第90話 Foxy Blue(8)
炎が踊り子ごと純白のチュチュを燃え上がらせる。
劇場中に響き渡る悲鳴、逃げ惑うコールド・バレエや観客、我が身を焼きつくさんとする炎に包まれても、プリンシパルの彼女は一心不乱に躍り続けた。己の使命を全うせんと。
その姿はさながら炎の妖精のようだった。
(1)
ルシルを叱責した直後、シャロンは後悔した。
心身共に耐え難い苦痛を受け、日の光の下を歩けぬ身体となり、いつ消えるともしれない命の者が正気を保てる筈がない。
黄ばんだ包帯の間、蠢く蛆から目を逸らし、ルシルの足元へ視線を落とす。
軽い火傷痕が数箇所残る以外、ルシルの足首から爪先だけは元の形が保たれていた。
甲が高く、巻き爪で皮が分厚くなった爪先。小指側へ傾き、変形した親指。引き締まった細い足首。
足元だけ見たらもう一度踊れるのでは、と、期待したくなる。が、脚が無事なことで一層ルシルの置かれた状態が哀れで残酷に思えた。
「ねぇ、
木目が粗く形が歪なトレイに茶器を乗せて、ビアンカが部屋に戻ってきた。
「そうだね……」
『包帯と油紙の交換』『医師の手でしかるべき治療を受ける』こと以外、どう答えろというのか。グレッチェンとハルにも言ったように、ビアンカの暮らしぶりではどちらも難しいのは考えなくても分かること。
返答に窮するシャロンに別段苛立ちもせず、ビアンカは茶器を差し出してきた。
折角淹れてくれたのだし、温かいうちにいただく方がいいのだが、室内に籠った臭いや気分の重苦しさで手をつける気になれない。同じく茶器を差し出されたグレッチェンとハルも暗い顔で液面を見つめ、手をつけようとしない。
「それとも、小父さんも包帯の交換とか病院行かせろとかって言うの??」
「…………」
「やっぱりそうだよねぇ」
機嫌を傾けるかと思いきや、ビアンカはシャロン達が口をつけるよりはやく、ぐいっと茶を飲み干した。
「別に小父さんを責めてないよ。あたしだってホントはわかってる。金があればそれなりの医者に診せて大きい病院へ入れてもらえるけど……、ううん、例え金があったとしても
重くなる一方の空気にそぐわない、まるで鼻歌でも歌うかのように明るくビアンカは続けた。その明るさは違和感ばかりを醸し出し、空気の重たさに拍車をかける。
「最初はねぇ、おねえちゃんのパトロン?っていうの??おねえちゃんを可愛がってる金持ちおじさんが何人かいてさっ、誰かが助けてくれると思ってたけど……」
同情を引くために多少なりとも話を盛っている可能性は否めない。嘘を装ってグレッチェンを脅迫するくらいの娘だ。話す内容全てを鵜呑みにしない方がいい――、が。
貧しい労働階級出身の踊り子など、
壊れれば、またお気に入りを見つければいいだけの話。
おそらくビアンカは言わないだけでとっくに気づいている。ルシルに至っては嫌という程思い知らされているだろう。
「誰も助けてくれないから、ルーシーおねえちゃんはあたしが守るんだ」
ルシルを見つめるビアンカの目には揺るぎない意志が宿っているようで――、今にも泣きそうでもあった。頭では真剣にそう思っているのに、心の奥底でわずかに抗う気持ちを無理矢理押し込めてるような――、不安定さが秘められている。
ビアンカ自身も追いつめられ、限界を迎えようとしているのに、ルシルを見捨てることは彼女の命を放棄することに繋がってしまう。
やるせない。
自分自身も薬害で苦しんでいるのに。
その上で誰かのために罪を犯す。
シャロン自身もかつて誰かを守るために罪を犯した。
だからビアンカの気持ちが痛い程理解できる。できるけれど。
「違う、そうじゃない」
「え、なに」
「違う、違うんだよ……、違う」
「おい、どうした??」
馬鹿の一つ覚えみたく違うと繰り返すシャロンに、ビアンカとハルが不審げに問うてくる。二人の視線にいたたまれなくなり、手の中の、温くなった紅茶を一気に煽る。
質の悪い紅茶の渋みが舌に残るが、胸中で湧き上がってくる苦さの方がはるかに勝っていた。
「確実に互いが不幸になる未来しかないのに、守るも何もあるものか……!」
ビアンカのルシルへの献身は一見すると美しいだろう。
だが、行き過ぎた献身や自己犠牲にも見え、ルシルはそれを当然の如くビアンカに求めている。
立ち上がり様吐き捨てたシャロンの言葉に怒り狂うかと思いきや、ビアンカはただ黙り込んでいた。
(2)
静かに嘆くシャロンとは反対に、彼とビアンカの会話が進むごとにグレッチェンの視線は冷ややかになっていく。二人に対してではない、ベッドに横たわるルシルに対して冷たい憤りを感じていた。
再起不能に陥る程の大火傷を負ったこと、周囲から見捨てられたことは本当に気の毒だと同情する。同情するが――、ビアンカの思慕に付け込み、彼女を心身共に追いつめ、罪まで犯させているなんて。
「ビアンカさん」
今まで一言も発しなかったせいだろう。一瞬誰に話しかけられたか分からず、ビアンカはシャロンとハルを見比べた後、グレッチェンを振り返った。
「ルシルさんは、貴女が仕事を辞めた後どうやってカレンデュラの軟膏のお金を工面していたか、ご存知なのですか??」
『知らない』と答えてほしかった。
しかし、ビアンカはこっくり、大きく頷いた。
「……知ってるのですね」
「だって、だってさ……。おねえちゃんの言う通り、
そこまで言ってビアンカはハッと我に返り、シャロンの顔色を窺う。
その態度にグレッチェンの視線は益々冷えていく。ビアンカは追いつめられた可哀想な子供だが、完全には同情できない、と。
健気ではあってもふてぶてしさや狡さも感じるし、今だって暗に『自分は悪くない』と開き直っている。この様子だと、薬屋での謝罪もその場しのぎだと疑いたくなってくる。
「……って思ってたけど、この小父さんやおねえさん達みたいな人もいるって分かったし、スリはやめ」
「そういうことじゃないのです……!」
普段は物静かなグレッチェンが語調を荒げたため、ビアンカだけでなくシャロンとハルも目を瞠った。
「貴女は、いえ、貴女達は……、罪を犯すことについての意識が余りに低く、軽すぎるのです」
「なっ……!」
「真の目的はお金の工面でしょうが、ルシルさんを見捨てた周囲への不信、貴女自身が抱える薬害の辛さを富裕者の物を盗んで発散させていたのでは??」
「ちが」
「本当に違うと言い切れますか??」
暗闇でもはっきり見て取れるほど、ビアンカの顔が徐々に赤らんでいく。
癇癪起こしたとしても言うべきことは言わなければならない。
「大小に拘わらず、罪を背負う覚悟が貴女達にありますか??」
グレッチェンの冴え冴えとした目線を受け、ビアンカの顔は急速に色を失くしていく。ビアンカだけじゃない。シャロンもハルも、彼女と似たような顔色でグレッチェンを見つめてくる。
ビアンカは癇癪を起こすどころか反論ひとつしてこない。
沈黙が如実に彼女の答えを示していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます