第94話 Foxy Blue(12)
(1)
ビアンカとルシルの身に降りかかった悲劇は翌日の朝刊どころかゴシップだらけのカストリ新聞にすら公表されず、闇に葬られた――、と思われた。
――時は経過し五日後、夕方近く――
この日、シャロンは珍しく開店からずっと一人で店番していた。
商品の在庫確認はものの一時間もあれば終わる。あとは接客をすればいいだけだが、肝心の客は昼間はあまり店に来ない。
なるほど。ひとりきりでの店番は退屈でかなわない。
あくびをかみ殺し、愚痴や文句一つこぼさず、日々店番するグレッチェンを讃えたくなった。(彼女が口にする文句はシャロンの生活態度や仕事の姿勢についてがほとんどだ)
だからというわけではないが、たまには仕事の趣向を変え、今日みたいに薬の買い付けを頼むこともある。ついでに、店が忙しくなる夕方までに戻ってこればいい――、暗に少々なら寄り道して遊んできてもいい、とも伝えている。(実際は薬を受け取り次第、まっすぐ店に戻ってくるけれど)
しかし、今日は戻ってくるのが少し遅い気がする。普段ならすでに店に戻っている筈なのに。
珍しく道草でも食っているのか。もしそうであっても、グレッチェンが寄りそうなのは貸本屋か市場か教会近くの広場か。可能性は限りなく0に近いがマクレガー夫人とお茶でも――、ありえない。
一度気になりだすとそのことばかりが頭を占める。長すぎる道草食ってるなら安心だが、仮に事故や事件に巻き込まれていたら――、否、まさか。
ちょっと心配が過ぎるんじゃないか??
彼女が知ったら『いつまでも子ども扱いしないでください』と鬱陶しがるに違いない。でも、いくつになろうと心配なものは心配だ。
「……ただいま、戻りました」
「グレッチェン??」
入り口扉がわずかに開くと、シャロンはカウンターから飛び出しかねない勢いで扉を注視した。が、そこにグレッチェンはいない。
幻聴が聴こえるほどに心配なのか、と自身に呆れそうになったが、「……遅くなってすみません」という声が続く。今度は幻聴じゃない。はっきりと聴こえたし、声がする場所も特定できた。
なぜ表の薬屋入り口ではなく、裏口から入ってきたのか違和感覚えつつ、声と物音がした奥の部屋へ入る。遅かったな、とか、どこか寄り道してたのか、など詮索めいた言葉は飲み込み、代わりにおかえり、とだけ呼びかけ――、ようとして、絶句した。
「グレッチェン、これはいったい……」
「すみません、シャロンさん。どうしても放っておけなくて……。あぁ、買い付けした薬は汚れてませんし臭いもついてないので安心してください」
「いや、まぁ、それはいいとして……」
本当は全然よくない。よくないけれど、今はそうも言ってられない。
裏口の玄関にたたずむグレッチェンは、普段着のシャツにサスペンダー付きズボンではなく、身丈に合わない黒い男物の旗装服を着用していた。
更に驚くべきことに、彼女の隣には同じく旗装服を不格好に着ているビアンカの姿があった。
その二人の身体からは微かにだが、汚泥の臭いと腐臭が漂ってきた。
「あの、話を聞いてもらいたいので部屋に入って欲しいのですけど」
「もちろん、そのつもりなんだがね??」
「その前に、店の扉の鍵を閉めてもらえますか」
「あ、あぁ、わかったよ」
「それから」
扉を開けたまま頷くシャロンにグレッチェンは顔を背け、言いにくそうに続けた。
「
「そんなこと、私はちっとも気にしな」
「私が気にするのですっ!」
「わかったわかった!君の言うとおりにする!」
毛を逆立てた子猫か!
これ以上怒らせない方がいいので、鍵を閉めるため、『休憩中』の紙を貼るためにシャロンは店内へ戻っていった。
(2)
遡ること数時間前。
歓楽街とウエスト地区の境界、ウエスト・エンド。
上流階級や
サウス地区ゴールディの客層は若い女性中心だが、ここウエスト・エンドの客層に男女年齢の区別はなし。
供を従えてゆったりと往来を行く紳士淑女の間を、忙しなくグレッチェンはすり抜けていく。
貴族ではなく彼らの使用人と変わらない地味な(人によってはみすぼらしく見えるかもしれない)
歩道脇に停車中の箱馬車が列をなしている。それらを横目に白シャツのポケットから書きつけの紙を取り出し、立ち止まる。
紙から離れた視線の行き先は鮮やかな朱塗り、金地の龍などの豪華な装飾を施した
牌楼を一歩潜ると、早口の異国語が飛び交い、肉と油と
昔、一度だけシャロンと食べに行った東方料理が身体に合わず、数日間腹痛に苦しんだせいだろうか。何度もこの場所に来ている筈なのに、未だにこの臭いに慣れずにいる。
一階部分は牌楼に似た豪華な装飾の小門、窓も含め全面硝子張りの外装、二階部分は窓がなく、赤や黄色の東方風屋根瓦の飲食店、店の間を埋めるように屋台が並ぶ。
刺激の強い料理臭に甘い匂いが混じる。点心か果物なら食べられるかもしれない。漢方薬の買い付けを終えたらなにか甘い物でも買って食べてみようか。
などと考えながら、小さな窓がひとつだけ、鮮やかな東方風屋根瓦と白煉瓦の壁という東西両方の特徴を取り入れた平屋へ足を向ける。
「おや、いらっしゃい」
「こんにちは」
開き戸をノッカーで叩くと、褪せた臙脂色の旗装服を着た老婆が出迎えてくれた。
室内の正面奥にはカウンター、左右の壁際に直接取り付けた棚、生薬入りの硝子瓶や壺が並び、どことなく薬屋マクレガーと様相が似ている――、が、こちらは漢方専門の薬屋。老婆自ら作った漢方薬を販売し、薬屋マクレガーでは
「今日は何を買い付けに来たんだい??」
「芍薬散と桂枝丸を各五〇包ずつお願いします」
「はいよ。そこで座って少し待ちな」
老婆は棚の横、壁際に二、三並ぶ籐の椅子に座るよう、東方訛りが強く残る発音で勧めてきた。
言葉に甘えて椅子の一つに腰を下ろす。薬屋マクレガーの店内よりも、独特の苦い匂いが店内に漂う。すでに老婆はカウンターの奥へ姿を消していた。
十五分ほど待ったのち、老婆は奥から戻ってきた。
「今日は天気がいいねぇ」
「えぇ、珍しく雲もかかっていないですし。日中は雨も降らないかもしれません」
「そうかい。じゃあ、ひさしぶりに少し散歩にでも出てみようかね。うちは昼間、ほぼ開店休業状態だし」
漢方薬の勘定を支払いながら、とりとめのない世間話は続く。
「よかったら、アンタも一緒に行かないかい??」
「私も、ですか??」
まだ仕事中なので、と断ろうとして逡巡する。
マクレガー家やハル達以外からの、滅多にない誘い。
見ず知らずの他人ではないし、仕事相手としてだが信頼に足る人物。
それに、こちらの店も夕方以降忙しくなる。そう長い時間散歩に出ないだろう。
「では、ご一緒させてください」
「はいよ、じゃ、行こかね」
薬の包みを
意外にも老婆は健脚で、杖もなし、グレッチェンとそう変わらない歩調でごつごつした石畳を歩く。ヨーク河堤防沿いの遊歩道を歩きたい、という要望に従い、ウエスト・エンドを抜ける。
ヨーク河の堤防へ近づくにつれ、風と空気が変わっていく。街中よりも幾分澄んでいて心地いい。眼下に広がる河には観光客を乗せた遊覧船が周遊している。
一方で、壊れた船やボートの影で水に浸かってドブさらいする人々もいた。
川底から使えそうな物を拾い上げて売るため汚泥を掬い上げる人々を横目に、どこからともなく一人の少女がふらふらと現れた。
「……え??」
たった今見たばかりの光景自体が信じがたいのに。
遠目からでも分かるほど痩せた小さな背中、無造作にくくったごわついた栗毛に既視感が湧く。
その頼りない身体が、吸い込まれるように河へと飛び込んだ。
思わず立ち止まって老婆の袖を引くと、怪訝そうに振り返られた。
「なんだい、急に……、びっくりするじゃないか」
「すみません、ちょっと薬を預かってもらえませんか?!」
「え、なんなんだい??」
説明したいのはやまやまだが――、とにかく居ても立ってもいられない!
「すみません!あとで事情は説明します!!」
「あぁ!ちょいとお待ちよ?!」
老婆の叫びを背に、グレッチェンは歩道を飛び出し、転がるように堤防を駆け下りていく。
ドブさらいの人々は絶対に身投げを止めたりしない。
水死体からは売れそうな物を探し出せるし、遺体発見により警察から謝礼が貰えるから。
ビアンカが飛び込んだのは比較的浅瀬で、グレッチェンでも余裕で足が届いた。
ここでようやく自分が泳げないことを思い出すも、流れもゆるやかなのでたぶん流されたりはしない、筈。
「ビアンカさん!」
この辺りか、と踏んだ場所まで進むと水面にぼんやりと浮かぶ人影。
流れに抵抗するどころか、任せるまま一切抵抗しないビアンカの腕を掴み取る。その瞬間、ビアンカは弾かれたように覚醒し、暴れ――、暴れださなかった。
「……また、あんた、なの」
無言で頷くグレッチェンに、ビアンカは水から立ち上がり、生気のない、死んだ魚の目で視線をよこす。
「あたし、のことなんて、ほっといて」
「本気で死にたがってないのに??本気で死ぬ気なら、
「…………」
「死にたいのではなく、助けを乞うてたのですよね??」
何言って……、と、無気力なビアンカの目に一瞬反発が生まれ、すぐに消えていく。
代わりに、顔を覆ってグレッチェンから背を向けてしまった。
しかし、『もうやだ、たすけて』と、消え入りそうなつぶやきはグレッチェンの耳に確かに届いていた。
※今回出てきた漢方薬の名前は実在の物と一部変えてます
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