第48話 「エンタングルメント」

第四十八話 「エンタングルメント」



 その時少女は直感した。きっと、どこかで選択を間違えてしまったのだと。


 中世ヨーロッパ風の世界観に似つかわしくないオフィスカジュアル姿の男性が

独り立っている。

 それはまるで、映画の撮影現場と知らずに紛れ込んでしまったサラリーマンのようであった。

 時代設定を完全に間違えているとしか思えないアンバランスな絵面は、その世界で少女になり切っていたおっさんを現実に引き戻した。


 少女の姿をしたおっさんは、ふと思う。今まで何をしてきたのだろうか――と。


 もしかしたら、ここは本物の映画の撮影現場だったのだろうか?

 監督のカットという掛け声で、物陰から撮影スタッフが集まってくるのではないかと周囲を見渡してしまう。しかし、この空間に隠れる場所などほとんどないことを思い出す。

 頑丈な石造りの建物は、実はハリボテで、するすると地面を滑るように移動して、次の場面に切り替わるのかもしれないと身構えるが、一向にそうなる気配はない。

 撮影ならそこにいるはずのカメラマンや監督がいて然るべきだが、それらしい姿も見えない。それどころか、この場には少女と30代半ばと思しき男性しかいない。


 私は一体誰なのだ? と少女は自問自答する。


 少女の名前はミリセント。ただのミリセントであって、それ以上でもそれ以下でもない、ただの名前だけのミリセントである。

 そして、ミリセントの正面に立つのは、河上 和正(かわうえ かずまさ)。かつてアサイラムというゲームを世に送り出し、オンラインゲームの一時代を築いたプログラマーである。


 ミリセントの中の人は、この河上和正をよく知っている。知っているどころか神ゲーを世に送り出してくれた彼を尊敬、いや崇拝すらしているほどである。

 彼が世に送り出し、一世を風靡したゲームの名称は『アサイラム』という。

 そして、今いるこの世界が、『アサイラム』のシステムに酷似していることに気付いていた。この2つの世界が無関係なはずがない。

 そのアサイラム制作者である河上和正が、何の前触れもなく突然目の前に現れたのである。


 ミリセントは今、自由交易都市クリプトの東城壁の高台にある大きな無人の建物の中にいる。

 昨夜開催された開放日の珍事で受けた精神的ダメージと人疲れを癒すために、静かなこの場所を選んで休息の日にしようとしていた。

 そして、そこに河上が現れたというわけである。

 河上の姿を目の前にした時、夢と現実の境界が曖昧になってしまい、どちらの世界が本物なのか混乱してしまった。


 ここは日本なのか?


 この世界には存在しないオフィスカジュアルのファッションを見た時、そう疑う以外思考が働かなくなってしまった。


 ここは日本なのか? という問いの答えは、イエスでもありノーでもある。この世界は日本人の心が創り出した死後の世界である。

 その死後の世界の一画をゲーム風に改造したという情報をミリセントの中の人である中田 中(あたる)は、死神である橘 頼蔵から聞いている。


 死神? 橘 頼蔵?

 あれは夢の中の出来事ではなかったのか?

 今更になって自身の正気を疑い始めてしまう。

 これまで送ってきた半世紀弱の人生すら夢物語に感じてしまう。

 朝起きたら、多感な思春期時代に戻っており、これまで見てきた夢をノートに書きこみ黒歴史を生み出す作業に没頭し始めるかもしれない。

 そういえば、高校時代はゲームにハマって時間を忘れて遊びまくっていた。

 ゲームのやり過ぎで、虚実の境界が崩壊し、精神を病んで現実逃避をしているだけではないか? 或いはそう思うことで、病んだ心の均衡を保っていたという可能性もある。

 兎に角、自分は正気ではないのだ、だから不条理な現実から目を背けてまた妄想の沼に沈めばいい――と、現実逃避をしようとした。


 しかし、ここに河上和正という『本物』が現れてしまったのである。


 虚と思っていたこの空間が、正真正銘本物だったという確信が、ミリセントの中ではっきりとした形となって現れた。

 そうなると次に起こることは、仮想少女であるミリセントと、中の人であるおっさん中田 中(あたる)とのバランスの崩壊である。

 夢だからと少女に成り切った『ごっこ遊び』の楽しい時間が終了し、目の前の河上を良く知る素のままの中田 中(あたる)に戻る瞬間が来たのだ。


「あ、あなたは……河上……和正……さん?」


 問いかけの最後に疑問符を添えたが、これは、野太い心の声と声帯から発する少女の美声のギャップに思わず驚いてしまったからである。

 外見はそのままの美少女なのに、内面が完全におっさんに戻ってしまった中田 中(あたる)の混乱は想像以上に大きなものとなっていた。


「如何にも、私が河上和正だが?」


 河上としては、自身が有名人という認識が乏しかったのと、中田 中(あたる)から知己を得ている自覚がなかったというのもあり語尾が疑問形になる。


「なるほど、君は私の顔を知っていたのか」


「そ、そりゃー、有名ですし……」


 完全に素の中田 中(あたる)でしゃべる少女。


「では、自己紹介は不要だね? 中田 中(あたる)くん――いや、ミリセントくんと呼べばいいかな?」


 外見は美少女だが、ズバリ中身を言い当てる河上。


「あ、やっぱり全部バレてるんですね……」


 これまで正体がバレないように少女を演じていたが、もう、その必要がないと悟る中(あたる)。これはこれで肩の荷が下りたような安堵感があって悪くないかもしれないと自分を慰めてみる。


「アバター名と本名、どちらで呼んだほうがいいかね?」


 何故か『山本山』というあだ名で呼ばれ、そこから派生した『ヤマちゃん』という愛称で呼ばれ続けていた中田 中(あたる)は、本名で呼ばれることに慣れておらず、呼称は使い慣れたアバター名でお願いすることにした。


