第3話
人生とは選択の連続だ。
例えば今日の朝食は米にするかパンにするか。靴下を右から履くか左から履くか。こうした些細な選択に始まり、やがて職業や人生のパートナー、住居、そういった一生を左右するような選択をも迫られる。
人は生きていく中で常に何かを選び続ける必要がある。そしてこの人生の選択を一度も
すなわち人間とは生きながら間違いを犯す生き物だ。
過去を過つとはよく言ったものである。
だが同時に犯した間違いを反省し、改善する知性がある。
自らの行いの何が問題となったか、どういった問題が生じたのかを分析することで、人は次の事態に備えて成長することができるのだ。
「なぁ須藤。お前、宇野さんと喧嘩でもしたの?」
朝のホームルームが始まる前、ぼくは友人達から声をかけられた。彼らはまるで内密の探りを入れる探偵のような、軽薄そうでありながら興味を隠しきれない瞳をしている。
「どうして?」
「どうしてって……あの誰にでも分け隔てない宇野さんが露骨に須藤を避けてるだろ? 何もなかったと思う方が難しいっていうか」
「須藤って宇野さんと去年から同じクラスで仲も良かっただろ? 宇野さんも須藤のことを何かと気にかけてたし。なのにここ数日の様子を見てるとなぁ……」
彼らは口々に言った。内容が友人関係に関わることだから詳しく聞きづらい、という様子。だが好奇心のほうが勝るようで。
「何かしたんだろ?」
「何かと言われても……」
すると、教室のドアが開いた。入ってきたのは件の宇野さんだ。
ぼくは片手を挙げて声をかける。
「やぁ、宇野さん」
ところが宇野さんはぼくと目があった途端、顔を赤らめ逃げてしまった。隣の席に鞄だけを置くと、すぐに別の席に座っていた友人の元へ行ってしまう。
「うーむ……」
「『うーむ……』じゃねぇよ。絶対何かしただろ!」
確かに、ここ数日ぼくが宇野さんから避けられているのは事実だ。そしてその心当たりもある。
「何をしたのか知らないけど、謝るなら早いほうがいいぞ?」
「そうそう、こういうのは時間がかかるほど拗れるんだ」
さも含蓄があるように何度も頷く彼らは、ぼくと宇野さんの仲を心配してくれているよう。
「実のところ、ぼくにも心当たりがないわけではないんだ」
「おっ、マジか」
「でも、それは少しの不幸な勘違いが原因だと思っているんだ」
「勘違い」
「そう、勘違い」
すると友人二人は互いに顔を見合わせ、困ったような笑みを作った。
「まぁ、お前って割と勘違いされやすそうだもんな。たまに変な行動するし」
「確かに。色々考えてる癖に言葉足らずっていうか?」
「ひどいな、二人とも」
そこで予鈴が鳴った。二人はそろってぼくの肩に手を置き、
「何にせよ、誤解を解くのも謝るのも早い内がいい」
「そうそう。あとは自分の考えを相手に伝えて、できるだけ誠実に謝るんだ。いいか、麗しの宇野さんを困らせるんじゃないぞ?」
そう言い残して席へと戻っていった。まったく、好き勝手な連中である。
昼休み前の四時限目、黒板に踊る文字を眺め飽きたぼくは、いつものルーチンのように視線を隣の席に座る宇野さんへ移した。
夏の日差しを一杯にあびる宇野さんは今日も魅力に満ちあふれている。薄手のワイシャツの袖からマーカーペンを取り出して教科書に線を引いている様子を、ぼくは見逃さなかった。袖口に内ポケットが付いているわけではなさそうだ。そもそも半袖だし。
やはり何度見ても、彼女のワイシャツをとりまく物理法則はぼくの理解の範疇を超えている。今日もその薄衣一枚の奥には未知なる宇宙が広がっているようだ。彼女の横顔を見ているだけでむくむくと探究心が増してくる。
だがいつもとは異なる点として、宇野さんも時折僕のほうへ視線を送ってくることがあげられる。
