第96話 Foxy Blue(14)
(1)
バチェラーは原告側代表の
あの小娘が警察や新聞社へ駆け込むのは想定済みだったし、事前に圧力はかけておいた。管理人に金を積んで長屋から強制退去させ、野垂れ死ぬようにも仕向けた。なのに、なぜ。
訴状を提出し裁判を起こすだけなら誰でもできる。最下層の貧民とて例外でない。そう、裁判を起こすだけなら皆等しく平等。ただ、まともな答弁もできない低能、弁護士も雇えない奴等が勝訴する可能性はほぼゼロ。なのに、なぜ。
あの小娘どもが街一番の敏腕弁護士を立てている??
寄付を募っていたとて底辺の労働者風情が到底雇える人物なんかじゃない!
訴状とてそう。理論整然と言葉を並べ立て、こちらの不備な点を的確に突いてくる。間違いなく裏で誰かが彼女たちを支援している──
「おのれ……」
裁判所からの帰途、二頭引きの箱馬車の中で憎々しげにつぶやく。
下された判決は敗訴。
薬害被害者への賠償命令、砒素グリーン使用製品の製造中止。工場経営権をバチェラー氏の補佐を務める実弟へ譲渡。
弟は以前から砒素グリーンの使用に苦言を呈し、バチェラーとは険悪な状態。百歩譲って誰かに経営を任せるとしても絶対選びたくない相手。なのに、よりによって、その愚弟へ譲渡しなければならないとは!
座席に深くもたれたかと思えば、うつむいて頭を抱え込む。
何度か繰り返したのち、フロックコートのポケットから純銀製の煙草入れを取り出し、乾燥カナビスの粉を混ぜた紙巻き煙草をくわえる。一緒に出したマッチを擦ろうとして馬車が大きく揺れ動き、急に停まった。
火を点ける前でよかった。火を点けていたら、髭を燃やすか唇を火傷していたかもしれない。
「何なんだ!いったい外で何があった!!」
同乗する従僕が確認してきます、と外へ出ていく。
車輪に大きな石ころでも挟まったか、阿呆な輩が馬車に轢かれそうにでもなったか。苛々と、今度こそカナビスの煙草に火を点ける。
煙を吸い込むごとに、爆発寸前の苛立ちは嘘みたいに消えていく。
深い湖の底へゆっくり、ゆっくり落ちていくかのように、身体がどんどん重くなっていく。座席がどこまでも沈んでゆく。そして眠気が下りてくる。
外が少し騒がしい気がするが、従僕と御者で適当に解決するだろう。それが彼らの仕事。なるべく手短に済ませて欲しいけれど。
最悪極まる一日、今後を思うと運命を呪いたくなる状況だが、瞼が重すぎて目を開けていられない。思考するのも億劫。時間の感覚も失い、扉が開き、従僕が戻ってきた頃にはほとんど夢うつつ。
火が消え短くなった煙草を無意識に床へ落とし、靴の裏で揉み消す。その記憶を最後に、バチェラーの意識は完全に落ちていく。
目を覚ましたときには、自室の長椅子に寝かされていた。
酷い倦怠感に蝕まれながら、身体にかけられた毛布を跳ね飛ばす。
よろよろと起き上がろうとしても、深い深い湖の底から這い上がってきた身体は鉛のごとき重さ。異常に乾いた喉を潤したいのに、すぐそばのローテーブルにある呼び鈴を鳴らすこともできない。
長椅子としては広くとも、寝るには狭い座面から落ちないよう、慎重に寝返りをうつ。少し動いただけで頭が痛む。小さく呻いた数瞬のち、日が翳った部屋に遠雷が響く。
雨が降る直前、バチェラーは頭痛が起きやすい。
やはりというか、間隔を空けて鳴り響く遠雷に続き、ぽつ、ぽつ、と雨粒が窓を叩き始める。徐々に増していく痛みに新たに苛立ちも増していく。痛みと苛立ちは身体を蝕む倦怠感、鈍重感をも凌駕し、バチェラーは長椅子から跳ね起きた。
鎮痛剤とカナビス煙草を!