「さて、ミリセントくん。立ち話も何だ。ゆっくり落ち着いて話せる環境を作ってもらえないかね?」


 河上はそう言いながら踵を返し、入口の扉前からガランとした建物の中央に向かって歩き出す。


「わ、私がですか?」


 この建物は勝手に利用させてもらっているだけで、自宅と言うわけではない。当然、お茶を出してもてなす準備は出来ていない。

 一瞬、この人は何を言っているのか? と疑問に思うミリセントは慌てて後を追いかけながら河上に問い直す。


「今の君なら簡単だろう?」


 今の君ということは、中田 中(あたる)ではなく、ミリセントということだろうか? つまり、メインキーの固有能力を使えということだろう。

 河上の意図を理解したミリセントは、さっそく能力を使ってテーブルとソファーを用意する。

 これらの家具は、エグザール地方の小さな集落の家にあった家具を予めレシピ化していたものを再構成しただけのものである。

 こうした作業は今のミリセントには容易であり、一瞬でテーブルセットが建物中央に配置された。


「ほう? 見事なものだな」


 何も無い空間に、何の前触れもなく突然現れる細長いローテーブルと2人が余裕を持って座れるソファー2脚。それらが単体ではなく、テーブルをはさんで向かい合ったセットの状態で建物の中央に出現する。

 河上の口から出た台詞は、ぶっきらぼうで単なるお世辞と受け取るミリセントだが、まず人を褒めない、お世辞など全く口にしない彼の普段の姿を知るものがここに居合わせていれば、さぞかし驚いたことだろう。

 ミリセントに対し、最大限の賛辞を贈った河上は、ソファーに腰を下ろし背もたれに身体を預けて座り心地を確かめる。

 無駄な装飾が一切ない機能性だけを追求したソファーの座り心地は快適だが、野生児のミリセントは、柔らかいベッドやソファーの類は苦手で、固い地べたに身体を置かないと落ち着かない。

 これは、野外活動を専門とするビーストテイマーという職業の特性で、中田 中(あたる)本人の性質ではない。あくまでこのアバター専用の特徴である。

 ミリセントは、そんな居心地の悪いソファーの先端にちょこんと腰を引っかけるように乗せて、河上と改めて正対した。


「さて、どこから話しをするべきか……」


「あのー、私はどうなってしまうのでしょうか?」


 話の切り出し方に迷っている河上に、先手を打ってミリセントが結論を求める。

 この世界を作った神に等しい河上が自ら姿を現したのだ。立ち話をしにきたわけではないことは重々承知している。

 ここがゲームの世界と仮定した場合、プレーヤーの前にゲームマスター(GM)が現れるということは、たいていネガティブな理由からである。具体的には、違反を犯したプレーヤーに対する警告や制裁措置を行うための出動である。

 そして、ミリセントにはその違反行為に心当たりがあった。


「不明点がまだ解明されていないので、結論を下す前に少し聞き取りをすべきだと判断したのだよ」


 結論を急ぐミリセントに待ったをかける河上。不明点とは一体何だろうか?


「不明点が分かれば私は用済み……と?」


「そんなに身構えないでくれたまえ。今の段階でメインキーは不要だと考えているが、君という存在を不要とは思っていない。むしろ必要だからこそ、こうして話をしようと思い、ここに至ったわけだ」


 流れが少し変わったと、ミリセントは少し安堵する。

 しかし、メインキーつまりミリセントが不要という部分は気になるところである。メインキーという鍵は不要でも、中の人は必要というのは一体どういうことだろうか?


「…………」


 情報量が多いのか少ないのか分からないミリセントとしては、この段階で質問できる手札はない。今出来ることがあるとすれば、崇拝する河上にサインをねだるくらいだ。勿論そんなこと出来る雰囲気ではないが。


「メインキーの役割がどんなものか、そもそも君は自分がメインキーだという自覚はあるのかね?」


「一応、死神の頼蔵から聞いてます」


「ほう? やはり頼蔵の手の者だったか」


「え?」


 頼蔵によって派遣されてきたことを理解した上で、それが違反行為と判断され河上が直接取り締まりに来たと考えていたミリセントとしては、河上の意外な反応に思わず驚きの声を上げてしまった。


「何を驚いているのかね? 私はメインキーが選定されたことと、それに該当する君の個人情報くらいしか現状わからないのだが? だからこうして聞き取りにきたのだよ」


 驚くミリセントの反応を見て、こちらの立場を勘違いしていると判断した河上は、まずは、ここに至った経緯の説明から始めた。


 この世界は、死神による地獄拡張計画と獄卒の福利厚生の場として作られたこと。

 それを主導していた頼蔵が、AIを駆使したゲームクリエイターの河上に目を付け、スカウト(殺して眷属化すること)して、賽の河原をゲーム風にアレンジした異世界作りを命じたこと。

 新しい異世界を作るという事業に興味があった河上は、頼蔵に自発的に協力したこと。

 サービスは既に終了しているが、未だにAIが作動し続けているアサイラムのサーバーと連動させて、この世界を運営していること。

 この世界は『アサイラム』で間違いないこと。

 頼蔵がこの世界を自在に操るための上位権限を不当に得ようとして、チートコード、つまりメインキーの作成を密かに河上に依頼していたこと。

 河上は、頼蔵との眷属契約の解除を条件に、メインキーの作成を了承したこと。

 頼蔵は危険だと判断し敵対することを決意したこと。

 そして、メインキーの選定に厳しい条件を付与し、その条件を中途半端に頼蔵に教えた状態でアサイラムの世界に逃亡したこと。

 外部から様々な因子を取り込んで、このアサイラムの世界を独自の研究所として再利用していること。

 しかし、選定されないように厳しい条件をつけたメインキーが確定してしまい河上自身想定外として混乱状態にあること。

 メインキーに選定されたミリセントの行動を監視し、頼蔵の追っ手かどうか審査していたが白と断定したこと。

 アサイラムのサービス開始当初の汚名返上に大きく寄与した人材が、メインキーになっていること。

 メインキーの資格として女性限定としたはずなのに何故男性が選定されてしまったのか、その謎が解明できないこと。


 河上は、以上のことをミリセントに説明した。


「と、言うわけで、私は逃亡の身であり、君を直接どうこうする力はないのだよ。仮にここで戦闘になれば私は間違いなく負ける。戦う術がない一般男性でしかないからね」


「そ、そうなんですか……」


 それを聞いて少し安心するミリセント。同時に、河上の説明で不明瞭な点がいくつか解明できてすっきりする。もちろん新たな疑問も増えた。例えば外的因子についてである。


 今まで、『この世界』をどう位置付ければいいのかはっきりせず、仮称としてアサイラムと呼んでいたが、これでこの世界がはっきりと『アサイラム』であることが確認できた。

 しかし、ここがアサイラムだとして、具体的にどうやって世界を構築しているのか疑問が残る。

 そもそも三途の川とか賽の河原とか地獄とか死神とか、架空の存在をどうやって現実と結び付けているのだろうか?

 ミリセントは、あまりよろしくない頭脳を駆使して妄想してみるが、説得力のありそうな答えが見つからない。あるとすれば、集団催眠に掛けられているのだろう――とか、それこそ現実離れした空想にしか発想がいかないのだ。


 そんな難しい顔をしているミリセントに対し、しばらく様子を見ていた河上が頃合いを見て声をかける。


「ところで、私から質問しても良いかね?」


「え? ああ、どうぞ」


「男性である君が、女性限定のメインキーになれた理由が知りたい。私としては、君との間に構築されたエンタングルメントが想定以上に強大になっていた――と、結論づけたのだが……どうだろう?」


「え? 何て?」


 ミリセントは思わず目をパチクリさせ聞き返してしまった。何故なら、彼の口からエンタングルメントというキーワードが突然飛び出したからである。

 エンタングルメント――とネットで検索すれば『量子もつれ』などの言葉がヒットする。

 昨今、量子コンピューターという言葉を目にする機会が増えた。アニメやSF小説においては使い古されたオタク御用達の定番キーワードだが、最近はそれらが実現する未来が遠からず訪れるらしいとのもっぱらの噂だ。

 その話が本当かどうかはともかく、河上の口から突然そのような言葉が出てくるのは意外であり、何より文脈が全くの意味不明だった。


「うーむ、意味が通じないか……ということは、別の理由があるということか……この私にも解けない謎があるとはな」


 河上の言い方からすると、話の内容を理解できるかどうかのテストをしていたようにも見える。


「エンタングルメントって量子もつれとか、そういうことですよね?」


「意味としては間違いではないが、私の言うエンタングルメントというのは、量子もつれという現象とは少し違う。そもそも量子もつれ、いや量子という言葉自体、人間が勝手に名付けたものに過ぎない」


 同じ人間との会話ではなく、何故か地球外生命体と話をしているような気分になるミリセント。しかし、河上の言うことも理解できる部分は多少はあるのでなんとか会話は続けられそうである。

 この世界には解明されていないことが多いはずなのに、人間が勝手に決めた尺度で科学を定義して、それに当てはまらないことを全て迷信とかたわごとに分類してきた。その最たるものが、宗教と科学、理系と文系の対立構造である。


「貴方の言うエンタングルメントというのは何なんですか?」


「うーむ、君は生まれつき目の見えない者に対し、赤や青という色を説明できるかね?」


「え? いや、それは……」


 当然無理である。


「大脳が正常に作動している不幸な人間に説明するのは困難なのだが、量子という共通の言語があれば意思疎通は可能だろう? だからエンタングルメントという言葉を利用しているにすぎない。別に量子のもつれでも絡合でも何でもいいんだがね」


「えーと……」


 色々ツッコミどころが多い河上との意味不明の会話に、どう返していいのか言葉が見当たらないミリセント。これが『天才と会話する』ということなのだろうか?

 そもそも大脳が正常に作動していて何が不幸だというのだろうか? まるで正常な人間が悪いみたいなことを言っている。


「まぁ、その話は後にしよう。何故、男性である君が女性限定のメインキーになれたか、という謎を解くことが先だ」


「あ、ああー、それはですね……」


 これにはミリセントも同意であり、自身の身に起こったバニシングベイビーについて説明を始める。


 バニシングベイビー


 双子として受胎した胚や胎児が、母親のお腹の中で成長を止め、消えてしまう現象をバニシングベイビーと言うが、中田 中(あたる)の片割れが正にそれだったのである。

 ミリセントの中の人である中田 中(あたる)は、二卵性の双子として生まれる予定だった。

 バニシングベイビーとなってしまった胚は、通常、母親の胎内に吸収されることが多いので、出産後も双子だったと気づかない。しかし、胚がある程度大きくなってから途中で成長が止まると、胎児の残骸が紐状となって新生児と一緒に生まれてくることがある。そこで、初めて双子だったと判明することも決して珍しくはない。

 中田 中(あたる)の場合、胎児になる前の小さな胚の段階で、もう一つの胚と融合してしまったという、かなりレアなケースだった。

 この融合した胚は、中(あたる)の脳内で静かに眠ったまま45年の月日を過ごしてきたというわけである。

 そして、46歳を過ぎた頃、脳内の胚が突然細胞分裂を始めてしまったのである。

 脳腫瘍と診断され、摘出された腫瘍が実は胎児になりかけていた細胞だったというケースが実際に報告されているが、恐らく中(あたる)もそうなっていたはずである。


「くっくっくっく……」


 この話を聞いて河上が突然笑い出す。

 特に面白い話というわけでもない内容なので、笑う理由があるとすれば、至らなかった自身の知識不足に対しての自嘲ということだろう。


「この私を出し抜くとは、頼蔵もなかなか侮れないな……いや、ヤツにはこんな芸当は不可能だろう。恐らく源 菖蒲丸(みなもとのあやめまる)の仕業に違いない」


 医療を司る菖蒲丸の入れ知恵とすぐに気付く河上だが、ミリセントには初耳の名前だった。

 ミリセントは、死神が複数いることは認識していたが、個人名を知るのは頼蔵1人だけである。一方、河上は安倍浄妙を始め、ゲームに参加している複数の死神の顔は知っている。

 河上の頭が良過ぎるのか、凡人とは微妙に話がかみ合わないことを察したミリセントは、気になった源 菖蒲丸という死神については敢えて聞き流すことにし、これ以上話がややこしくならないように努めることにした。


「当初、君がこの世界に来たのは私との間に構築されたエンタングルメントのせいではないかと予想していた」


「そ、そのエンタングルメントって具体的にどういうことですか?」


 また、エンタングルメントというキーワードが出たのでもう1度聞き返すミリセント。これが解決しないとこれから先の話も全く理解できないだろう。


「正常な人間にどう説明していいものか……」


 ソファーに体重を預けていた河上は、1度上体を上げて、今度は膝に肘をついて頭を抱えた。

 天窓から淡く日差しが差し込み、スポットライトのように2人を浮かび上がらせる。そして、一瞬の静寂の後、再び河上の口が開く前にミリセントが動いた。


「その正常な人間って……正常だと何が問題なのですか?」


「……私は、生まれつき脳に異常があってね。人間社会の中で介助なしで生きることが出来ない、そんな欠陥人間なのだよ」


「え? そ、そうは見えないけど……」


 変な人だとは思っていたが、脳に障害があるよには全く見えなかったミリセントは、河上の突然の告白に思わず驚きの声を上げる。


「今、私が演じている河上和正という人格は、後からインプットされたもので、この芝居ががった頭悪そうな男の設定は妻が好きな設定なのだよ」


 人間の脳は、生物として進化する過程で獲得し、次世代に継承していった太古の脳と、人間に進化する際に獲得した新しい脳と、大きく分けてこの2つの部位に分かれている。

 前者は所謂本能と呼ばれる生物が生存していくための知識を内包し、後者は学習によって蓄積する知識を内包する。

 他の生物とは大きく違い、人間はこの新しい脳が奇形的に肥大化し過ぎたために、本能が強く抑制される社会構造を作るようになってしまった。河上が正常な人間が不幸と揶揄したのは、このことを指していたのだ。

