

「うん。ちょっと最近はまっちゃって」

「いいなぁ。私もいきたーい。ね、また今度一緒にいこう?」


 同僚の英子は私に「Petit Ange」を教えてくれた張本人だ。流行に敏感で、色々なことに詳しい。仕事も万事手回しがよく、どうして私なんかと仲良くしてくれているのかわからないくらい、よくできた友人だ。最近、英子も「天才種」なのではないかと少し疑っている。


「でも、いいよねえ。子供。ちょっと憧れちゃうな~」

「え、英子子供作るの?」

「いやいや。憧れてるだけだよ。だって毎日無料でベビーセラピー受け放題ってことでしょ? めっちゃ羨ましい~」

「あはは。英子の子供なら絶対かわいいよね」


 英子の容姿は、友達としてのフィルターを通さずともかわいい。目鼻立ちが整っていて、同い年のはずなのに、皺やシミの類が全然見られない。大学生と言われれば信じてしまいそうな若々しさだ。背が高く、身体も細くて、どんな服でも似合う。寸胴の私とは大違いだった。


「そんなことないよ~。正美は? 子供作る予定は?」

「ないない。全然ないよ。天才種ってすごいお金かかるし、学費とか仕事休むとか考えたら絶対無理」

「あ~。天才種ってめっちゃ高いもんね。自然種は?」

「う~ん。これからの世の中、自然種じゃ絶対苦労するよ。病気とか障害とか持ってたらかわいそうだし」

「そっかー。まあ私も大体一緒かな。我々貧乏人はベビーカフェくらいでちょうどいいか」


 そういって英子は笑った。つられて私も笑う。声を上げて笑っているのに、英子の笑う姿は全然下品じゃなかった。


「あ、そうだ。自然種と言えば、百合子いるじゃん? 隣の課の」


 百合子は私達と同期入社で、一時期同じ部署だったことがある。それなりに仲良くしていたが、少し変わった子だった。


「うん。百合子がどうしたの?」

「なんか、妊娠して会社辞めるらしいよ」

「え?!」


 私は驚きが隠せずに大きな声を出してしまった。「子供」は富の象徴だ。「天才種」の精子は信じられないくらい高額だし、自然繁殖するにしても生まれた子供を育てるには云百万、云千万はくだらない。課は違うと言っても、私と百合子の給料がそんなに違うとは思えない。


「どうも自然繁殖らしいよ。相手は同期の佐伯君だって」

「へえ……。佐伯君ってそんなにお金稼いでるの?」

「いや、私達と同じくらいじゃない?」

「え、それなのに百合子が仕事辞めちゃったら、お金足らないでしょ」

「そうなんだよね~。ちょっと変わった子だよね、百合子って」


 英子も首をひねる。いくら何でも育てる準備もなく子供を産むなんて、百合子はそんな無責任なことをする子ではないと思う。不思議だった。


 そのあと、私達の話題は上司の悪口にシフトしていって昼休み中に百合子の話に戻ることはなかった。ただ、昼食が終わっても百合子のことが頭から離れなかった。頭の中で、百合子が大きなおなかをさすっている様子を想像し、妙にモヤモヤした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る