授業中なので控えめだが、いつもよりも宇野さんは授業に集中できていないようだ。ちらちらと視線をぼくに向けては、顔を赤らめて逸らす動作を繰り返している。
……これは、本当に早めに誤解を解く必要がありそうだ。そうしないと普段の宇野さん観察結果にも支障をきたしてしまうかもしれない。彼女のコンディションとワイシャツとの間に相関関係があるかどうかは明確ではないが、懸念材料は取り除くべきだろう。
やがて授業終了のチャイムが鳴り、昼休みが始まった。
誤解を解くなら早いほうがいい。それから自分の考えを相手に伝えて、誠実に謝るべき。
ぼくは友人二人のアドバイスに従い、さっそくこの昼休みに行動に移すことに決めた。
「あの、宇野さん――」
ぼくが声をかけるも、宇野さんは慌てて席を立つ。そして時空が歪んだ胸元から可愛らしいお弁当の包みを取り出すと、友達の席へと移動してしまった。どうやら友人達と一緒にお弁当を食べるつもりらしい。
彼女の席に残されたのは学校指定の鞄だけ。時折思うのだが、彼女の荷物の過半数はワイシャツの中へ収納されているのにもかかわらず、なぜ宇野さんは鞄やペンケースを持ち歩いているのだろうか。
足早に移動した宇野さんはすぐさま友人の元へ迎え入れられ、女子同士の華やかな昼食の場が形成されてしまう。男子が声をかけづらい雰囲気だ。
しかし、物事を一つ成し遂げると決めたぼくはこの程度で物怖じすることはない。堂々と正面から行けば良い。おそらく、そのほうが誠実さも伝わるはずだ。
「宇野さん、少し良いかな」
声をかけると、宇野さんよりも先に彼女の友人三名の、六つの眼がぼくを射貫いた。みんな少しだけ気まずそうな表情をしている。昼食の場を乱して申し訳ないという気持ちが僅かに芽生えた。
「……な、何か用かな?」
一方の宇野さんはこちらに背を向けて視線を合わせてくれない。
「うん。この間の頼みごとの件で、宇野さんに謝りたくて」
「……そっか」
ぼくがそう告げると、宇野さんは何かに納得したようにぼくの方を振り返ってくれた。
だからぼくはしっかりと頭を下げて、謝罪の言葉を口にする。
「あのときは、きみのワイシャツの中に手を入れたいなんて言ってごめん」
「ちょっ!?」
クラスが騒然となる。近くにいた女子が一斉に宇野さんを見た。
「え、涼花ちゃん、それホント!?」
「ち、違うの! ご、誤解だよ!?」
「誤解なものか。ぼくは確かにきみにそう言った」
友人達のアドバイスに従い、ぼくは真摯に自分がどういう意図であんな頼み事をしたのか伝える。真っ直ぐに彼女の瞳を見つめ、自らの言葉で気持ちを明らかにする。
「突然あんなことを言われれば、困惑する気持ちも分かる。けれど、ぼくはきみのことを、去年からずっと見ていたんだよ。そして、いつまでもきみのことを見ているだけじゃダメだって、そう思ったんだ」
「えっ、それって――」
「ぼくはもっと宇野さんのことを知りたいんだ」
「ちょっと待ってね!?」
と、そこで顔を林檎のように真っ赤にした宇野さんが手でぼくの口を押さえた。
「もがもが」
「こ、こっちに来て!」
手を引かれ、大慌てで教室から連れ出される。そのまま
宇野さんはぼくに向き合い、恥ずかしそうに俯いた。落ち着かないのか胸の前で何度も手を合わせたり離したりしている。
「あ、あのね須藤くん。き、気持ちはとっても嬉しいんだけど、やっぱりムードとかって大事だと思うの!」
「ムード」
「ほら、やっぱりそういう告白は、二人きりのときの方が嬉しいというか」
「二人きり」
「嫌なわけじゃないの! けど、やっぱりクラスの皆が見てると恥ずかしいし……」
「なるほど?」
