第18話
「……そのまま庭から入って良いそうよ」
スマートフォンでメールをしていた秋野が玄関の扉を静かに開けると、穏やかなクラシック音楽の調べが、緑の芝生を敷き詰めた庭を舞う蝶のように美々しく聴こえてきた。秋野を先に送り出した夏岡と冬木は、車内で一息つくと冷房の効いた車から降りて真夏の午後の厳しい暑さに滅入りながらも、風屋健の豪邸に吸い寄せられて行った。
秋野の手招きで室内に入った途端、夏岡と冬木は靴を脱ぐ暇も無いまま、いきなりリビングというその奇想天外な空間構成に圧倒された。まず三階の高さを貫く吹抜けの天井に驚かされる。豪華なシャンデリアは光を発していないが、快適な音響でモーツァルトのピアノ協奏曲が聴こえてくる大型スピーカーが設置された四つの壁には、北欧風の鳩時計と明朝体の文字表記だけのカレンダー、それに幾何学的な抽象絵画がさほど大きくはない窓と調和するようにバランス良く飾ってあった。正面の壁に面した階段の踊り場には奥の部屋に繋がる扉と本棚と観葉植物が、そして一階の広々としたリビング中央には青紫色を基調にした絨毯が敷かれ、抹茶色のソファーと小豆色のテーブルという質素な応接セットが配置されているのだが、左脇にポツンと置かれた漆黒のグランドピアノ以外に物らしい物はほぼ何も無かった。そしてこの広々とした空間にはまだ秋野と夏岡と冬木の三人しか存在しない。
秋野がメールをしていたと思われる渦中の人物、風屋健は正面階段を上り切った踊り場の扉を開けていよいよ現れるのか。リビングのテーブルには珈琲カップと皿が用意されていた。皿は空だが、誰かがケーキを食べた後のような余韻が残っている。
夏岡は秋野に蚊が鳴くほどの小さな声で訊ねた。
「風屋はこの家のどこかにいるんだろ」
「さあ、どうかしら」
その秋野の突き放したような返答は不可解であった。ところが夏岡は遠い過去のいつかどこかで、今のような秋野の態度を感じた瞬間があったような気がした。すると冷や水を浴びせられたようにして秋野を舐めていた自分自身の落ち度に今更ながら気付いた。多分、秋野は風屋健の居場所や正体を知っている。そしてそれは夏岡と冬木には未知の領域であった。
突然、踊り場の扉がゆっくりと開いた。だが現れたのは風屋健ではない。冬木は頭の中でシナリオを組み立てていたが、瞬時にそのシナリオが崩壊したのを感じた。
踊り場に立っているのは、まだあどけない少女の面影が残る若い女性であった。桃色のTシャツに水色のジーンズというラフな格好だ。
「あれっ、美月!美月だろ、何年ぶりだろう。どうしてここにいるんだ?」
驚きの声をあげたのは夏岡であった。この美月という女性は秋野の娘である。
「ちょっと、その美月って名前で呼び捨てにするのやめてくれません」
あまりにも意外過ぎる展開に、冬木は驚嘆した。若い頃の秋野に容姿も声も瓜二つであった。
「そうね、少しは家族ぐるみの付き合いがあったからって、ちょっと馴れ馴れし過ぎるわよね。ママもそう思う」
娘の美月を見上げていた秋野は素早い身のこなしで階段を上がり踊り場まで進んだ。
「美月って、あの美月ちゃん。大きくなったな。俺は子供時代しか知らないけど、昔の秋野にそっくりだ」
冬木は夏岡にそう言うと、突如としてある閃きに襲われた。そうだ、風屋健はきっとまた今日も現れない。母親の秋野が踊り場の娘に寄り添った段階で、彼はそれを確信した。
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