 河上は、人間に進化した際に獲得した新しい脳である大脳の機能が正常に機能しておらず、抑制が効かない壊れた人形のような生き物になってしまった。言い換えれば、河上は太古の脳を中心に本能を主体として、知識を予備として利用する人間の形をした別の動物ということである。

 およそ人間としての思考をもたない河上を、人造ロボットと揶揄した隣家に住む幼馴染の父親であるAI研究者は、彼を研究の対象として人格のインプットを試みた。

 そんな幼少期を過ごし疑似人格を手に入れた河上は、以後、自らAI研究と開発を行い自身を改良し完成させていった。ちなみに、このAI研究者は河上の義父となるが、それはまた別の話である。

 河上の脳の特徴は、人間が定めた歴史の浅い学問ではなく、古代より培った生命の知識と知恵、そして生命の成り立ちを本能的に理解していたことである。それはすなわち、物理法則を超越しナチュラルに量子的法則に基づいた演算を行うことである。

 人としての感情には乏しいが、異常に知能が高い河上は、義父の研究を引き継いで量子AIによるサーバー運営を実用化し、これが後のアサイラムと発展していったというわけである。


「ま、マジっすか……」


 微妙にズレた話し方をする河上を、不器用な自信家だと思い込んでいた中田 中(あたる)にとって、この告白は正に衝撃だった。

 天才は常人の物差しでは測れないぶっ飛んだ感性や感覚を持っているものだが、頭の働きそのものが完全に規格外だったのである。

 しかし、そうなるとある疑問が浮かぶ。これだけの天才がしていることがゲームを作ることというのは、何となく拍子抜けというか、才能の無駄遣いという気がしてならないのだ。

 そのことを率直に聞いたミリセントは河上の意外な答えにまた驚くことになる。


「私が何故ゲームを作るのか? 答えは簡単だ。私は同胞であり家族である日本人の為に奉仕しているに過ぎないのだよ」


「はぁ?」


 ミリセントは思わず間の抜けた声を上げた。予想の斜め下をいく河上の答えに拍子抜けしたのである。

 奉仕とはつまりボランティアであり慈善活動ということだが、これは天才が口にしていいセリフではない。天才なら『全人類を支配する力を手に入れるため』とか『新たな次元への扉を開くのだ』とか、そういう自己中心的なことを言わなければならない。これは完全にミリセントの天才に対する偏見だが、この時は率直にそう思ってしまったのである。

 メディアで見る河上は、どこか他者を小バカにしたような鼻につく口ぶりで、とてもじゃないが日本人の為のボランティア活動をしている態度には到底見えなかった。

 その彼がどの口でそんなセリフを言うのだろうかとミリセントの中の人は、少し憤ってしまいそれが表情に出てしまう。


「どの口が言うか――という顔だね」


 すぐに気付いて面白そうに指摘する河上。もう慣れっこといった印象である。


「あ、いや、なんか意外というか、日本人なんてどうなってもいいみたいな雰囲気だったから……」


「先ほども言ったが、君の見ている私の人格は、後から取って付けた妻好みの人格だ。ちなみに、私の幼少期があんな感じで、幼馴染でもあった妻にとってはあれが私のデフォルトだったのだ」


 幼馴染と結婚し、彼女好みの人格を演じてやるとか、前世にどれだけ徳を積めばこんな素晴らしい人生を謳歌できるというのだろうか? 中田 中(あたる)は、しょうもない自身の半生を省みて、純粋に嫉妬するしかなかった。


「生物というのは繁栄の為に子孫を残す。この行為に愛情や信愛の感情はなく、生物としてDNAに刻まれた一種のルーチンワークに過ぎない。私が日本人のために行動することは、愛国心などではなく日本人という生き物の性なのだよ」


「何故、人類とか人間って表現じゃなくで日本人限定なの?」


「それが先ほど君が理解できなかったエンタングルメントということさ」


「うっ、やっぱり意味が分からない……」


「やれやれ、いちから説明しないと理解してもらえそうにないか……」


「いちから説明されても分からなそうだけど……」


「簡単な質問からしよう。君の――中田 中(あたる)という個人の心、魂、ゴーストは具体的に身体のどの部分にあると思うかね?」


 全く理解を得ないミリセントに呆れた河上は、これから先の会話を円滑に行うためにも、エンタングルメントの意味を一から教えることにした。

 その一番最初の問いが人間の『心の在りか』だった。


「え? えーと……」


 河上の質問に対し、無意識に自身の薄い胸部に手を当てるミリセント。

 胸に秘めた思いとか、心臓が止まりそうとか、感情の変化を体感的に感じる部分として胸やその内部がよく用いられる。

 肋骨に守られた重要な臓器が詰まった胸部というのは、人間にとって重要な部位であることに変わりはない。

 しかし、個人の情報が内包されている部位といえば脳の方が重要だろう。思考も感情も身体の調子を整える役割も全てが脳で行われている。だとすれば、やはり脳、頭が正解ではないだろうか?


「えーと、やっぱ脳かな?」


 ミリセントは胸に手をあてながら、答えは頭部と答えた。


「本当にそれが答えでいいのかな?」


「え? 何その言い方……脳じゃなかったらどこだっていうの?」


「君は絡合という言葉を知っているだろう?」


「ええ、エンタングルメントってネットで調べれば、『絡合』に繋がるし、絡合は今後の新しい科学の研究対象だって……」


「それを知っているなら何故答えは脳になるのかね?」


「いや、でも……普通に考えたらそうなるじゃん……」


「ふふ、それが正常な人間の脳の思考の限界というやつなのさ。絡合を知っていれば個を格納する部位が脳であると普通は答えないはずだ」


「じゃ、じゃー、どこに人間の個を格納してるっていうの? 足の裏? それとも脇の下?」


 簡単ななぞなぞの答えがわからず、いらいらする小学生のような態度をとってソファーから腰を上げてしまうミリセント。


「絡合を知っているなら、当然プラナリアのことは知っているだろう?」


 そんな少女を見て河上は一つのヒントとなるキーワードを出した。


「あ!」


 そのキーワードですぐにミリセントは気が付いた。自分の答えが間違っていることを。


「気づいたかね? プラナリアは身体を細かく切り刻んでも、頭や尻尾が再生して個体が増えてしまう。そして、その元の個体が経験し学習したことをその分裂した個体が記憶している」


 プラナリアは頭を切り落とすと、そこから新たな頭が生えてくる。そして、その頭は切り落とされる前の記憶を保有していると、これまでの研究で解明されている。

 つまり、記憶は脳細胞に記憶されるというわけではないことが理解できる。


「そもそも、絡合を理解出来ていれば、エンタングルメントも同時に理解していなければならないはずだよ?」


 生物同士が共に助け合う行動をとるが、これは人間や動物の感情から生まれる行動と、これまではそう考えられてきた。

 大脳、特に左脳が奇形的に発達した人間は、利己的に物事を考えるようになり、生き物が当たり前にする行動に納得のいく説明を勝手に付け加え、それを学問として系統化し誤った認識を広めてしまった。

 利己的に物事を考える人間の脳は、太古より先祖代々受け継いできた本能を否定し、新しい誤った知識を上書きして固定観念を植え付け、先入観でそれを保護して今に至っている。


「生物の脳には、その生物の進化の歴史の情報が全ての個体に平等に書き記されている。それはつまり本能というものだが、人間の新しい脳がこれを深層に追いやってしまったのだよ」


「あなたは、新しい脳が機能していないから、本能で動いている――と?」


「先ほどもそう言ったはずだが、プラナリアのキーワードでようやく理解が少し前に進んだようだね」


「だとすれば、個人の心とか魂ってどこにあるの?」


「何度も言うが、そういう単純な思考に陥るのが正常な人間の限界なのだよ」


「どういうこと?」


「そもそも個人という概念が誤りなのだよ。人間が利己的になった一番の原因は、他者と区別するために個人なるものを発明したからなのだよ」


「な、なるほど――ってさっぱりわからん! いや、分かりそうなんだけど……うー、やっぱりわからん!」


 正常な脳を持つ不幸な人間の代表ミリセントは、理解が追いつかずに頭を抱える。


「人間は約37兆個の細胞で出来ているのは知っているね? その細胞も更に細かく分解していけば分子から原子、原子から量子にまで遡れる。量子にまでまればもはや物理法則は通じない。我々人間、いや惑星レベルに至るまで万物は元は同じ物から派生しているにすぎないのだよ」


「元を辿れば同じ?」


「生命体と非生命体も、結局のところ全て同じ量子の集合体に過ぎない。それらを別けて考えること自体が無意味なことなのだよ」


 絡合も最初はどこか哲学的、概念的なものに扱われてきたが、今は最新科学の一つになっている。教科書で教える歴史や自然科学も情報が日々更新されており、子供の頃に教わった常識が完全に覆って真逆になっている事例すらある。

 中田 中(あたる)は、ネットを通じて最新情報を更新してきたつもりだが、先入観が邪魔をして、自身に都合の良い情報だけを更新してきたに過ぎなかったようである。

 そもそもの問題として、自身がアバターとして生まれ変わっているという歴とした事実があるにもかかわらず、未だに脳が受け入れていないのだ。

 結論を先送りにして見て見ぬふりをする。それを誰かに指摘された途端に、拒絶反応が先に出て、それ以上の情報を遮断してしまう。先入観という脳の障壁は思った以上に厄介なもので、それを河上に指摘され続けているうちに、少しずつ脳がほぐれてきたような気配はしているが、まだまだのようである。

 そのこと自体を理解できただけでも収穫と言えば収穫だが、だからこそもっと知りたいという衝動に駆られるのは自然な流れだろう。


「この世界や今の私は、具体的にどうなってるの? エンタングルメントで片づけないでちゃんと教えて?」


「やれやれ、今まで私の言葉を否定してきたのに、今度は説明してほしいと? 今私が説明しているところなのに……全く人間という生き物は自分勝手が過ぎるというものだ」


「う、す、すみません……つい」


「いや、構わないさ。これでより理解が深まれば、君とのエンタングルメントもより強固となるからね」


 河上の話に興味を示し始めたミリセントは、これまで感じていたこの世界やアバターの身体になった仕組みについての無理解が解消される期待が高まっていた。


「先に言っておくが、今から言う『量子』は、人間が観測して定めた単位ではない。この世界を世界として構成している粒子のようなものを、敢えて量子と例えて君と会話が成立するように話す」


「つまり、私たちが知っている量子はまだ一部だけってこと?」


「人間の知識など全体の数億分の一にも満たないカスみたいなものだ。こうして君と私が会話している今この時も、情報と言う名の量子が絶えず行き来をし、エンタングルメントがより密度を増しているのだよ」


「それは、つまり互いに理解をするってことがエンタングルメントに繋がるってこと?」


「すぐに感情的に思考するのが人間の悪い癖だな。先ずはその癖を改めた方がいい」


「うっ……」


 正常に脳が働いているミリセントとしては、河上の思考領域に到達することはまだまだ不可能なようである。


「要は考え方を変えればいい。今からする話を聞いて、それが例え理解出来なくても理解しようと努めれば、おのずと脳の蓋が空くかもしれない」


「わ、分かりました。努力してみます」


「ふ、その反応の仕方がダメだと言っているのに、相変わらずだな」


「うぐ! は、話を続けてください!」


「まず、世界は量子で構成されているのは承知していると思う」


「ええ、その量子とは私の知る量子ではなく、あくまで情報の交換をする上で必要な共通言語ですね?」


「その通り。これから話す言葉の中にも君の知る単語が出てくるだろうが、今と同じ要領で、会話を成立させる共通言語として自己変換してくれたまえ」


「了解です」


「まずは、君がアバターの身体になって行動している仕組みから説明しよう」


 この世界は、人間の感覚器では観測できない量子で構成されている。

 量子は全ての空間に存在し、それらは常に対流するように不規則に動き回っている。

 それら量子は相互に干渉し渦を巻くように集合と拡散を繰り返す。

 一定の動きをする量子同士が連動を始めると、そこに絡合、つまりエンタングルメントが発生し、それと同時に、原子を形成して物質に変換され、量子法則から脱却して物理法則を獲得する。


