第95話 Foxy Blue(13)
(1)
「──という訳で、ビアンカさんを説得しつつ助けたのです。ずぶ濡れ、しかも汚泥まみれの私達を見兼ねた
「グレッチェン!」
とてもじゃないが、説明を最後まで聞く気になれなかった。
「まともに泳いだ経験もないのにヨーク河に飛び込むなんて……、あまりに無茶が過ぎる!彼女と一緒に沈んだり流されたり、突然の深みに嵌ったり汚泥に足を取られたりしたらどうするんだね?!」
四方を本棚に囲まれたこの部屋は日中でも薄暗い。夕方に差し掛かった現在、すでに薄闇に染まりつつある。そんな中でもグレッチェンの不服げな様子ははっきり見て取れるし、当然反論を口にしかけ──、るも、シャロンはそれすら許さない。第一声が発されるより先に叱責を重ねる。
「もちろん君にも言い分はあるだろう。いや、間違いなくあるに決まってる。倫理的には正しい理由に違いない。ただし今回の場合、君まで一緒に命を落とす危険性が高かったから私は怒るんだよ」
「………」
険しかったグレッチェンの目つきが少しずつ緩んだかと思うと、代わりに肩ががくり、落とされた。
「無茶は……、認めます。でも、どうしても見捨てるなんてできませんでした」
「ドブさらいの男衆に救助を頼めば良かっただろう??あとで謝礼を払うからと言えば、ドブさらいの人々は動いてくれる。それじゃ駄目だったのかね??」
「全く考えもしませんでした」
「君ねぇ……」
昔から他人に頼る・甘えるのが下手な性分だったが……、ここまでとは。
説教する間に自然と近づいた距離。呆れと心配まじりに息を吐き、思わず華奢な肩に手を伸ばし──
「近づかないでくださいっ!」
数秒後、尻もちの衝撃と痛みで我に返る。
「すみません、臭いが……」
突き飛ばしたのは条件反射だったらしい。
両手を伸ばしたまま、グレッチェンはバツが悪そうに見下ろしてくる。だから気にしないのに……と、言葉にすら出す気になれず、すみやかに立ち上がった。
「いいねぇ、そうやって心配してもらえてさぁ」
黙って二人の様子を窺っていたビアンカの冷めた声音が室内に響く。
「助けたからっていい気になんないでよ」
「君……!」
「生きてたってイヤなことつらいことばっかなんだもん。おねえさんやおじさんみたいに金や生活に困ってないヤツなんかに絶対わかんないよ。食べ物に困ったことなんて一度だってないよね??」
「……」
『住む世界が違う』
階級格差による絶対的な断絶を前に、かける言葉など簡単に見つからない。
完全に言葉を失う二人から顔を反らし、不貞腐れた口振りでビアンカは続ける。
「ルーシーおねえちゃんも死んじゃったし、長屋も追い出されて住むとこないし。こんな手じゃまともに働けないし、どうせ早死にするんじゃない??だから……」
「待ってください、今、なんて」
ビアンカは固く口を閉ざしていた筈のルシルの死を自ら口外してしまった。
「ビアンカさん」
「あ、あんたたちには関係ないっ!」
追求しようと迫るシャロンとグレッチェンから逃れるべく、ビアンカは裏口の扉を大きく開け放した。
また逃げられるのか?!今度こそ絶対逃がす訳には──
「ぎゃっ」
ビアンカが逃げ出そうとした、まさにその瞬間。
裏玄関の前に立っていたらしき人物と思いきりぶつかった。
さっきのシャロンのように尻もちまではつかなかったが、ビアンカはよろけながら二、三歩、室内へ後ずさった。
「おーおー、休業の貼り出しもないのにぃなんか店の鍵締まってっからー、裏口回ってみたんだよぉ。そしたら」
「盗み聞きか??趣味の悪い」
「やだなぁー、人聞き悪ぃぜぇ??マクレガーの旦那ぁ。聞いたっつっても、そこのガキんちょの長口上しか聞いてねぇぞぉ??」
「……あ、あ、あ、、」
「ビアンカさん、どうしたのですか??」
ディヴィッドの黒スーツを目に留めると、ビアンカはグレッチェンの腕にきつくしがみついてきた。しがみつき方の割に痛くないのは、異常なまでに震えて力が入りきってないからだろう。
理由を察したのか、ディヴィッドはめんどくせえ、とつぶやく。
「あー、あのさー、言っとくけど、あんたのねえちゃん
「殺った、って……」
「あぁー、めんどくせーなぁー!あんたらって、なんでそうも厄介な事件引き寄せるわけぇ??はぁあ、事情説明くっそめんどくせぇぇええー!適当な理由つけてこのガキんちょ保護してとっとと戻る算段が台無しじゃねぇーかぁー!ってことでー、今日は臨時休業にしてくんなーい??」
「「は??」」
グレッチェンと間抜けな声が重なるが、軽薄な口調とは裏腹にディヴィッドは笑っていない。こういうときの彼には従った方が無難。
それにビアンカの事情は言わずもがな。ディヴィッドが彼女を保護しようとする理由も気になるところ。なぜ彼はビアンカが薬屋にいることを知っているのか。
