第17話
昆虫の群れのような渋滞に変化が生じていた。道路を埋め尽くす車の波が潮をひくように右へ右へと流れだしたのだ。
「やっと抜けれそうだ。右に曲がった連中はどうやら競馬が目的」
夏岡はやっと肩の荷が下りたような心地良さを感じた。
「船橋競馬場だっけ。結構、多いんだな、競馬する奴ら。そういえば競馬のゲームを開発してる友人がいてさ、仮想現実で満足してくれたら、そっちの方が本望だって言ってたよ。間違ってもゲームがきっかけでリアルな競馬にどっぷりはまるなんて勘弁してくれって。ギャンブル漬けで家計崩壊なんて洒落にならないもんな」
「本当ね。でも最近、そういう大変な家庭の噂もちらほらと小耳に挟むようになった」
後部座席の秋野が操作していたスマートフォンをバックに仕舞いながら冬木に頷いている。
「この前タクシーの運転手さんから聞いたんだけど、私たちと同世代の主婦でもいるみたいよ。競馬に限らずギャンブル依存になってる人たちって」
「やばいよ、それ。いったいこれから日本社会はどうなっちまうんだろうな。一億総中流が実感できた時代がもう遠い昔に思える」
冬木は嘆きながら腕を組んだ。
「俺は一攫千金を狙う連中の気持ちもわからなくはない。それに宝くじもそうだが、競馬や競輪の金だって社会福祉にまわってるんだろ。だからメディアで爽やかな俳優たちに競馬を宣伝させてるってわけさ」
「でも、私はあの類のコマーシャルに出演してる芸能人の人間性に首を傾げるわね。高いギャラが貰えてるのかもしれないけど、私がもし同じ立場にいたとしたら、きっと断ってる」
「よく言うよ。玉の輿に乗った身分で」
その夏岡の皮肉に秋野は多少の不快感を覚えた。
「それは違うわ。私は夫を金ではなく愛で選んだ。確かに夫は資産家の出身ではあるけど、一生寝て暮らせるような身分じゃないもの。むしろ苦労人のサラリーマンに近い」
「秋野の旦那さんは俺たちより随分と年上だし、昭和の高度経済成長時代の企業戦士を見本にしなきゃならなかった世代だ。そりゃあ苦労しただろう。とは云っても、バブル景気の時は俺たちとは違って大企業の管理職だったんだから相当に良い思いもしてるんじゃないの。秋野はあの頃には、家族で海外旅行へも毎年行ってたじゃないか。同窓会で若奥様だった秋野から海外土産を貰った記憶がある。俺が会社で残業地獄の缶詰めになってゲームプログラムを組んでた時期にね」
「そんな殺人的に多忙な日々でも、おまえは会社を抜け出して同窓会に現れたっけ」
ハンドルを握る夏岡は渋滞を抜け出せた解放感に満ち溢れている。彼が運転する車は波に乗るようにして速度を上げた。
予定よりも時間に余裕がある為に、三人は川を挟んだ広域公園で少し休憩することにした。秋野と冬木はバーベキューガーデンの側のベンチに座っているが、夏岡はスーツの上着を脱いで体をほぐしつつ軽いストレッチ運動をはじめた。
「そうやって四六時中あちこち体を動かしてるから、オッサンになってもスポーツマンの体型が変わらないわけだ。羨ましいよ。しかしやっぱり夏だな。暑くなってきた。この辺りは北総地域だから都心よりはましかと思ってたが」
体を動かしていない冬木はハンカチで額の汗を拭いている。
「冬木君もなんかスポーツしたらどう?奥様が喜ぶわよ、きっと」
「今からじゃあもう手遅れさ。この体型は中途半端にスポーツしたって変わらないよ。ほら、あのCMでやってる劇的にシェイプアップするジムがあるだろ。ああいうのじゃないと無理だって、俺の中年太りの改善は」
「バレーボールやるか?冬木。劇的に痩せるのは無理でも、今よりは健康になれる」
冬木は夏岡のその物言いに呆れて天を仰いだ。
「……おまえは今日、風屋とは話さない方が良いんじゃないかな」
「なぜ?」
冬木の問いかけに夏岡は疑問符を打った。
「それはおまえが昔から、他人に対して上から目線だからさ。対人関係において自慢が多い、水戸黄門の印籠みたいにバレーボールの実績を誇示したりする。それは不味いよ。そんなのは通用しない。この前も話しただろ。面と向かったら風屋に対して尊敬の念を込めて挨拶しろってな」
その冬木の言葉に秋野は無言で頷いたが、言われた夏岡は無反応であった。
「風屋は億万長者でも、宝くじに当選したわけじゃない。俺たちが狙ってる金は、彼本人が努力して築いた個人資産なんだぜ。それにどうも、こうしたやり方ってのはフェアじゃない気もする。だってそうだろ。俺たちは単に高校時代の同級生ってだけで、別に風屋と親身にしていた仲間ではなかった」
「確かにそうね。ほら、こういうのあるじゃない。大金持ちになったら親戚が急に増えたって話」
「おいおいどうしたんだい、秋野も冬木も。俺たちはそんな狡猾な輩じゃないだろ」
「それはどうかな。俺と秋野は狡猾じゃなくても、おまえは狡猾かもしれない。そもそも風屋健のネタを出してきたのはおまえだし」
夏岡は返答に窮したが、逆に自分から二人を試したくなって質問を投げることにした。
「じゃあ、どうする。来た道を引き返すか?」
夏岡の問いかけに冬木と秋野は心外だという呆れた表情を見せた。
「馬鹿を言うなって、ここまで来て。なあ夏岡、おまえには別の選択肢はなかったのか?同級生の個人資産を当てにするんじゃなく、旧財閥系の巨大企業にプレゼンテーションするとかさ。おまえだって地銀で五年以上働いてたんだし、今は個人事務所の仕事以外に専門学校で非常勤講師もしてるんだろ。仕事に使える人脈がゼロってわけじゃない。国に認可されてる学校法人なら相当な資産を保有してるはずだぜ」
「冬木君、言うね。でも夏岡君には無理よ。この人、プライド高いし、他人に頭下げるの苦手でしょ」
「流石は秋野、よくわかってるよ」
夏岡はそう言って話の腰を折ると、車が停めてある駐車場に向かって走り去った。
「……女の勘だけど、この話は失敗すると思う」
秋野は駐車場への道を冬木と並んでゆっくりと歩きながら小声で囁いた。
「実は俺もそんな気がしてた」
「風屋君は私たちとは違って、ずっと遠くにいてずっと遠くを見てる……」
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