第15話


……事実無根です。春澤さんへ手紙を出したことは一度もありません。恐らく誰かの悪戯でしょう。もし確認したいのでしたら、筆跡鑑定にも応じます。私にとって十代の頃は学校生活よりも、家族と過ごす時間の方が貴重でした。それ故、両親や祖父母には本当に感謝しています。今後、同窓会に参加することも有り得ません。人生の良き思い出とは人それぞれなのですから……


 春澤は自宅のマンションから夏岡へ電話し、風屋健からSNSのメールに返信されてきた内容をそのまま伝えた。それを聞いた夏岡は言葉を失った。

 気まずい沈黙が続いている。やがて春澤の耳には向こうの世界から女性の小さな声が聞こえてきた。夏岡の気丈な歯科医師の妻とは違う。脳天気な同世代の中高年女性らしき声であった。春澤は今、一人で部屋にいたが、夏岡はそうではないらしい。どうやらタイミングが悪かったようだ。春澤は電撃を浴びたようにして、何かを悟った。

「……参ったな。だが、有り得る話だ。あいつは他人から揶揄われたり虐められたりの踏んだり蹴ったりな青春時代だったからさ。ところでおまえが無くしちゃったその手紙って、確実に筆跡がわかる文字だったんだよな。中には定規をひいて書いたり、新聞の文字を切り貼りして手紙を書く奴もいる。筆跡がわからないようにしてな」

「夏岡君、もう諦めたらどう。風屋健って笑い袋は制作しても、そんな異様に細かくて嫌味な人間だとは私には思えない。彼に期待したって、きっと何も出てこないわよ」

「おまえまで、そんなこと言うな」

 夏岡の口調は怒気を含んでいる。春澤はその態度に落胆した。

「おまえまでって、どういうこと。私はあなたにとって好都合なだけの存在じゃないわ。それに側に誰かいるんでしょう?バレーボールチームの主婦?」

 春澤は通話を打ち切りスマートフォンの電源を切った。彼女の視界の正面には四角い窓に切り取られた星空の下、暗緑色の葉を鬱蒼と茂らせた桜の木が見える。既婚者同士の不倫を醜悪に感じた。しかし不倫の当事者である自分にも、彼らを責める資格はない。そして夏岡と今この時の場を共有している女性に比べて劣位に置かれている惨めさをも味わうはめになった。太い桜の木に花はもう咲いていないが、不動の潔い植物の存在感が羨ましく感じられる。


 暫くしてテーブルの上に置かれたスマートフォンが動物の命を吹き込まれたようにして振動をはじめた。春澤はゆっくり深呼吸をしてからそれを取り上げた。

「夏岡君、私はもう降りる。同窓会にも出ない。だからあなたと会うことも金輪際ない」

 毅然とした春澤の声に、夏岡は不意打ちを食らった。彼はママさんバレーの指導を終えて郊外の並木道を歩いているところであった。あと数分歩けば、春澤のマンションの最寄駅へ向かう電車に乗れるというのに。

「ちょっと待てよ。随分と急じゃないか」

「不倫の終わりなんて、そんなもんだわ。私も馬鹿じゃない。これでも教師だし、あなたの奥様と同じ聖職みたいな仕事をしてるわけよね」

 春澤の脳裏に数年前の同窓会で挨拶を交わした夏岡の妻の姿が浮かんだ。毅然とした真っ直ぐに伸びた姿勢は一家の大黒柱そのものであった。夏岡はそんな大樹のような彼女の幹に過ぎないのかもしれない。

「聖職か。確かにな。だが、聖職と呼ばれる医者や教師や宗教家も底は知れてるぞ。事実、裏表のある人間が多い」

「そうかもしれない。私も二十年以上教師を続けていて、職場でそんな裏表のあるどうしようもない人間を数多く見てきた。だからこの職業に対してそろそろ限界を感じることはある。心が折れそうなくらい。でもね、いつだったか、アメリカのあるハイスクールで銃乱射事件があった時、学生を逃がす為に犠牲になって殺された年老いた先生の顔を、突然思い出すの。彼は聖職を全うした人間だわ。そしてあなたと不倫を続けてきた私は、彼のような人間に対して恥を感ぜずにはおれない」

「そんな深刻になるな」

「いいえ、あなたの奥様は聖職を全うできるタイプだわ。だから、あなただって彼女を選んだんでしょう。どんなに私の前で、奥様を悪く言うことはあっても、心の底では尊敬できてる」

 問いかけられた夏岡は自らの存在を抹消したように、黙り込んでしまった。

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