第19話

 ようやく最終地点に辿り着いた二人の男は、まるで夢と現実の間に佇んでいるような心地になってきた。

「吃驚仰天させるなって。おいおい秋野、この際もう何もかも洗いざらい俺たちに話してさ、きちんと説明してくれ」

 夏岡は狐につままれたような表情で踊り場に佇む母子を見上げている。

「それじゃあ、報告するわ。来年に風屋君と娘の美月が結婚します」

 夏岡と冬木は青天の霹靂のような降って湧いたその話に驚愕した。これでは開いた口が塞がらない。まさか冗談ではあるまい。しかしながらあまりにも素っ頓狂な、信じ難いその事実に二人は声が出なくなった。

「……そういうことです。あたしはまだ来年も大学生なんで、学生結婚になりますが。それから今は海外に出掛けてる健さんからの託けだけど、冬木さんのゲーム会社には出資してあげるってさ」

 その秋野の娘の言葉に、冬木は電撃を浴びたようにして我に返った。

「それって本当?素晴らし過ぎる。こんな有難いことはない、この御恩は一生忘れません」

 冬木は合掌して、神棚を拝むように、段上の母子へ深々と頭を下げた。

「だけど、そこのマッチョな夏岡さんには一銭も出ないわ。だいたい何?健さんのSNSに送ったあの命令口調のメール。あれじゃあ、まるで健さんが子分みたいじゃないの。いったい何様のつもり」

「私もそのメール、美月から読ませたもらったけど、あれじゃあ風屋君に相手にされなくて当然ね。だって同窓会に一度も出席してない人に対して、必ず参加することって、まるで強制じゃないの。もし風屋君がその誘いに応じてたら、あの雨の金曜日の同窓会カルテットに特別ゲストで現れたんでしょうけど、そんなの無理。それに風屋君、私たちの記憶なんて殆ど無かったみたいよ。だから美月と彼が出会ったのは本当に奇跡的な偶然としか思えないわ」

「ちょっと待ってよ、ママ。奇跡的な偶然なのはママが健さんと同級生だったこと。あたしと健さんのは奇跡じゃなくて運命。初めて出会ったのは広島で開かれた反核、反戦、護憲の集会だったけど、あたしは生まれる前から、きっとあの日に広島へ行くことが決まってたと思う」

 運命という言葉を発した秋野美月の瞳は若々しく輝いている。恐れを知らぬ気高さだ。


「……しかし、上手くいくのかな?これって秋野のケースよりも、さらにうんと離れた年の差婚だろ」

 夏岡は不機嫌そうに冬木へ共感を求めたが、その冬木は反対に上機嫌であった。なぜならこの家に入ってほんの数分程度で、商談がまとまったようなものだからだ。胃の底に沈んでいた不気味な圧迫感がやっと溶けつつある。

「母親の私は賛成するしかない。二人の幸運と幸福を心から願い、そして祈ってる。美月と風屋君を応援するわ」

 忽ち、秋野のその言葉に娘の美月の瞳は潤んできた。ひょっとすると当初、母親はこの結婚に難色を示していたのかもしれない。

「心配しないで、ママ。健さんとあたしは同志だから。きっと健さんはパパより長く生きてもママよりは早く死ぬと思う。でも大丈夫。死は宇宙の住所変更に過ぎないって、健さんにそう言われた。だから夫に先立たれた後の時間が長くても、夢の中ではずっと会えるもん。それこそ新しい家に遊びに行くみたいに」

「……ロマンチックだな」

 それは秋野美月と今ここには不在の風屋健を、祝福したい冬木の素直な気持ちから出てきた言葉であった。

 冬木の漏らしたロマンチックという言葉が聞こえたのか、秋野美月は嬉しそうに微笑んでいる。それから冬木へ親愛の眼差しを向けて、小さな口を開いた。

「冬木さんの会社へ健さんが出資するには、一つ条件があります。あたしは大学に入ってから、世界中の人たちとインターネットを通じて環境保護の活動も始めたんだ。それでそうしたテーマのゲームを開発してほしいってこと。ゲームをプレイした人たちに、今の文明の酷い環境破壊の路線から方向転換する意識が芽生える企画ならベストです」


 冬木は秋野美月の提案を受け入れたことを証明するように、無言のまま丁重に頷き了承した。恐らく風屋健は、彼女を含めた若者たちが連携して活動している環境保護運動のパトロンか何かに違いない。やはり只者ではなかったのだ。

「勿論だ。やってみよう。出資してもらえるのなら、他のプロジェクトを中止してでも始めるよ。現状のうちのスタッフでそれに相応しい良質なアイディアが出なければ、優秀な新しいスタッフを雇用して参加させる。そして絶対に実行するとも。約束する」