話が見えなくなってきた。
「ともかく、ぼくの伝えたいことは伝えたよ」
宇野さんは熱に浮かされたような表情のまま、潤んだ瞳でぼくを見上げた。
「いきなりのことで驚いちゃって、まだ気持ちの整理がついてないんだけど……でも、とっても嬉しい」
気持ちの整理をつけなければならない要素がどこかにあったのだろうか。やはり彼女の言動は不思議だ。
だがどうやら宇野さんは喜んでいる様子。なら概ね問題はなさそうだ。
「そっか、良かったよ」
「私も、須藤くんにもっと私のことを知ってほしいし、私も須藤くんのことをもっと知りたい」
「本当かい!?」
「うん!」
彼女の提案に、ぼくは驚き普段は滅多に出さない大きな声を出してしまった。
だが、それほどまでに彼女の提案は魅力的なものだ。なにせ、未知の元凶たる宇野さんが自ら、自分のことを知ってほしいと願っているのだから。
宇野さんは心の底から嬉しそうな満面の笑顔で応えてくれる。良かった、これで宇野さんのワイシャツの謎が解明できるその日までぐっと近づいたことだろう。ぼくは嬉しさのあまり、おもわず踊りだしそうな心地だ。
これは人類にとっては小さな一歩だが、ぼくにとっては大きな一歩だ。きっとそうだ。
今すぐにでも宇野さんから詳しい話を聞きたいところだが、今は焦らなくてもいいだろう。何故か理由は分からないが、彼女はどうも気分が落ち着かない様子だから。
「それじゃあ、教室に戻ろうか」
「うん、分かった。あの、須藤くん」
「何かな?」
「こ、これからもよろしくね!」
「うん? こちらこそ?」
教室に戻ると、宇野さんは友人達の元へ向かった。そういえば彼女はお弁当を食べている途中だった。
何やら女子が宇野さんを囲んで彼女に質問をしているようだが、一体何の話をしているのかまでは分からない。まぁ、気にしなくても良いだろう。女性の会話を盗み聞きするなど、紳士の所行ではない。
ぼくはぼくで、宇野さんとの関係にアドバイスをくれた友人二人にお礼を言いにいった。
「二人ともありがとう。おかげでどうやら誤解が解けたみたいだ」
すると二人は大きなため息を吐いて、
「お前、凄ぇな」
「凄いを通り越してもはや怖ぇよ」
なぜだろう。とても呆れられた気がする。
そのまま昼休みもつつがなく終わり、次の授業が始まった。科目は数学。我らが萩野先生の担当だ。
萩野先生はおっとりとした口調で教科書の内容を説明しながら、黒板に数式とグラフを書いていく。
ぼくはいつものように、隣の席に座る宇野さんに視線を向けた。
彼女はちょうどワイシャツの胸元から定規を取り出して、ノートに黒板のグラフを写していた。その三十センチ定規はどうやって中に入っていたのだろうか。
せっかく宇野さんが協力してくれるようになったのだ。本人に、その謎の真実を直接問うてみる。
「ねぇ、宇野さん」
「どうしたの? 須藤くん」
宇野さんは何故か嬉しそうに微笑んだ。まるでこの世の春が訪れたかのような、思わずこちらもほころんでしまうような可憐な笑顔。何か良いことでもあったのだろうか。
これだけ機嫌が良いなら、きっと教えてくれるだろう。ぼくは意を決して宇宙の謎を尋ねた。
「そのワイシャツのなか、どうなっているの?」
すると宇野さんは少し悩むような素振りをした後、小さくはにかんで。
「――内緒、かな」
どうやら、秘密をそう簡単には教えてくれないらしい。
いつか宇宙の神秘を解き明かすその日まで、ぼくの好奇心は尽きることがない。
隣の席の美少女のワイシャツの隙間に宇宙を感じるだけの小説 雉里ほろろ @kenmohororo
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