第98話 Foxy Blue(16)

(1)


 深夜にも拘わらず、薬屋の裏口扉の隙間から灯りが漏れていた。

 扉の内側、室内中央にある2台合わせにした長机には数多くの実験器具──、試験管、フラスコ、ペトリ皿等が並ぶ。シャロンは器具に立てた試験管の中から一本を手に取る。中身はグレッチェンの血液だ。


 カンテラの光を受け、血が妖しく輝く試験管へ、別の試験管から濃黄色の液体を硝子スポイトで数滴落とす。

 数分後、少し乱暴に試験管を器具へ戻すと疲れ切った顔を両手で擦る。指の間から垣間見える目元は隈が目立ち、普段の爽やかさは鳴りを潜めていた。


 ひたすら待つしかできないのは非常に歯痒く、グレッチェンの安否が気になって仕方ない。気を紛らわすついでに始めた実験も思うような結果が得られない。

 ドーム型の置時計を見やり、ため息をひとつ。もうすぐ一時。


 いてもたってもいられず、実験は中断。

 血液とシャロンが開発した解毒薬黄色の液体は廃棄、実験器具の横に積んだ本数冊は本棚の所定の位置へと戻す。


 外に出て帰りを待とうか、どうしようか。

 迷いが強くなってきた頃、かすかに馬の嘶きが聴こえた気がした。やっと、きた、か。

 外に出るのは思いとどまるも、扉のすぐ目の前で今か今かと帰りを待ちわびる。音と気配が近づくごとに気持ちは焦れていく。


「おかえり、グレッチェン。無事送り届けていただき感謝しよう、Mr.サリンジャー。では、もう遅いので今宵はこの辺で失礼させてもらう」


 扉が開くなり、シャロンはディヴィッドが口を開くより先に小声でまくし立て、グレッチェンを強引に中へ引き入れると、つっけんどんに扉を閉めた。

 扉越しに文句のひとつふたつ返ってくるかと思いきや、ディヴィッドは何を言うでもなくあっさりと帰っていった。


 無事帰ってきたことで気が抜けたのだろう。

 少しだけ気持ちに余裕が戻ってきたので表情を緩め、振り返る。


「あの……」

「ん??なんだね??」


 シャロンとは対照的にグレッチェンの表情はいつにも増して固い。

 人ひとり始末してきたのだ。へらへら笑うのも神経を疑うが(まさに約一名当てはまる人物はいるが)息すらも止めてしまいかねない様子に不安を煽られる。


「いえ……、何でもありません」

「そうか……」


 何でもない訳ないだろう。

 問いつめ、慰め、抱きしめるだけで傷が癒せるならどれほど楽か。

 そんなことをしても却って傷を抉るだけ。


「疲れただろう??温かい飲み物を用意するから二階へ上がっておいで」


 遠くのから帰ってきたのを労うような、いつもと変わらぬ、ごく軽い対応。

 これでいい。ごくわずかだが、グレッチェンの肩の力が抜けた、気がする。気がしただけかもしれないが。


「ほら、早く行きなさい」

「は、はい……」

「長椅子に着替えを用意してある。私の物で悪いが一応新品だし、それで勘弁してくれないか」

「いえ、そんな……、ありがとうございます……」

「うん」


 何度も顔色を窺う目でシャロンを見つつ、グレッチェンは静かに階段を上っていく。

 一〇分ほどのち、飲み物を手にシャロンも自室へ戻る。

 部屋に入って早々、長椅子の端に座るグレッチェンを見て眉を寄せそうになった。

 寝間着はローテーブルの上、きれいにたたまれたままでいる。


「なんだ、着替えてなかったのかね」

「すみません、やはり気が咎めてしまって……」


 長椅子の端に座り、視線を落としたグレッチェンの隣へごく自然に腰をおろす。


「今日はいつもより疲れてるからホットチョコレートにしたよ。マシュマロがあればもっと良かったんだろうけど……」

「シャロンさんは甘い物苦手ですからね」


 いらないと言われるかと思ったが、遠慮がちながらカップを受け取ってくれた。

 しかし、受け取ってはくれたものの口をつける気配がない。

 熱が冷めるのを待っているのかとも思ったが、そういう訳でもなさそうだし……、と心配になり顔を覗き込む。


「グレッチェン??」

「…………」

「グレッチェン……!」


 心ここにあらず、と茶色い液面を見つめていたグレッチェンの肩がびくり、大きく跳ね上がった。


「あ……、すみません。ボーッとしていたみたいです。これ頂きますね、ありがとうございます……、あつっ!」

「焦って飲まなくていい、ゆっくり飲みなさい……」

「はい、すみません」

「それから、今夜はもう『すみません』は禁止だ」

「え??」

「君、さっきから何回『すみません』と言ったと思う??」

「あ、す」

「言った端からほら」


 気まずげに口元を押さえるグレッチェンにびしり、指を指す。


「気をつけます……」

「ぜひそうしてもらおうかね」


 わざとえらぶって鼻を鳴らす。

 すると、グレッチェンの頬が、唇の端が、心なしか緩んだ、ように見えたのだった。






(2)


 バチェラーの死因は薬物の過剰摂取による中毒死、と、各新聞報道に取り沙汰された。彼の死後、後任に就いた実弟は砒素グリーンの使用廃止を宣言、薬害被害者への賠償金支払いを確約した。

 その裏でファインズ男爵とディヴィッドが暗躍したことなど、どの新聞報道にも、カストリ新聞でさえ掲載されることは一切なかった──




「……そういや、この間は愚弟が世話になったらしいな」


 事件から数日後、避妊具を買いに来たハルが勘定しがてら低く漏らした。

 一瞬前まで冗談交じりに世間話を交わしていたのに。すべてを分かっていながら普段通りにふるまっていたのか。

 言葉に詰まるグレッチェンにかまわず、「つりはいらねぇ、チップみたいなもんだと思っとけ」と続けた。


「前も言ったと思いますけど、おつり以上のお金は受け取れません」

「俺がいいっつったらいいんだよ。今回は結構深く巻き込んじまったし。いっそのこと愚弟を破産に追い込んでやってもかまわんくらいだと俺は思ってるが」

「いえ、今回は」


 自分から巻き込まれに行っただけで──、助けを求めるようにシャロンを横目で見やる。


「私も同感だ」

「ほら見ろ。店主直々に許可が下りたぜ。素直に受け取っとけ」

「こういうときだけ結託しないでください……」


 シャロンひとりならいざ知らず、ハルとふたりがかりで説得されては勝ち目などない。良心は痛むが、渋々お金は受け取ることにした。


「あぁ、そうだ。愚弟からの伝言。『あのガキんちょビアンカならうちが経営するホテルで働いてもらってる。住み込みで三食食えるってんでよく働いてるみたいだし安心しろ』だとよ。嘘じゃないぜ。あいつは昔から俺にだけは絶対逆らわねぇ。逆らったらどうなるか、ガキの頃から散々思い知らせてきてるしな」

「はぁ……」


 悪びれもせずカラカラと笑うハルに、ほんのちょっとだけディヴィッドが気の毒に思えてくる。


「同情しなくていい。裏の世界に必要以上に関わるな。いつか表の世界で生きられなくなる」

「…………」

「ま、お前らは仲良く並んで店先に立ってんのが一番お似合いだわ。てことで邪魔したな」


 ハルはふたりに背を向け、振り向きもせず片手を軽く上げて去っていく。

 その後ろ姿を見送ると、グレッチェンは中断していた薬の在庫確認を再開し始めた。


 いつもと変わらない日常。

 非日常を、罪を知るからこそ大切だと思える日常。

 毒販売をあと何年続けるかは決めていない。でも、だからこそ。

 非日常の世界、感覚に決して慣れてはいけない。

 ハルではないが、心まで染まりきったら──、きっともう引き返せない。






(3)


 広くて清潔な部屋。ふかふかの羽根毛布に包まれた柔らかなベッド。

 傷一つない家具調度品。大理石で作られたシャワールーム。


 ビアンカのこれまでの、否、これからの人生でも一生縁のない世界だった場所に今、たったひとりで佇んでいる。手には掃除道具、メイド服に似せた制服を着用してはいるけれど。


 初日はただただ圧倒される余り、指導役の先輩従業員の説明も頭に入らず。やる気がないなら今すぐやめろと一喝され、やっと仕事に取りかかれたくらいだった。

 さすがに何日か経た現在、仕事の要領も覚えてきて手も早くなってきた。先輩からの小言も減ってきた。


 仕事の要領が分かってくると余計な雑念が湧いてきやすい。

 鼻歌混じりにベッドメイキングを行い、枕の下のチップを制服のポケットに突っ込む。ベッドサイドの机を軽く拭き掃除し、なにげに抽斗を開けたときだった。


「あ、」


 象牙の万年筆が出てきた瞬間、反射的に手が伸び──、掴む寸前で思いとどまる。

 衣食住に困らない生活を手に入れた。仕事さえきちんとこなせば薬害を患う手について誰も気にしたりしない。


 なのに、どうして。

 この手は、この手は──、



 そうだ。抽斗なんかに金目の物を置いておく方が悪いんだ。

 だいじょうぶ。この部屋の客は結構な年のジジィだったし、きっと抽斗にしまったこと自体忘れてる。


 一度動きを止めた手はごく自然に、万年筆を制服のポケットへ突っ込んだ。

 そして、何事もなかったかのような顔でビアンカはそっと抽斗を閉めた。





(了)

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灰かぶりの毒薬 青月クロエ @seigetsu_chloe

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