 冬木の明確な回答に、秋野美月は清々しい笑顔を見せた。それから彼女は母親の手を優しく柔らかく握った。どうやら少し緊張していたようだ。心の中で数を数えるようにしてゆっくりとその緊張を解くと、彼女は眼下の夏岡と冬木へ真摯な目を向けた。

「あたしも健さんもイジメられっ子だった。原因もはっきりしてる。私と健さんの場合は、大人社会の偏見が子供社会に飛び火したってパターンよ。健さんは中学生の時に富山から名古屋に引っ越して来たの。それで富山の薬売りの転校生ってネタと、挙動不審の気弱さがきっかけ。しかも富山の薬売りって入れ知恵は教師やPTAの連中から。あたしはよく知らないけど、富山の薬売りって戦国時代にスパイだったんでしょ。それでずっとイジメの対象」


 その話に夏岡は堪えきれずに噴き出した。すると忽ち秋野美月は眉をしかめた。

「笑わないでよ。どうやら夏岡さんは、健さんが中学時代にスパイのネタで虐められてたの知ってたみたいね。この際だからバラしちゃうけど、あたしがイジメの対象になったのは、ママと夏岡さんがラブホテルに入ったとこを第三者に目撃されてから」

 それを知った冬木は夏岡へ軽蔑の視線を向けた。

「ごめんなさい。美月」

 娘を慰るように母親の秋野は美月を強く抱き締めた。しかし身長がもう娘の方が少しばかり上なのは明白であった。

「申し訳ない!俺が悪かった。馬鹿だった。だけど安心してくれ。あの時は何も起きなかった。秋野の身は潔白なんだ!」

 そう大声で叫ぶように言い放った夏岡は、瞬時にその場で土下座していた。


「知ってるよ。そんなこと。今さらここで釈明されなくっても、ずっと前にママからその事実を聞かされてるもん。でも、あたしも健さんも周囲の大人たちが下劣じゃなければ、ひょっとするとイジメられなかったかもね。もしあたしが学校の先生だったら、イジメを発見した場合、イジメっ子に説教するだけじゃなく、イジメっ子の親も呼びつけて説教するな」

 秋野美月の話を聞ききながら、夏岡はまだ土下座の姿勢を崩さないでいる。冬木はそんな夏岡を無視したまま口を開いた。

「さすがは秋野の娘だ。大したもんだ。立派に育てたね」

「ひどいもんだよ、イジメって。虐げられ、叩きのめされ、踏みつけられ、侮辱されてさ。そりゃあ、鬱にもなるわよね。弱肉強食なんて間違ってる。誰かが勝って得したら誰かが負けて損するゼロサムゲームの行きついた先が、ほんのちょっとの勝ち組とその他大勢の負け組で構成された極端な格差社会。健さんは大学卒業後に就職した会社で地味な音響技術者として働いてたの。それで地道に貯めたお金をもとに投資で成功して大富豪になったけど、勝ち負けには興味ない人よ。資産の半分以上はちゃんと自分で調査して信頼できるところに寄付してるわ。だから驕り高ぶってないし、暴利を貪って莫大な富を享受している自分たちの状態を変えたくない権力者たちや、庶民でも浪費のあげく借金して、我が子に児童労働までさせて搾取する奴らとは根本的に違う」

 

 そこまで熱く語った秋野美月は、今度は可憐な表情で母親と目と目を合わせた。

「十代だった頃の健さんがイジメのせいで心が荒まなかったのは笑いのおかげだよ。チャップリンの映画を見たり、そんな可笑しなストーリーやその場面を自分で空想してたからなの。だから起死回生のストレス発散であの人が自作自演したこれを聴かされた時には、顎が外れるくらい馬鹿笑いしちゃった。ほんと、お臍でお湯が湧くって感じ。自分の中の鬱が全部、吹っ飛ばされた。弱者や敗者を馬鹿にしない笑いって素敵。怒りを消して尖りを丸くするでしょ。強い権力もやっつけちゃう。タテがヨコに変わって上からの圧力も消える。笑うから楽しくなるし、幸せになれる。免疫力も高まる。身体の痛みを抑えるホルモンも出る」

 リラックスした様子で話しだした秋野の可愛い娘はスマートフォンを操作し何かのスイッチを入力した。すると約三十年ぶりにあの笑い袋のテープが大音量で、このだだっ広い空間全域に轟き渡った。居合わせた四人はその場で一斉に腹の底から大笑いした。





 

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笑い袋 大葉奈 京庫 @ohhana

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