第92話 Foxy Blue(10)



 ――事件前日の昼下がり――




 大勢の甲高い叫び声は、上階のアーチ窓の硝子をも震わせた。

 屋敷の鉄門に掴まり、揺さぶり、叫び散らす若い娘たちの手は緑に染まり、爪は剥がれ、皮膚が抉れている。中には手だけでなく顔や唇まで抉れていたり、髪が抜け落ちてしまった娘の姿も見かけた。


「出てきなよバチェラー!!」

「あんたのせいでまともな身体じゃなくなった!!」

「健康を返せ!それができなきゃ賠償金払え!!」


 屋敷を囲む高い石塀や鉄門を越えようとする者はさすがにいない。だが、念の為に門と塀の内には腕に覚えのある使用人を配置している。

 しかし、こいつらはいつまで騒ぎ立てるつもりか。最悪、今日も警察を呼び立てて追い払うしかない。これまでだって何人も逮捕されているのに、こいつらはなぜ懲りない。諦めない。


「忌々しい……!」


 アーチ窓から階下を見下ろし、バチェラーは憎々し気に、己にのみ聞こえる小声で吐き捨てた。

 高貴な客人と恐れ多くも歓談中だというのに!空気の読めない連中が!!

 否、もしかすると高貴な客人へ遠回しに訴えるつもりで……??まさか、家畜を少々上回る程度の頭しかない連中にそのような能があるものか!

 階下の騒ぎから目を逸らし、背後のテーブルセットに座す高貴な客人の様子を窺う。


 高貴な客人はひとり悠然と、静かに紅茶を飲んでいた。

 ほんの一瞬ばかり、人ではなく置き物でも見るかのような一瞥に心臓が凍る思いがした。彫像のごとく完璧な美貌、冴え凍るコバルトブルーの双眸が更に冷然さを引き立たせる。

 この御方の眉の動き、目線など些細な動きひとつとっても油断してはならない。


「途中で席を立ち、申し訳ありませんでした」


 自席に戻り、声の震えを抑えて謝罪を述べるが、高貴な客人は相変わらず眉ひとつ動かさない。


「構わぬ。それよりも……、貴方の屋敷は常日頃このような状態か??」

「えぇ、程度の差はあれど、ここしばらくは毎日若い娘たちが押しかけてくるのです。まったく、労働という義務を途中で放棄した分際で権利は一丁前に主張する。いらぬ知恵ばかり身につけて」


 我が工場では鮮やかなエメラルドグリーンの衣類、別の工場では造花が主要製品だ。

 法で定められた規定量より、、砒素グリーンを多く使用しているが、それはより鮮やかなグリーンを引き出す為、他の工場と差をつける為、ひいては売り上げを伸ばす為。

 労働者どもの健康被害??そんなもの知ったことじゃない。

 連中は考えなしに子供を作る。二十日鼠並みにな。加えてこの街は他の街からの移住者や他国の移民も多い。他より給金をやや高めに設定すれば、我先にと職を求めて集まり、従業員の成り手など吐いて捨てるほど存在する。

 路頭に迷うのを未然に防いでやってるのだから、むしろ感謝してもらいたいくらいだ。


 私は、この街の発展の担い手の一人である。なのに――


 ダドリー・R・ファインズ男爵。

 この街を治める領主の突然の訪問が意味するところは一体??


 机上で重ねた掌が自らの汗で湿っていく。

 顔には汗を掻きたくない。目敏いファインズ男爵に動揺を悟られたくない。


 動揺??何に対する??

 別にやましいことなど何もしていない。何一つとして。

 砒素グリーンの件とて元を正せば、ファインズ男爵夫人がエメラルドグリーンのドレスを好んで着用したことが発端であり、強くは出られない、筈。


「なるほど。元従業員達から集団訴訟起こされているというのも頷ける」


 ファインズ男爵の声音に明らかな侮蔑が混ざる。

 次いで、頬杖をつきながらの冷笑にバチェラーは心臓どころか全身が凍りつく。

 貴族にあるまじき不作法さえ絵になるこの男の正体は、人間ではなくジャック・フロスト冬の悪魔の化身なのでは??


