第91話 Foxy Blue(9)

(1)


 ビアンカの周りにまともな大人なんていなかった。

 父親は仕事に出ている時以外ずっと酒浸り。父と喧嘩が絶えない母親は八つ当たりを兼ねた折檻を子供達に働いていた。外に出たら出たで近所の大人達に無償で仕事を手伝わされる。

 物心ついた時から楽しいことなんてほとんどなかった。

 ただ、時々遊んでくれるルシルとの時間だけは楽しかった。


 ルシルは綺麗なだけじゃなくて賢かった。

 大人に余計な用事を頼まれる度、美しい青い瞳を潤ませて『ごめんなさい。こんな重たい物、わたしの力じゃとても持てないわ……。落として壊したりしたら大変!』『繕い物は私より〇〇が得意よ。あの子に任せた方がよっぽど早く終わるわ』『今ビアンカの面倒見てて忙しいから手が離せないの!』などと上手に回避していた。

 一部の女の子には嫌われていたものの、美しさの他に愛想と要領の良さも手伝い、ルシルは老若男女問わず可愛がられていた。器量は無理でも愛想と要領の良さだけは見習わなきゃ、などと己に誓ったものだ。


 ロクでもない癖に説教垂れたり不当に叱責してくる大人達よりルシルの方がまともだった。えらそうに吠えたり能書き垂れる奴ほど残念な輩だけど、ルシルがビアンカを怒ったことなど一度だってない。別に怒られることなどしてないし、ビアンカを理解しているから叱る必要なかったのだと思う。


 怒られるのは大嫌い。

 怒ってくる奴の方がビアンカよりよっぽど問題抱えてるし、人を怒るより先にまずはお前のダメな部分直せよって反発したくなる。人を正したいなら、まずはお前が正しくあれよ。





 大人達グレッチェン達が去った後、床に放ったシーツを頭から被り、ビアンカは床へ座り込む。

 カンテラの灯りを消し、暗闇に支配された室内にシーツの白が浮き立っている。


 グレッチェンに突きつけられた冷たい説教の数々は氷の刃となり、ビアンカの胸を深く貫いていた。

 説教されて腹が立つのには変わりない。けれど、いつもなら床に転がってふて寝を決めて忘れようとするのに、突きつけられた言葉を何度も反芻し、思考の渦に飲まれていく。


 グレッチェンが盗みを見逃してくれたから??

 違う。幸運ラッキーと喜びつつ、お人好しが何言っちゃってんのと、内心馬鹿にして終わりだ。

 見るからに人だから??

 違う。それだけなら、絶対自分達みたいな苦労を味わったことない癖に、何が分かると反発心しか湧かない。


「ホント、なんでなんだろ……、ね、おねえちゃん」


 頭だけシーツを外し、ルシルに向き直る。

 他の者と違ってビアンカは異様な臭気や蛆に怖気づいたりしない。間近で食事を摂ることだってある。


『わたしよりキレイで踊りができる娘はたくさんいたし、身分が上の子もいたわ。でも変な自尊心や意地にこだわったりとか要領悪いんだもの。あと、踊りを方法も知らないの。バカよねぇ』


 真面目に正しく生きたって損しか返ってこない。

 要領よく立ち回れば大抵のことは思い通りに人生は進んでいく――


「……筈じゃなかったの??ルーシーおねえちゃん……」


 愛想笑いを振りまくかつてのルシルの姿に続き、淡々とカウンターで薬を用意するグレッチェンの姿が眼裏に浮かぶ。

 よくよく見れば美人だが、どことなく冷たいし暗い。正しい人かもしれないが、退屈でつまらない人生送っていそう。

 そんな人に――、などと、必死にグレッチェンを否定しようにも否定しきれないでいる。


 ルシル以外の大人の言葉が響くなんて、自分はどうしてしまったのか。


「……うん、今日はもう寝よっかな」


 混乱した頭で考えたって時間が無駄に過ぎるだけ。

 とりあえず盗み以外で稼ぐ方法を見つけなきゃ。

 でも、今日は疲れたから寝よう。


 ビアンカは考えることを諦め、床に寝転がる。

 むずかしいことを考えるのは得意じゃない分、睡魔はいともあっさりやってきた。

 睡魔の誘惑は成功し、ビアンカの眠りはいつになく深まっていく。


 だから、部屋に侵入者が――、一人ではなく複数人が押し入ってきたのに全く気づけなかった。


 ビアンカが目を覚ました時には、信じ難い光景が眼前に拡がっていた。






(2)


 ぼそぼそと、かすかに低い話し声が耳を撫でる。

 寝惚けたまま薄く目を開ければ、闇の中、複数人分の脚が確認できた。

 いずれの脚も革靴を履いている。ビアンカ達のような労働者は滅多に履けない高級そうなのを。


 自分はまだ夢を見ているんだな。でなきゃ、貧乏長屋と一生関わりなさそうな人達が訪れたりしない。

 あぁ、昨夜はそんなことなかったっけ。今、自分を取り囲んでいる人たちと似たような彼らグレッチェン達が来たんだっけ。

 彼らも奇特な人達だと思ったが、今いる人たちも奇特だ。

 まぁ、昨夜の人達は理由があるから……、ん??

 今いる人達は、なんで、この部屋にいるの??



 疑念の次に湧き上がったのは恐怖だった。



 もしや、強盗の類?!

 ノース地区が近いので充分有り得る。

 でも、ノースのヤツらが高級そうな革靴を履くなんて、絶対有り得ない。

 こいつらは何者なの?!


 身体が激しく震えそうになるのを堪える。震えたりしたら、起きてることがバレてしまう。寝たふりを続けた方がまだ安全かもしれない。少なくともビアンカ自身は。


 問題はルシルだ。

 いざとなればビアンカはいつでも逃げ出すことができる。

 しかし、自力で動けないルシルは??

 まさかルシルを置いて、自分だけ逃げるつもりなのか――??

 全身に嫌な汗が大量に噴き上がる。

 どうしよう、起きなきゃ。どうしよう、どうしよう……!


 ビアンカが逡巡する間にも、コツコツコツ、コツコツコツ……と、複数の足音が彼女の周りを歩き回る。ビアンカの逃亡を警戒するかのように。


「目を覚ましてるなら起きろ」

「ひっ?!」


 遂には強引に腕を掴まれ、無理矢理引き起こされた。


「いや、いやっ!こ、ころさないで……。ルーシーおねえちゃんもあたしも……。おね、おねがいぃ……」

「それは無理なお願いだなぁ」


 両腕を拘束され、号泣しながらの命乞いは一笑に付された。

 なんで、どうして……、涙と鼻水で歪んだ視界に映るのは、ルシルが横たわるベッド。


「嬢ちゃんはともかく、ルシル・フォックスならもう死んでる」

「うそ……、うそっ!!」

「嘘だと思うんならもっと顔近づけて、もっとよぉーく見てみろ」

「やあぁぁっ!!」


 うわ、くせーな、という悪態を背中に、ルシルの腹部に顔を押しつけられる。

 薄汚れた寝間着には深紅の大きな染みの痕が拡がり、その中心には短剣が突き刺さっていた。

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