にしても、『くっそめんどくせぇ』のはむしろこちらの台詞だ。
シャロンも露骨に顔を顰めつつ、「あぁ、わかったよ……」と観念した。
(2)
ディヴィッド曰く、五日前の深夜未明、ビアンカとルシルの長屋部屋に複数人の男たちが押し入り、ルシルを殺害した。しかし、何者かの手により、この殺人は表沙汰にならず闇に葬られた、という。
「よりによって俺がさぁ、いま関わってる案件とこの事件の首謀者が同一人物、かもしれないんだわー。で、このガキんちょは二つの案件の被害者でー、ちと俺らに協力してほしくて探し回ってたってわけー」
本日ディヴィッドが薬屋を訪れたのは、『五日前の昼過ぎ、薬屋から少女の叫び声が響いたこと、声の主らしき
ハルに訊いてもはぐらかされるのが目に見えるので、代わりに嘘が下手な薬屋の二人から話を訊いた方が早い、と判断したとか。
「協力??ビアンカさんに何をさせるつもりですか??」
「ちょ、お嬢ちゃん、睨まないでぇ??……変な扉開きそう」
「ふざけないでください」
「冗談だよ、ジョーダン!そんな真面目だと生き辛いばっかだぜぇ??」
ディヴィッドがビアンカをちらと見下ろせば、肩を大きく跳ねさせ、グレッチェンにくっついてくる。
グレッチェンを真ん中に据え、彼女を挟む形でディヴィッドとビアンカは丸テーブルに着いているが、(一応)味方と言われても黒スーツへの恐怖と警戒は解けないみたいだ。
「Mr.サリンジャーの場合、ふざけるのが酷すぎるんだよ」
部屋の中心にある、二台合わせの長机にもたれて立つシャロンからも指摘が飛ぶ。
「うっわ、旦那まで言うかよー。まぁ、いいや」
「サリンジャー一家に協力したあと、ビアンカさんはどうなるのです??彼女は住む場所も仕事も失ってしまいました」
心の拠り所である『ルーシーおねえちゃん』まで失ったのに、とは、心中でのみ付け加えておく。
「え、なになに??このガキんちょの今後まで面倒見ろってかぁー??」
「はい。利用するからには対価に値するものも支払うべきではないでしょうか」
「ねぇちゃんの仇討ってやるようなもんなのに??それ以上他にもしてやれってか??」
「はい」
ディヴィッドの片眉が吊り上がる。
シャロンが、余計なこと言うんじゃない、と視線で窘めてくる。
「ふーん、別にいいけどー」
「え」
今度はシャロン、ビアンカとも声が揃う。
「つーか、元々、保護してうちで面倒見てやるつもりだったしぃ??」
「まさかと思うが、娼館で働かせるわけじゃないだろうな??」
「んなわけねーでしょーお??未成年だし薬害患ってる奴に客取らせられるかよー。もし働かせるとしたら、経営するホテルで掃除とかやってもらうわー、ってなんだぁ??」
「おじさん、おねえちゃんの仇討ちしてくれるって、ほんと??」
さっきまで恐れていた筈のディヴィッドにビアンカは身を乗り出し、食いついてきた。栗色の瞳は濁り、ぎらぎらと怒りに滾っている。
「あぁ、まーあ、ねぇ」
「あたし、あたし、おねえちゃん殺したやつ、心当たりあるよ。あいつしかいないよ。あいつ、お姉ちゃんのパトロンだったし、あたし、火傷の治療費せびりに行ったの!なのに追い返されてさ!おねえちゃんが殺されたのはきっとあいつの仕業だよ!なのに、警察に訴えても新聞社に駆けこんでもだーれも相手してくれないんだよ?!」
「おい、ちょ……」
怒りを思い出すと共に開き直ったのか、ビアンカの叫びは止まらない。
「それにあいつ、あたしが働いてた工場の経営者でさ、あたしの手もあいつのせいみたいなもん……」
「いい加減黙れよクソガキ。喋りすぎだ」
笑顔が消えたディヴィッドにビアンカの怒りは恐怖へと変わり、グレッチェンに三度、くっついてきた。
「サリンジャーさん、やりすぎです」
「我々が一応部外者だから気にするのかもしれないが、貴方がここに来た時点で巻き込まれてるも同然だが??」
「あーはいはい!ごもっともなツッコミっすねぇ!そうねぇー、俺もあんたらやハロルドみたいな巻き込まれ体質に変わってきちまってるのかもねぇー!」
「……あまり大きな声出さないでください。ビアンカさんが怖がってます」
「お嬢ちゃんマジで怒ってるだろ??」
「はい。それから、シャロンさんの仰る通り、私たちもすでに充分巻き込まれてます」
「へぇー……、そういうからには一緒に巻き込まれてくれんのお??」
ちょっと待て、と口の動きだけでつぶやき、腰を浮かせたシャロンをあえて無視し、続ける。
「サリンジャーさんが何をするか、にもよりますが。最も……、私はサリンジャーさんではなく、ビアンカさんへの協力のつもりですけど」
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