 これが宇宙の誕生の仕組みである。


 偶然生まれた宇宙は、同じ量子法則を基礎にした物理法則で動く。


「違う量子法則を元にした宇宙も存在するということ?」


「その通りだ。しかし、我々の宇宙をAとした場合、違う量子法則に基づいた宇宙Bは、重なり合って存在していたとしても観測することができない。なんらかの手段で干渉しあうことは可能だろうがね」


「宇宙ごとに時間の流れが違うってこと?」


「時間だけではない。例えば重力や光の速さも全て異なってしまう。その宇宙に生命が誕生すれば、我々とは異なった物理法則に乗っ取った形になる」


「こうしている間にも別の宇宙が目の前にあるってことか」


「ふ、君はいいところに気付いたが、まだまだ理解が出来ていないようだね」


「どういうこと?」


「我々のいる世界がどこにあるのか? と、いうことだ」


「あ、そうか! ここはあの世だった……ってことは、あの世とこの世は重なり合っている?」


「君は量子テレポートを知っているかね?」


 突然話が変わる。


「ええ、一応名前だけは……(急に話が変わる……まーもう慣れたけど)」


 量子はもつれあって二つないし複数同士でチームを組む性質がある。これは安定しない量子の流れを固定するアンカーのように作用する。誕生した宇宙によって、このもつれは2対だったり11対だったりするが、この数が多ければ多いほどエンタングルメントはより強固になる。この仕組みのおかげで不規則な量子が物理法則を得て安定しているというわけである。


「この性質こそが、絡合、つまりエンタングルメントを生み出している仕組みとなっているのは、君にも理解できるだろう」


「ええ(いえ、さっぱりわかりません)」


「量子テレポートとは、この対となる量子同士で瞬時に情報の交換を行うことを言う。これがどういうことか分かるかね? と、敢えて君に問おう」


「え? 量子テレポートの件で私にわざわざ聞くということは……もしかして、今の私は、量子テレポート状態にあるってこと?」


「そういうことだ」


 ミリセントという存在は、中田 中(あたる)と対となったバニシングベイビーが根拠となっている。


「本来アバターである君の身体は、この世界だけにしか存在できない。しかし、実体として存在する君の妹かあるいは姉の存在の根拠があるおかげで、君は完全に個人として確定しているのだよ」


「マジで? じゃー本体は? 今どこで何をしているの?」


「中田 中(あたる)くんなら、向こうの世界で元気によろしくやっているのではないのかね?」


「そ、そんな……もう、戻れないの? 息子には会えないというの?」


「君に子供がいたというのは初耳だね? 登録情報に虚偽があったということかな?」


「あ、いや、それはその……何でもないです。話を続けてください……」


 冗談の通じない河上の話の腰を折らないようにするミリセントだが、中田 中(あたる)とは完全に分離してしまったという真実に触れ、少なからずショックを受けている。長年連れ添った相棒にもう会えなくなる精神的ダメージは今後も尾を引きそうである。


「では、話を続けよう。先にプラナリアの話をしたが覚えているかね?」


「ええ……(そこまで記憶力が悪くないわ!)」


 人間の記憶はどこに格納されているのかという話がまだ終わっていなかったが、エンタングルメントを理解していれば答えは自ずとわかるはずである。

 プラナリアの例を見れば、記憶は脳に格納されているわけではないのが理解できたはずで、しかし、厳密に言えば脳にも記憶されている。つまり、複数個所に記憶されていることになる。


「ということは、別の場所にも同時にコピーされているってこと?」


「いいところに目を付けたな。では、その調子で推論してみるがいい」


「え? えーと……さっきの量子テレポートの話から推測すると、物理脳とペアリングされた量子脳とリンクされている?」


 ミリセントは原理を理解したわけではなく、話の流れから推測した答えを出したが、これに河上はわざとらしい拍手で応えた。


「実に人間らしい思考展開だが、概ね正解だといえる」


「そ、それはどうも(全然うれしくない)」


「では、そこから更に人間という存在を量子視点で考えてみたまえ」


「えーと、人間の物理的な個体とは別に量子的な個体がペアリングされていて……あ、そうか! これが魂とか精神とかゴーストなのか!」


「続けたまえ」


「今いるこの世界って死後の世界なわけで、つまり人間の精神って量子で出来ていて、この世界も量子で出来ているってこと?」


「私は初めからそう言っているつもりだが?」


「あ、あれ? そうだっけ……」


「人間とは、自分で勝手に正しいと決めつけたものだけは信じる癖があるものだな」


 この世界に生きる生物にとって、個人を名前のついた個体として認識する生き物は、人間と人間にエンタングルメントされた一部のペットや家畜だけである。

 ペット化した犬や猫、サラブレットなどをはじめとした馬、食用に飼育されている家畜なども完全に人間のカテゴリーに入っている。そのため、彼らは死ぬと人間と同じ死後の世界を共有することになる。


「勝手についてきたあの馬たちももしかして……」


「恐らく前世は軍馬か競走馬だろう」


「なるほどー」


 この世界の人間にはカルマが存在し、それらはNPCではなく歴とした人間である。しかし、動物やモンスターにもカルマ持ちが存在し、これがずっと謎として引っかかっていたミリセント。

 人間のあの世には、人間以外にも鬼や獄卒、妖怪や付喪神などもいるとされており、そうなれば当然動物などが居ても不思議ではないだろう。


 河上の話を聞いた後であれば不思議と納得がいく。

 そういえば、絡合はプラナリアの件だけではなく、動物の群れの行動にも言及していた。

 例えば、空を覆う巨大なムクドリの群れが形を変えながらもバラバラにならずに飛ぶ方向を一定に保つとか、イワシの群れが天敵を察知した瞬間大きな塊に集合するといった行動だ。

 群れの右端にいる個体と左端にいる個体は、互いに姿を視認できる状況ではないのに、群れは一つの集団として形を維持し続ける。これらのメカニズムは解明されていないが、絡合、つまりエンタングルメントなら容易に説明出来るのだ。


「もしかして、人間だけが絡合を意識できていない?」


「私は先ほどからそう言っているのだが?」


「で、ですよねー」


「そもそも、人間は約37兆個の細胞で作られていると先に説明しただろう?」


 そんなこと説明された覚えはなかったが、その知識自体は別の媒体を通して既にインプットされていたミリセントは黙って頷く。

 ようするに人間の身体自体が絡合、つまりエンタングルメント状態にあるということなのだ。

 それら有限の身体は無限ではない。新しくするために生殖によって遺伝子を継承し、情報を量子に還元して繋いでいく。これが生と死なのだ。

 動物はそれらを本能として無意識に行っており、遺伝子を残す資格が無い弱い個体は群れから淘汰され、年老いて役目を終えた個体は食い扶持を減らすために群れを離れ、自ら望んで土に還っていく。

 群れが一つの個という考え方に基づけば、それはまさしく新陳代謝と同じ状態である。

 一方、人間は大脳を形成する細胞群が、37兆個の代表と称して勝手に判断して行動していることになる。

 殺人など同じ人間同士による殺傷行為は、正に人間の脳による独断であり、自然の摂理から反する行為の代表である。


「うーむ」


 一個人の情報は、例えば中田 中(あたる)という型番を持つ個体情報は脳の他に、本体は別の場所にクラウドとして保管される。

 河上との対話の中でそれを理解しかけている。自分自身が量子テレポートでアバターの身体を動かしているのだから、本来ならとっくに理解していなければならないのだが、物理脳がそれを疎外して中々理解に辿り着けない。

 この物理ファイアーウォールを突破するのは非常に難易度が高いと言わざるを得ないが、量子脳を働かせることが可能になれば容易に物理脳を超えることが出来るはずだ。


「そうなると……これまでのSFの概念が根底から覆りそうね……」


「と、いうと?」


 これまでのミリセントの口から出た言葉の中で唯一河上が興味を示したのが、このSFの概念だった。


「いやね、物理的な脳が不要なら、脳核を移植する全身サイボーグモノの描写ってナンセンスだよねって、いうかそんな感じなことを思ったわけでして……」


「ペアリングと言う概念で言えば、身体の一部を移植するのは決して間違いではないが、態々脳という足枷を用いるのは、確かに滑稽に見えるな」


 脳核を移植するという意味は、恐らく個人を重視する結果だろう。


「絡合が理解できれば、そういう描写にはならないよね……ふむふむ、このネタで1本描いてみるか……」


 現実は小説より奇なりとはよくいったもので、設定や検証好きなミリセントとしては、このテーマでレポートを書いてみようと思ってしまう。


「量子テレポートが一般化すれば、生死の概念そのものが崩壊する。この世界から葬儀屋という職が消えて無くなくなってしまうが、無駄なストレスのほとんどからは開放されることになるだろう」


「今現在の感覚で量子テレポートが実用化された世界を想像すると、どうしてもはるか銀河の彼方へ一瞬で跳んで、新たな移民先を探して生活圏を拡大させるって発想になりがちだけど、これなら普通に異世界を作ったほうがはやいしね」


「だから、今それをしようとしているのだが?」


「あ、そうだったのか……でも、それって何故日本人限定なの?」


 先ほど河上から日本人のためにという話があったが、これにも恐らく重要な意味があるのだろうとミリセントは予測する。


「その話を分かりやすく、君の不完全な脳でも理解しやすい形にするなら、先ずは生命について説明したほうが速いだろう」


「お気遣いどうも」


「君は、人間は死ぬと思うかね?」


「(また、話が急だな)」


 相変わらず唐突に話が飛ぶ河上の話だが、これまでのパターンから察すると、前述の話題との関連性が強いはずである。


「それは……(これまでの話から察するに……)遺伝子を次世代に引き継ぐという意味では、種としては死なない?」


「ふむ、だいぶ答え方が的を射てきたようだね。その答えで正解だ」


「えへへ……」


「人間が単細胞生物ならともかく学習する知性を持つ哺乳類である以上、生息地によって特徴が顕著になる」


「なるほど、大陸の極東に到達した日本人の先祖は、やがて一つの民族となって日本人となった……」


「その通り。豊富な食糧資源に恵まれた海洋民族である日本人の祖先は、衣食足りて礼節を知るという言葉通り、人間同士で殺し合うという文化を持たない平和な民族を形成していった」


 最近は、縄文や弥生時代の歴史的事実が科学的に証明され情報が多岐にわたって更新された。稲作が朝鮮半島から伝えられたとか、弥生人なる架空の人種が日本列島に入植して、縄文人と混ざり合ったなどという教科書のウソが白日の下になった。


「海面上昇によって大陸から分離された日本列島に住む日本人は、一度も他国の侵略を受けることなく当時の遺伝子をそのまま継承し続けて今に至っている」


 一方、他の地域はというと、大航海時代と言う名の侵略の時代が始まり、世界中の平和的で高度な技術を持った文明が多数消滅したり、文化を奪われ植民地と化した。その最たる例がマヤやインカ文明である。


「確かに、そういう視点で見ると世界でも日本人だけが強大なエンタングルメントを持っていることになるね」


「その通り。この特別なエンタングルメントを維持し、さらに発展させることが私の目下の使命なのだ」


「世界平和とか、日本人だけ特別扱いするなーなんて言うのは人間の脳の欠陥による妄想、妄言ってことね」


「分かってきたじゃないか」


「でも、人間全体のエンタングルメントもあるんでしょ?」


「それは、人間全体というより地球全体の話になるな。勿論、それも重要だが、まずは地固めが先だ。昨今、エンタングルメントを持たない文化を捨てた民族によるグローバリズムが蔓延し、文化侵略行為が横行しているだろう? 先ずは自衛なのだよ」


「最初に言っていた外的因子というのは?」


「想像してみたまえ」


「えーと、つまり、日本のエンタングルメントで強固な防衛線を布いて、他国のそれらと同盟する?」


「概ね正解だ。既に多くの外的因子がアサイラムに侵入している。そして、今その妨げになっているのが……」


「メインキーの私の存在か……」


「そういうことだ」


「だったら、私邪魔だよね?」


「そうだな」


「それじゃー……」


「私の考えとしては、君を排除する気はない」


「でも……」


「多少計画は狂ったが、元々私と君との間にはエンタングルメントが確立していたのは事実。ならば、他にやりようはあるだろう」


「具体的には?」


「それはまだ私も分からない」


「え? 分からないの?」


「今の私は、このアサイラムに干渉できる力はない。ただ、エンタングルメントという繋がりは、自ずとそうなるように収束する」


「……何か算段はあるということなのね……で、私はその後どうすればいいの?」


「今まで通りアサイラムの攻略に励んでくれたまえ」


「本当にそれだけでいいの?」


「君とアサイラムは相性がいい。君の行動はアサイラムにとってプラスに働くだろう」


「10年前と同じように?」


「あの時、君がアサイラムを救ってくれたおかげで今がある。そして、そのお礼として送ったアバターが目の前にいる。人間の真似事をするなら、これが感慨に耽るということなのだろう」


「いや、そこはエンタングルメントの賜物というべきじゃないの?」


「ふ、その調子で頑張ってくれたまえ。そのうち、重要なイベントが始まるだろう」


「具体的にいつどこで何が起こるかわからないの?」


「それが起こるのは3日後か、1年後か、或いは今すぐに起こるかもしれないが、私は預言者ではないのでわからない。しかし、エンタングルメントされたペアないし複数の量子はいずれ出会うことになる。これは偶然ではなく必然なのだよ」


 アサイラムのAIの検証に費やした膨大な時間と手間が、河上との間に強固なエンタングルメントを発生させたという。

 エンタングルメントとは、言い換えれば『縁』とも受け取れるだろう。因縁が正にそれだ。

 また、エンタングルメントには時間の概念がない。5万年前の日本人の遺伝子の発生から今に至るまで、量子の世界では同じ時間軸にいる。いや、時間軸というのは意味としては正しくはない。正確に言えば、日本人が誕生した時から、日本人は誰一人死ぬことなく遺伝子的に生き続けていることになる。

 日本人同士は元から強いエンタングルメントを形成しているが、その中でもより強く結びついたエンタングルメントのネットワークが形成される。そして、個人との繋がりは、その個人の遺伝的繋がりにも影響する。結婚すれば家族が増え縁が広がるのと同じように、河上とのエンタングルメントは、彼1人だけではなく彼の縁者とも深く結びつくようになるのだ。


「あの時、たったあれだけの出来事で、そこまで私と河上さんの間に強固なエンタングルメントが形成されるものなの?」


「また、悪い癖が出たな。リアルな事象を無視して偽りの情報を信じ続けるというのかね? この期に及んでも?」


 今正にここで起こっている現象を無視して、自身の記憶と解釈のみで事象の成否を問うのは、確かに愚かな行為だろう。しかし、それが人間の脳であり、数万年の積み重ねよりも、たった数十年の脳の記憶を重要視してしまうのだ。


「それは分かるんだけど……今更この脳みそを取り払うことは出来ないし……」


「何事も慣れだよ。日本人として積み上げてきたご先祖様の歴史を信じるだけでいい。それはすなわち自分を信じるということでもある。他者を他者と錯覚する行為をやめ、私も君も他人も全て同一視しして大切にすればいいだけの簡単な作業だ」


「それが出来ていれば苦労はしないんだけどね……」


「君の反応は実に人間らしい。だからこそ、このアサイラムに必要なのか」


「どういうこと?」


「体験に勝る学習法はないだろう?」


「なるほど、人間が忘れてしまった絡合、エンタングルメントをこの異世界で再教育させると? 私をモルモットにして?」


「アサイラムの意義はそれだけではないが、先ずは君の脳を柔らかく解きほぐす作業を重視すべきだったか」


 エンタングルメントを理解させるには、1度死んで量子の世界に還るのが速い。しかし、再び生を受けても肥大化した大脳皮質によって、また1から学習を始めてしまう。生前、アサイラムを体験し本能が鍛えられたとしても、死んだらそこでリセットされてしまう。

 生と死の概念をリセットしない限り、このループからは逃れられない。

 河上は、ミリセントの頑なな脳の働きを客観視したことで、アサイラムの仕様改善の必要性を痛感した。

 要するに、このミリセントという日本人のネガティブ要素を満載した脳を何とかすることが最初にすべき案件であると気が付かされたのだ。

 かつて河上の作ったアサイラムは、AIの設計構想を理解できなかったプレーヤーによってクソゲーのレッテルを貼られた過去がある。しかし、ミリセントの中の人である中田 中(あたる)によって、攻略の糸口が見出され、そこを突破口にしてアサイラムは世界を席巻することになった。

 かつてのアサイラムは商業的には存在していないが、新たなステージで第二のアサイラムが始まった。しかし、ここでも予期しないことが起こった。

 場所を提供すれば、勝手に状況が進行すると、かつてのアサイラムと同じ轍を踏みかけたが、そこに現れたのが、またしても中田 中(あたる)だったのである。

 アサイラムを解放し、外的要因を取り込んで静かにアサイラムの醸成を待つという当初の計画は一旦封印するという判断が今下された。


「私は一先ず退場することにする。が、私の代理人がいずれ君の前に現れるだろう」


「え? もう帰っちゃうの? 代理人って何?」


「さぁ、私には未来がどうなるかなど全く分からない。しかし、確信はあるので安心したまえ」


「安心できないよ! 河上さんがずっとアドバイザーになってくれるんじゃないの?」


「私は逃亡の身だと言ったはずだよ? しかも、君のように危険を回避できる能力は一切ない。エージェントに見つかればそこでアサイラムも終了だ」


「私はまだこの世界の事全然分かってないし、アドバイスをしてくれる人がいないと……大賢者とか天の声みたいにならないの?」


「当初、メインキーに定めた者にはナビゲートするつもりでいたが、アサイラムを攻略した君には不要だろう。1人でがんばってくれたまえ」


「そ、そんなー」


「そういえば、言い忘れていた。ずっと君をモニタリングしていたわけだが、ここに来る直前、君を追跡しているエージェントと思しき存在を確認した。そろそろここに来る頃だから、後は君1人で何とかしてくれたまえ」


「そ、そういうことは最初に言ってよ!」


 ミリセントは慌てて入口の方に振り向いて広域調査を実行した。

 その結果、確かに何者かの接近を感知した。


「河上さん、早くここから逃げないと!」


 再び河上に振り返った時には、そこに彼の姿はなかった。


「って、ま、マジか……」


 その小さな身体に有り余るほど大量の宿題を押し付けられたミリセントは途方に暮れる時間すら与えられず、次のステージに強制移行させられた。


「あ、サイン貰い忘れた……」


 ミリセントの長い1日は、始まったばかりである。

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Asylum【アサイラム】-亡命者たちの黙示録- 鈴木左官 @Millicent47

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