第16話

 その日は珍しく快晴の空に小雨が混じった日曜日であった。秋野と夏岡と冬木は、風屋健が常連客だという八幡のカフェで時間を潰している。開店した朝十時頃に集合し、サンドウィッチを食べながらコーヒーを飲みつつ談笑していたが、風屋健の話は一言も漏らさなかった。なぜならコーヒーを飲み終えた後に、三人揃って向かう目的地はその当人の家だからだ。そして何よりも留意しなければならないのは、このカフェのマスターが彼の知人だということだ。夏岡と冬木は夏物のスーツ姿だが、秋野は対照的に幾分ラフでカジュアルな装いである。


「……結局、春澤は来れないんだな」

 他愛もない世間話から、冬木はやや不機嫌そうな夏岡の顔を見やって呟いた。

「仕方ないわよ。これに懲りて夏岡君もそろそろライフスタイルを変えるべきよね。果歩は今頃、名古屋に帰省してるし」

「そうなのか。知らなかった」

 淡々とした口調の秋野の報せに夏岡は少し驚いた。

「お見合いするんだって。私の勘だと結婚すると思う。初婚同士でね。相手は大学卒業後、ずっと市役所に勤務している真面目を絵に描いたような公務員。それで果歩よりも三つ年上」

「良かったじゃないか。公務員なら残りの人生なんてほぼ安泰だ。まあ、子供は今からじゃあ難しいだろうが。俺のとこみたいに」

 そう言った冬木はマスターにケーキを頼んだ。

「おまえ、甘党だな。朝からケーキなんて」

 夏岡は太っている冬木を揶揄ったが、春澤の見合いの情報で若干動揺を隠せないでいる。

「朝からケーキだから、コーヒーに砂糖は入れてない。これでもちゃんとバランスを考えてるんだぜ。医療が格段に進歩した現代は、人間五十年が決め台詞だった中世とは違うにせよ、健康管理にもバランスは大切だ。俺は今週はえらく睡眠不足でさ。ほどほどの糖分の摂取は疲れがとれるんだよ。たとえそれが気休めでもな。それにバランスは交渉事にも必要だからさ。何よりこれから会う交渉相手は手強そうだし……全く頭が痛いよ。俺の引き出しの中にある材料を、どんなに知恵を絞ってバランス良く組み合わせたとしても全く通用しない気もする。残念ながら」

 冬木の話が風屋健の名前を出さなくとも、その存在を匂わせるような内容であった為に、夏岡は眉を顰めてたしなめた。秋野も警告を発するような表情に変わっている。

「心配するな、大丈夫。見ろ、マスターはまだケーキを調理中」

 冬木は相対した二人へ、安心させるようにそう小声で囁いた。


 後部座席を一人で占有している秋野がスマートフォンでメールのやりとりをしている。運転する夏岡と助手席の冬木はそ知らぬ振りをしていた。夏岡の車は渋滞に巻き込まれている。都心を抜けて千葉に入っているとはいえ結構な車の数であった。

「失敗したかな。何年か前にも家族サービスで似たようなケースがあった」

 ハンドルを握る夏岡が呟いた。

「俺は平気だぜ。時間的な余裕はまだまだあるじゃないか。まあ事故だけは気をつけてくれよ。それに佐倉市に入る頃には空いてくるだろ」

 車内は冷房がよく効いていて快適ではあったが、夏岡は幾分不愉快な気持ちを隠せずにいた。春澤の幸せを素直に祝福できない自分が心の何処かにいる。これでは半世紀近く年を重ねてきたにも関わらず、どんどん薄汚く駄目になってきているようではないか。それに専門学校で毎年短期ではあっても非常勤講師を勤めている身としては、高校教諭の職業人としての春澤の助言は貴重でもあった。彼のハンドルを握る手は濡れたぞうきんを絞るように握力を強めていた。

「秋野は旦那さん、元気にしてるの?」

 冬木のその秋野への問いかけに夏岡は少し気が楽になった。前方の渋滞は何処までも続く線路のようだが、行列に並ぶのが好きな日本人は馬鹿げてるという春澤の言葉を思い出した。

「そうね。年の割には主人は元気な方かも。私より干支が一回り上だし、あと数年で定年退職よ」

「そりゃあ立派なもんだ。俺も夏岡も新卒で入った会社にずっと籍を置いて勤め上げる道にはなってない」

「俺も立派だと思う。うちのバレーボールチームの主婦連中でも転職経験の無い夫は珍しい方だよ」

 冬木と夏岡に夫を褒められた秋野は上機嫌であった。特に夫の両親の介護を引き受けて看取った辛く重い経験がなぜか報われた気がした。それでも義父と義母は同居してからそんなに長くは生きなかった。二人とも自らの癌を知っていた為に延命治療をせず、義母の死に大きな衝撃を受けた義父は一年も経たないうちに後を追うようにして鬼籍に入った。

「ありがとう。不器用で頑固な人だけど、なんだかんだいっても優しくて思い遣りがあるし、やっぱり私には最愛の人だわね。彼は技術畑の実直な職人肌だから、中間管理職までの出世が早かったのは技術の腕が評価されてたからなのよ。あとは人柄ね。私も管理職の適性とは違うと思う。だから周りから担ぎ上げられて課長や部長になってからは大変だったみたい。俺にはリーダーシップなんか無いって私には言い切ってたもの。本当はずっと車の設計図を作ってたいって」

 それを聞いた冬木の表情は和らいだ。頭の中は風屋健に占有されっ放しで思考回路も複雑怪奇に混線していたところであった。秋野の身内話で一息つけた感じだ。












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