「バチェラー。私がわざわざ出向いた理由だが」

「はい」

「砒素グリーンを使用した衣類及び造花の生産中止要請をしに来た」


 一瞬、何を言われたのか理解できずにいた。


「我が妻デメトリアは長年、貴方の工場で染色したエメラルド……、いや、砒素グリーンの生地でドレスを仕立てていた」

「え、えぇ」

「だが、妻に頭痛や肩の皮膚疾患等、砒素の影響と思われる身体症状が出始めた。医者に、最新医学の知識を持つ確かな者に診せたのでまず砒素の影響に間違いない、とのこと」


 本当に砒素のせいなのか、と問うより先に、ファインズ男爵に先回りされた。


「し、しかし、我が工場はエメラルドグリーンの衣類生産がメインで……」

「だが、妻は砒素グリーンの悪影響より美しい緑が纏えなくなる方が辛いらしい。愚かなことだ。だったら手に入れ辛い状況を作り、他の物に目移りさせればいい。エメラルドグリーンに変わる、別の鮮やかな色の製品を作ってもらいたい。砒素グリーンのような毒物ではない、できるだけ人体に安全な薬剤で」


 人体に害なく、など無茶な話だ。

 鮮やかな色は劇薬や毒物から作り出される。例えば、赤はアニリン、モーヴは白砒素を使用するのだから。


「必要に応じ、色の研究開発への出資してもいい」


 出資という言葉に抗いがたい魅力を感じる。

 浮き上がりそうな腰は抑えたが、表情に滲み出ていたらしい。

 ファインズ男爵が再び冷笑を浮かべた。


「ただし、一つ条件がある」

「条件、とは……??」

「元従業員達の賠償金支払いを済ませろ。問題を抱えた企業に多額の出資する訳にはいかない」

「そんな……!」

「私は何も無茶など言っていないと思うが??バレエ団の踊り子に貢ぐだけの金はあるだから、出来ない筈はないだろう??」

「な、何の話でしょうか……」

「そう言えば、とあるバレエ団のプリンシパルとのが原因で夫人から離婚を申し立てられているとか」


 痛烈な皮肉と共に、ファインズ男爵の冷笑が益々深まった。

 不快を催す筈の表情を浮かべる程、四十を越えても尚衰えぬ凄惨な美貌に磨きがかかっていく。その美貌のせいで、バチェラーは神にでも詰問されたかの気分に陥り、間の抜けた言葉を返すので精いっぱいだった。最も、下手に弁解したとて論破されていたかもしれないが。


「女を敵に回すと身の破滅を呼ぶことを知らないとは……、随分と愚かな。まぁいい。私的な問題はともかく集団訴訟だけは私が言う通りに解決しろ。話は以上だ」


 音もなく立ち上がったファインズ男爵の顔がまともに見れない。

 帰り支度を始めた気配を感じているのに、席を立つこともできない。

 辛うじて執事を呼び出し、裏口へ馬車を手配するよう命じることができただけでも良しとしてもらいたい。

 ファインズ男爵も彼の非礼を一向に気に留めてないのも幸いだった。





「おのれ……、どいつもこいつも……!」


 集団訴訟はともかくルシル・フォックスとの関係を、なぜ、あの御方が知っている?!妻が家の恥だと極秘を条件に裁判を起こし、使用人達にも多額の口止め料を支払ったのに!


 ルシル・フォックス――、あの小娘が大火傷を負ってからというもの、私の運まで尽きてしまった。

 妻に関係が知られたのだって、あの小娘の妹とかいう子供が金の無心をしてきたせいだ。当然追い払ったが絶対にあの小娘の指示に違いない。二目と見られぬ姿の癖に図々しさだけは健在とは……、これだから下賤の生き汚さときたら!

 天使のごとき愛くるしさがあってこそ、図々しさも生き汚さも許せるし気になっただけというのに、思い違いも甚だしい。

 飽きたら最後、いつでも捨てるつもりの玩具でしかないのに。


 あの小娘のせいで新しい玩具を探すことすら難しく、バチェラーの苛立ちを一層搔き立てていた。一人残された広い部屋で、手つかずの紅茶を横に頭を抱え込む。





「……いっそのこと、始末してしまうか」



 長いことむしゃくしゃと頭を抱え、机上に伏していたバチェラーの昏い目に歪な光が灯る。

 二度と関わることがなくとも、ここ数か月、あの小娘の影に少なからず脅かされていた。妹分とかいう子供がまた来ないとも限らないし。


 どうせあの小娘は長くない。

 早く死なせた方が却って幸せかもしれない。

 あの子供だって早く自由になりたいだろう。


 これはあの小娘への最後のお情けだ。

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