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【乙町さん】ことこの私は振り払われた手をしばらく見つめた後、身だしなみを整えて自分の部屋の斜め下、一階の角部屋に向かった。彼の着替えを持っていくのも忘れていない。次に顔をあわせる緒地君が、――この名前が彼の本名である確証はどこにもないのだが――果たして自分を「僕」と呼ぶか「俺」と呼ぶか、興味があるようでもあり、ないようでもあった。それは本質的にはどうでもいいのだ。その点では、彼の記憶と私の感情というのは大差がないのかもしれない。大雑把で、ノイズにまみれ、ずたずたに千切れている。
彼の抱える病理をなんと呼べばいいのか私にはわからないが、とにもかくにもそれが私の性癖にマッチしたのは間違いなかった。私が彼に惹かれているということさえ間違えていなければいいのだ。しかし裸で部屋を飛び出すほど錯乱したのは珍しい。いったい私の睦言がどのように彼に聞こえていたのか。世の人にしてみれば気持ち悪くてならないのだろう。言葉が通じないというのはそれだけの恐怖がある。
しかし私に言わせてもらえば、彼も世の人もどんぐりの背比べなのだ。
いったいどれだけの人が、言葉の意味をノイズなしに人に伝えているのだろうか。
(これはとても希望的な観測だけれども)この世に本当に意味のある音があるのだとして、人の耳も脳もそれをゆがめずには認識できず、さらには口にするにあたってさらにゆがめてしまうのだから、バベルの塔を引き合いに出すまでもなく言葉を使って人と人が確実にコミュニケーションを取れているとは私には思いがたい。確かに彼にとってさまざまな記憶や人物評やあるいは価値観はくそみそもいいところにかき回されているが――私のことを物静かな誰かと勘違いしている節がいまだにあるし――にしたって、それのいったいどこがおかしいのだろうか。みんな大なり小なりそんなものだ。
そう思うと、悲しくもなる。
とにかく、この部屋がいま彼にとっての何らかの防壁であることは間違いなかった。それを崩すべきか崩さざるべきかは親愛なるかかりつけのクリニックに任せるとして、今の私は素人判断で手を出さずに、かつ自分の中の欲求にしたがって、彼と一秒でも早く再会するためにここにじっと待つべきなのだろう。
暇ではあるが。
時間をもてあますのは趣味ではない。彼が出てきたとき、いったいどうやってなにを伝えようか、じっくり考えて待つことにする。
出来る限り滑らかなノイズで、伝えたい。
サウンド×ノイズ 絹谷田貫 @arurukan_home
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