第97話 Foxy Blue(15)

(1)


 薬害被害者の少女たちが連日押し寄せるため、バチェラー邸では使用人の数が日に日に減り続けていた。更に、屋敷に潜り込ませたサリンジャーの手の者が他に条件のいい仕事をさりげなくちらつかせ、一気に人手不足に陥ったという。

 残る使用人たちも決してバチェラーへの義理や恩義のためではなく、新しい仕事、新しい環境に飛び込む気がないだけ。人が減った分、激務に陥り常に鬱憤をため込んでいたおかげで、使用人に扮したサリンジャーの者が安酒を持ち込み、地下の厨房でふるまえば見事に全員酔い潰れてくれた。


 よって、グレッチェンがディヴィッドの手引きに従い、誰にも気づかれないようバチェラー邸に潜入しても、誰ひとり気づきもしなかった。






 バチェラーが事切れていく姿を、メイドに扮したグレッチェンは黙って見つめ続けた。冷たい鉄面皮とは裏腹に、草花の汁で汚した両手に握るスカートにはひどい皺が縒っていた。


 協力すると自ら言ったのだ。後悔はしていない。

 この男を放っておいたらビアンカのような薬害被害者も、ルシルみたいに弄ばれる踊り子も増え続けるだろう。

 自分は悪くない、街の発展に貢献した、と今わの際ですら自らの所業を正当化する様に怒りはとっくに通り越し、『無』の心境に陥りつつあった。


 成功、利益、発展の下には膨大な犠牲と言う名の屍が転がっている。

 その屍に懺悔と感謝を込め、丁重に埋葬するならまだいい。

 問題は屍が転がるのは当然、踏みつけるのも当然。埋葬など論外、飢えた獣にでも食わせておけと軽んじる姿勢が到底許し難い。



「お嬢ちゃん、そろそろ終わったー??」


 扉の外からディヴィッドが呼びかけてくる。(グレッチェンが入室するとき、扉を開閉したのは彼だった。ドアノブにグレッチェンの指紋がつかないように、と)

 グレッチェンが答えるより早く、彼は静かに入室してきた。


「ジジィ、ちゃんと死んだぁー??」

「はい」

「そ。でもまぁ、いちお、確認させてもらうわぁ」


 目を見開いて横たわるバチェラーのそばへ膝をつくと、ディヴィッドは黒革の手袋をはめたまま脈や瞳孔の確認し始めた。


「うん、よしよーし、死んだ死んだ。完璧に死んだー」


 歌うような軽い物言いに気味悪さを覚え、ディヴィッドから二、三歩距離を取る。

 彼もある意味では犠牲と言う名の屍を軽く扱う人種、かもしれない。そして、理由が何にせよ、協力した自分もまた、同じ穴のむじなかもしれない。


 バチェラーやディヴィッドに対してではなく、自分自身への強い嫌悪感が噴き上がる。更にディヴィッドから距離を取るうち、窓辺へ徐々に近づいていく。


 雷はいつの間にか止んでいた。だから余計に夜闇の深淵が際立って見える。

 その深淵の世界に白く浮かぶ影が窓越しに視界に映りこむ。

 白い影は徐に金髪の鬘を外し、顔、腕、手足に張り付けた火傷跡の模様をぴりぴり、手早くめくっていく。

 夜闇よりずっと黒く美しい髪がすとん、と肩を流れ、彫りの浅い、けれど切れ長の双眸に妖艶な顔立ちの少年とも青年ともつかぬ人物──、ジョゼがグレッチェンに向かってしきりに何か話しかけてくる。


「え、と……」


 おそらく唇の動きを読め、ということらしいが、窓越しだし暗いし、読唇術などさっぱりだ。案の定、ジョゼは露骨に眉を顰め、とうとう自らの唇を指差し、わざとゆっくり話し出した。


「もう帰っていいかってかぁ??」


 ディヴィッドが急に背後に現れ、思わず叫びそうになった。

 ジョゼもディヴィッドを認めると、グレッチェンから彼へと体ごと向き直る。

 窓越しで声なき声での会話を交わす二人にも、床に転がる死体にも目を向けられない。


 自分だって同じなのに。この手はすでに多くの血に染まっているのに。

 どこかで彼らとは違う、と思いたがっている狡さ浅ましさに反吐が出る。


「つーわけでぇ、お嬢ちゃんは帰りなぁー。残りは俺らの仕事だしぃ」


 急に話しかけられ、肩が大きく跳ね上がった。

 相変わらずディヴィッドは場にそぐわない軽薄な笑顔でいる。


「ジョゼさんは……」


 訊いてはみたが、すぐに愚問だと悟る。

 窓の外、ジョゼの姿はすでに消えていた。


「あいつもあくまで補佐的な役割だしぃ??」

「でも、私は」

「お嬢ちゃんはあくまで一般人、これ以上深入りさせる気ねぇしぃ??」

「充分すぎるほど深入りしている気がしますが」

「だーかーらぁー、お嬢ちゃんから協力言い出したからっつって、うちの連中じゃない人間に直接コロシやらせちまったことはうちの名折れになりかねんわけぇ。今回協力してくれたうちの連中、ジョゼも含めてあいつらは口堅ってーからいいけど、親父や他の幹部連中にバレるといろいろうるせーんだわ」


 色々気になるのだったら、最初から協力仰がなきゃいいのに……、と、珍しく自分を棚に上げ少しだけムッとなった。

 グレッチェンの心情を察したのか、ただ単に愚痴りたいだけか。ディヴィッドのおしゃくそ、もとい、言い訳……、もとい、弁解は続く。


「あ、なに、なになに、その顔?!だったら頼むなよって思ったでしょ?!」

「否定はしません」

「そこはさぁ、そんなことありませんよって優しく……」

「心にも思ってないこと言う方が優しくないと思います」

「あぁ、うん、そうだねぇー、お嬢ちゃんはそういう女だったわぁ……。白黒はっきりし過ぎなくらいはっきりしてるからさぁー、今回の件難航してたとはいえついつい頼っちまったってさぁー、あ、詳しくは訊かないでくれるぅ??」

「訊くも何もそちらの事情に一切興味ありませんから」

「めちゃくちゃ助かるけどめちゃくちゃ傷つくのはなんでかなぁ?!」


 相手をするのが疲れてきたのでもう無視しよう。

 どこまで素なのか演技なのかは定かじゃないが、ひとりで勝手にしゃべり倒すディヴィッドを見ているうちに、深く思い悩むのがだんだん馬鹿らしくなってくる。


「……無駄話を延々と続けるくらいなら帰ってもいいですか??」

「つーか、やっと帰る気になったぁ??」


 やられた。

 にやにやと笑う顔が、小猿を彷彿させる顔立ちと相まって憎たらしいことこの上ない。


「だいじょーぶ、だいじょーぶ!カボチャじゃねーけど、ちゃあんと馬車で灰かぶり姫を王子様の元まで届けてやっから!」

「……王子様、とは??」

「あんたの王子様なんて一人しかいねーじゃん」


 そんな人いたかしら。

 変な人の元へ送り届けるつもりじゃないわよね……、と、途端に警戒心丸出しで睨み上げるとディヴィッドはしょうがねぇなぁ、と肩を竦めた。


「少なくとも、ハロルドにぶっ殺される真似する気ねぇから安心してぇ??」






(2)


 バチェラー邸に潜入させた者たちに後始末を命じ、グレッチェンをシャロンの元へ送り届けたのち、ディヴィッドはバチェラー邸と同じサウス地区内で最上級区域、ファインズ男爵家のカントリーハウスへ、ひとり向かった。


 閉ざされた高い鉄製の正門を通り過ぎ、城及び広大な庭園を囲う門周辺を周って裏門へ。

 蔦が絡み、よく伸びた樹々の枝葉の影に覆われた真夜中の裏門は人ならざるものが潜んでいそうで非常に不気味だ。が、特に臆するでもなくディヴィッドは門によじ登り、上部に近づいたところで颯爽と乗り越える。

 近くの犬舎で犬たちが騒ぎ始めている。犬たちが飛び出してくるより先に目当ての部屋がある棟へ急ぎ、静かに走る。目的の棟まで着くと外壁の煉瓦の凹凸を利用し、三階までよじ登る。

 バルコニーの柵を越え、背の高いアーチ窓をコツ、コツコツ、コツコツ、コツ、と叩く。ほどなくして分厚いカーテンと窓が開かれる。


「今何時だと思っている。非常識だ」


 平素は後ろへ撫でつけている前髪を下ろし、ローブ姿のファインズ男爵は表情もなくディヴィッドを詰った。声音から不快さが存分に伝わってくる。


「で、首尾良く事は運んだか??」

「えぇ、もちろん」

「ならいい。無礼無粋も許してやろう」


 そりゃどーも、と心中で答えつつ、同じく心中で舌を出す。


「これでまたひとつ、民衆の株があがりそうですねー。薬害被害者たちを哀れんで裁判に協力するファインズ男爵様は貴族ではなく庶民の味方だって」

「当然だ。貴族が我が身のためだけに権力を振るう時代は終わりつつある。いつまでも古い価値観に縛られるのは低能……、否、無能者でしかない」


 つい一〇数年前までは散々権力笠に着てやりたい放題やってた癖に、どの口が。

 喉元まで出かかったが、禁句中の禁句を口にするほどディヴィッドは愚かではない。

 だから感情の籠らない声で「そーですかー」と一言、短い相槌だけを打っておいた。

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