呼び鈴を手にそう叫ぼうとした言葉は、ひゅっ、と息を飲む音に取って代わられた。
(2)
天井から床までの高さを誇る大窓のカーテンが揺れた、気がした。
窓は完全に締め切っていて、わずかな隙間風だって入らない。
だが、そんなのはどうだっていい些末事。問題は──、目を背けたいのにどうしても窓の外、バルコニーへと吸い寄せられていく。
雨が降りしきる中、華奢な手足が、指の先、爪の先の一本一本においてまで繊細な動きを見せる。金の長い髪は身体と共に軽やかに跳ねる。
バルコニーを舞台に、遠雷の光と音を背景に仕立て上げ、踊る少女の姿にバチェラーはしばらくの間、言葉を失っていた。が、恐怖は次第に、得体が知れない者への怒りへ変化していく。
「おい貴様!なんのつもりだ!ふざけた真似しおって!」
絶対に捕まえてやる。侵入方法は不明すぎるが、三階のこの部屋から逃げるのは容易なことじゃない。酷い頭痛も忘れ、バチェラーはずかずかと窓辺へ近づいていく。
窓まであと一、二歩でたどり着く。
すると、少女は突然、踊るのをぴた、とやめ──、窓へ向かって駆けだした。
「ひいいぃぃっ!!」
窓まであと一、二歩のところで、怒りに燃えいていたのが一転、バチェラーは青ざめた顔で窓から飛びのいた。勢いあまって尻もちをついたかと思えば、重い尻を床へつけたまま、ずりずり、後ずさっていく。
ぱくぱくと、魚のように開閉し、空気ばかりを吐きだすバチェラーの目は、文字通り少女に釘づけだった。
窓硝子に張りついた少女の顔、首、手足……、衣服から見える箇所すべて、肌は無残に焼け爛れ、所々に蛆が湧いていた。
踊っているときは遠目で分からなかった。記憶に残る、天使の愛らしさの面影は影も形もない。
濡れそぼった髪を振り乱し、少女はバンバンと窓硝子に体当たりした。バチェラーを暗い目で恨みがましく睨みつけてくる。
余りに醜く凄惨な姿から目を逸らしたいのに、できない。逸らした隙に窓を通り抜け、襲いかかってくるやもしれない。
どうすれば消えてくれる??
懺悔し、赦しを乞えばいいだろうか??
正直、このような状況でも少女を見捨て、殺害したことに何の後悔もない。
下層出身の踊り子が富裕層に消費されるのはよくある話。勝手に夢見て舞い上がる方が馬鹿、互いに上手に利用し合う関係が望ましい。
だが、ルシルは違った。夢を見ない分、誰よりも欲深かった。
高額な出資をしていたのにプリンシパルになってから更に金額を跳ね上げ、要求を飲まなければ関係を公にすると脅迫さえしてきた。
大火傷で再起不能に陥ったと知ったとき、どれほど安心したことか!
かつて味わわされた苦汁を思い出すと、再び激しい怒りに襲われた。
「貴様!死んでからでさえ私を追いつめるつもりか!悪霊が!!」
ひと際大きく鳴り渡った雷に負けじと叫ぶ。
立ち上がって窓辺へ駆け寄る。未だ窓に張りつく少女をなんとしても引きずり込んでやる。誰かの手による質の悪い悪戯だろうが、本物の悪霊だろうが関係ない!
コンコンコン!
「旦那様!いかがされましたか?!」
「なんでもない!!下がれっ!!」
思わず舌打ちする。余計な気など回してくれなくて結構!
「旦那様……」
「下がれと言った筈だ!誰が入ってきていいと言った?!」
雷と悪霊、激高する自身に気を取られ、使用人風情に入室を簡単に許してしまった。灯りひとつ点いてない室内、随分と小柄なメイドだな、と、ふと、どうでもいい感想が浮かぶ。が、袖から覗く手の皮膚は緑に染まり、嫌な予感を覚えた。
「ひっ……、うぐっ!」
叫び声は飛びついてきたメイドの唇によって塞がれた。
抵抗を試みるもなぜか身体が激しく痺れ、指先ひとつ動かすとこができない。
メイドは床に倒れ伏したバチェラーの口内へ何かを流し込んでくる。ただでさえ痙攣や冷や汗が止まらず、激しすぎる動悸に見舞われているのに、これ以上何をしようというのか?!
程なくして、バチェラーは猛毒を飲まされのだと悟った。
内臓という内臓がすべて破裂しそうだ。血液が沸騰し、体中の穴という穴から様々な体液がだだ漏れるかもしれない。
私は何も悪くない。
利を追求し、街の発展の一端を担っただけ。行き場のない愚民に職を与えてやっただけ。
私は何も悪くない。
たまの気晴らしで踊り子と遊んでいただけ。気晴らしなのに重荷となる娘を手放しただけ。
私は何も悪くない。
私は──
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます