第93話 Foxy Blue(11)
ファインズ男爵と二人きりの車内は息が詰まる。
道中の時間つぶしで他愛ない会話もできなければ、煙草の一本すら吸えないし、窓枠に肘をついたりなど姿勢を崩すこともままならない。
車窓を流れる景色は行きも帰りもほとんど変わらない。しいて変化を挙げるなら、日がほんの少しだけ翳りだしたことくらいか。
活気溢れる下町イースト地区、昼間は飲食店が賑わい、夜は歓楽街として華やぐセントラル地区ならいざ知らず、上流階級のみが住まうサウス地区は閑静な高級住宅地。
どこかしらの屋敷で貴婦人方がお茶会やサロンを開けど、イースト地区やセントラル地区の喧騒の比ではない。
変わらないと言えば、馬車の中、ディヴィッドと向かい合うファインズ男爵の無表情もそう。変わる変わらないを通り越し、鉄壁と呼ぶにふさわしい。
彼の末娘でも同乗してくれればまだよかったのに。子供の扱い、もとい、貴族の幼い令嬢の拙いおしゃべりの相手も大概疲れるが、葬式じみた重苦しい沈黙と緊張を強いられるよりは数段マシだろう。
だが、今回のバチェラー邸訪問はお忍びのようなもの。その証拠に、馬車にファインズ家の紋章の旗を掲げていない。
男爵がお忍びで外出する際、護衛としてディヴィッドが駆り出される時がままある。ファインズ男爵とバチェラー氏が会話する部屋の扉前で待機していたので、内容は一言一句すべて把握していた。
「サリンジャーJr.お前はあれをどう見る」
「ありゃ、クソでしょお。てめぇの利益最優先、従業員なんざ家畜かなんかとでも考えてそうですわー。お嬢さん達がダドリー様に直談判しに来たのも頷けますねぇー」
やっと口を開いたかと思いきや。
ディヴィッドの見解を訊くだけ訊いておいて、ダドリーから続きの言葉は、ない。
なんか言えよ、と内心突っ込みつつ、ひと月ほど前の出来事を思い出してみる。
バチェラー氏の工場の元従業員たちが、走行する馬車の前へ飛び出してきたことを。
激しい馬の嘶きと車体の揺れに狼藉者の出現か、と身構えれば、御者の怒鳴り声と複数人の声、非礼を詫びつつ何かを訴えてくる女性たちの声が重なり合った。
『男爵様ぁ、俺が様子見に外出ますんで。カタつくまで待機していただけますかねぇー??』
男爵の返事を待たずに馬車を降りる。
まだ興奮冷めやらぬ馬二頭と人一人分程度、わずかな距離を開けた正面に女性たち、まだ少女といっていい年頃の娘たちが立ち塞いでいた。
御者があと少し手綱を引くのが遅ければ――、考えるだに気分が悪くなる。
少女たちも馬車に轢かれる危険性だけでなく、領主に対する無礼な働きへの罰を恐れてか、ひどく硬い顔つきで身を寄せ合っていた。
さて、どう問い詰めようか。
逡巡しかけたところ、ディヴィッドより先に御者が少女たちを頭ごなしに怒鳴り始めた。更にはつかつかと近づき、居並ぶ中の一人の肩を乱暴に揺さぶった。
まぁ、気持ちはわからなくもない。わからなくもないが、ただ闇雲に怒鳴りつけるのは阿呆でもできるし正直邪魔だ。
『わりぃけど、あんた、引っ込んでてくんないかなぁー??俺がこのお嬢ちゃんたちに色々訊くからさぁ』
案の定、御者は諸に不服げに表情を歪めた。予想通りの反応過ぎて怒りも呆れもしない。
『男爵様に頼まれたんだよ。事情を訊いてこいってよぉー』
男爵様と聞いた途端、御者は渋々ながら引き下がってくれた。嘘も方便とはよく言ったもの。本当は男爵からは一言も頼まれていないのに。
ディヴィッドが一歩、また一歩と近づくごとに、少女たちは警戒心も露わに身を寄せ合う。
『あのさぁ、別にお嬢ちゃんたちを取って食うつもりなんてないからさーあ??なんでこんな暴挙に出たのか、ちょっーとばかり教えてくんなーい??ねー??』
警戒を解こうと、いつにも増して笑顔を深めてやったのに(実際はへらへら感が増しただけだが)、少女たちの硬い表情に変化は見られない。おまけに気味悪そうに視線を送りつけてくるときた。
めんどくせぇなぁ。
胸中で悪態を吐いた後、真ん中でほかの娘をかばうように腕を拡げた少女の手指が緑に染まっていることに気づく。おやぁ?と思い、他の娘たちにもさりげなく視線を走らせる。
腕を拡げた少女も含め全員の手指は緑に染まり、皮膚の一部が抉れていた。
中には顔の皮膚まで抉れている者もいて、鼻が捥げたのかと錯覚しかける程酷い有り様の者もいる。
砒素グリーンの薬害か。
二十歳に満たないであろう少女たちの惨状にディヴィッドも真顔になりかけ――、すぐに締まりのない笑顔を浮かべる。
『お嬢ちゃんたちさぁ、ひょっとして、ひょっとしなくても……、バチェラーの縫製工場で働いてたりするー??』
ディヴィッドの問いに、ある者は肩を大きく跳ねさせ、またある者はぎょっと目を剥き、真ん中の少女の拡げた腕はするすると自然に降りていく。言葉になどしなくても彼女たちの反応が物語っていた。
足元を塗り固められたかのように、その場から動かない少女たちとの距離を一気に詰める。
『ほら、話してごらーん??話したからって男爵様はお嬢ちゃんたちを咎めたりしないしないぜぇ??』
たぶんなぁ、という補足は心中に留めておく。
『お、おじさん……』
『うん、なぁにー??』
誰がおじさんだよ、という文句は飲み込む。
『わたしたち、おじさんじゃなくて、男爵様、と、お話したいんだけど……!』
『はぁ??』
思った以上に険のある声が出てしまった。
顔はへらへらしたままな分、少女たちは再び怯えて口を噤む。
『あのさぁ、お嬢ちゃんたち。男爵様はそうそう簡単に君らの前には引っ張り出せないぜぇ??だから代わりに俺が出てきたんだけどー』
『だって』
だって、って、なんだよ。いい加減話せよ。賊とかなら遠慮なく締め上げて吐かせるのに。
募る苛立ちで少女たちの目線に合わせて落とした膝が地味にくる。
その目線の端で一番年齢が低そうな――、やっと二桁の年齢に達した感じの少女がやたらと、緑に染まった少し短い手指をもじもじさせては、ディヴィッドをちらちら盗み見ていた。
『んー、そっちのちっちゃいお嬢ちゃんさぁー、俺になんか言いたいことあるでしょー??』
『ちょっとマリー!』
『あのね、おじさん』
だからおじさん言うなぁ!
『アタイたち、男爵さまに
幼い少女の発言はディヴィッドの予想の範疇だった。
真ん中の少女は観念した様子で後ろを振り返り、別の少女が慌てて差し出してきた署名用紙をディヴィッドに手渡してきた。
薄くて破れそうな紙には拙い文字と少ない語彙で書かれた訴訟内容に、三十名近くの署名。署名に記された名はすべて女性ばかり。
『……お嬢ちゃんたちさぁ、こういう訴えはなぁー、男爵様じゃなくて裁判所に持ってきなぁー??』
『裁判所なんか行ったって、バチェラーのジジィが勝つに決まってるじゃない……!』
ディヴィッドの言葉を遮るように、真ん中の少女が悲痛に叫ぶ。
彼女の言う通り、公的な機関で訴訟を起こしたとてバチェラーが勝訴する確率の方がはるかに高い。この国で過去発生した雇用問題絡みの裁判の判決も、大半雇用者側の勝訴で終わっている。
だからこそ一縷の望みを賭け、罰せられる覚悟を決め、少女たちはファインズ男爵を頼ったのだ。
『でもなぁ、男爵様がこれを拝見したってあんたらの味方してくれるとは限らないぜぇ??』
『わかってる……!』
『必ず、間違いなく男爵様に渡しておくけどもー、望みが叶うかどうかはあんまり期待しないようにねぇ』
釘だけはしっかり刺し、ディヴィッドは馬車へ戻り、訴状をファインズ男爵に手渡した。男爵はその場で目を通すと、静かに座席から腰を上げる。
マジか、と内心驚くデイヴィッドをよそに男爵は馬車から降り、あろうことか少女たちの元へ自ら歩み寄っていく。
慌てて後に続けば、男爵を前にした少女たちは卒倒寸前。車道のど真ん中で這いつくばるように平伏した。気の毒なほど全身をガタガタ震わせている者がほとんどだ。
『訴状は確かに受け取った。非礼は受け流そう。すぐに去れ』
それだけ告げると、ファインズ男爵は呆然とする少女たちに背を向け、ディヴィッドを伴って車内へ戻っていった。
その後の男爵の動きは速かった。
ディヴィッド及びサリンジャー一家にバチェラーの身辺を探らせる。
薬害被害者を粗方割り出し、バチェラー邸へ押し掛けるよう焚きつける。
毎日のように被害を訴えさせ、世間からの非難を浴びるよう仕向ける。
そして、ファインズ男爵自身の訪問で最後通告を突きつける。
バチェラー氏がこの街の発展に大いに貢献したのは確かな事実ではある――、が、必要以上の犠牲を払ってきてもいる。更に薬害犠牲者が増え続けるようでは見過ごす訳にはいかない。
――以上がファインズ男爵の見解、だろうと、ディヴィッドは考えている。
考えてはいるが、心身ともに氷のような彼の肚の内など、誰一人計り知れないけれど。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます