第89話 Foxy Blue(7)
(1)
イースト地区内の治安は場所ごとで極端に違ってくる。
ビアンカが暮らす
建物や樹々の影になりやすい横道ではなく、月や星明かりがよく当たる広い道を選んで通ってはみた。が、その分、道沿いに並ぶ建物の様子――、例えば、外壁の煉瓦にヒビが入っていたり、窓硝子が割れたまま放置されていたり、建付けが悪いのか扉が傾き、わずかに開いていたり。また、怒鳴り声や言い争う声、怯え混じりの赤ん坊の泣き声などが頻繁に漏れ聞こえてくる。
個人の家がそんな感じなのだ。当然、道も汚泥や排泄物で汚れている。
一度、鼠の死骸を踏みそうになり、思わず後ずさった。グレッチェンも悲鳴を飲み込んだみたいだった。
歓楽街でもない、夜の住宅群をうろついてる連中にろくな輩はいない。
安物のドライ・ジンやエールの瓶片手に通りを徘徊しているか、路地で隠れて阿片チンキを舐めて朦朧としているか――、幸い、ハルが歩きながら睨みを利かせているので誰もシャロン達に近づいてこなかった。(こういう時だけは優男な容姿に不甲斐なさを覚える)
こういった状況を目の当たりにし、改めて、ビアンカを一人で帰さなくて本当に良かったと心から思った。
『夜ももう遅いです。私達三人でビアンカさんを家に送り届けましょう』
何言ってんだ、と言いかけるハルを目線で制し、グレッチェンはシャロンとハルだけに聞こえるよう、話す。
『彼女を送り届ければ、お姉さんに会うことができます』
なるほど、と、口の中でつぶやく。
『おねえちゃん』から諸々の事情を聞き出せるかもしれない。
かくして三人でビアンカを家まで送ることになった。
ビアンカが泣き止み、落ち着きを取り戻すのを待ち、家に送り届ける旨を伝える。
拒まれるかと思われたが、意外にもビアンカはすんなりと首を縦に振ってくれたのだった。
家に上げてもらう口実はシャロンの経歴を利用した。
ビアンカの話から察するに『おねえちゃん』は何かの病を患っている。
もちろん、病状はちゃんと診るし、シャロンの知識や伝手で解決できそうならば助力は惜しまないつもりだ。
ビアンカ曰く『おねえちゃん』は実の姉ではなく、同じ長屋で彼女の部屋の上階に住んでいた『昔から可愛がってくれる、近所のおねえちゃん』だという。
「ルーシーおねえちゃんは細くてキレイで、身体も柔らかくて踊るのが上手だったんだぁ。バレエの踊り子になって、主役で踊るようになってからは稼いだ金を自分の家族に渡すだけじゃなくて、大人には内緒であたしら近所のガキんちょにお小遣いをくれてさ。あたしはお小遣いはどうでもよくておねえちゃんに会えるのが楽しみだったけど!でも……」
シャロンが今朝訪れた(質屋があった)長屋とよく似た作りの、こちらの方が煉瓦の退色や煤汚れが激しい――、長屋の一室の前に四人は立っていた。ツギハギだらけのボロ布がカーテン代わりの格子窓は一部、硝子にヒビが入っている。
背後に立つ三人をちらちら振り返りながら、ビアンカは鍵を開けた。すると――
部屋に入った瞬間、暗闇の中から腐敗臭が漂ってきた。
この臭いに覚えがある。医学部の実習で、一度この手の患者を目にしたことが。
しかも臭いがきつい。おそらく重度の症状を患っている。
「ただいまぁ」
ビアンカは扉近くのランプに火を点し、それを手に窓際へひとりさっさと行ってしまった。
暗くてよく見えないが、壁から壁へ渡した紐に吊るされた洗濯物を避け、ビアンカの傍へ三人は続く。
床にはシーツが数枚捨て置かれ、踏んづけそうになった。窓の傍には、使われていない石炭ストーブ、そして、ベッドが一台――
ベッドの上に『ルーシーおねえちゃん』はいた。
しかし、誰もが、グレッチェンやハルだけでなく、シャロンでさえ、その姿に言葉を失った。
唯ひとり、ビアンカだけは目を逸らすことなく、ごく普通に彼女に話しかけた。
(2)
「ルーシーおねえちゃん、いきなり知らないひと達うちに上げて、びっくりしたよね??でもね、このひと達、あたしを送ってくれただけだから安心して!」
ルーシーは足首から下以外の全身に黄ばんだぼろぼろの包帯を巻いていた。
僅かな隙間から見える肌は白に近い黄色で、よく見ると小さな蛆が湧き始めていた。
予想だにしていなかった惨状。グレッチェンは己の軽率な提案を呪うと共に、盗みを働く程ビアンカが追いつめられた気持ちがほんの少し分かった、気が、した。
「あ……、すみません」
無意識に後ずさっていたのだろう。背後にいたハルの足を踏んでしまった。
ハルは気にしてない、と、一、二度頭を振ると、ビアンカの背中に問う。
「『ルーシーおねえちゃん』の本名はルシル・フォックスだろ??この街で一番有名なバレエ団のプリンシパルで、二、三か月前に舞台で大火傷負ったっていう」
「そうだよ」
勢いよく振り返ったシャロンと反対に、ビアンカは振り向くことなく答えた。
「みんな、ひどいんだ。おねえちゃんは家族のため、近所のガキ達の笑顔のため、一生懸命働いてたのに……。大やけどでバレエ団辞めた途端、みんなして厄介もの扱い!だから、あたしがおねえちゃんの面倒見ようって。どうせ親はとっくにアルコールと阿片で死んじまってるし、地区の学校通ったって金にもならなきゃ役に立つこともないし。だったら働いておねえちゃんの薬代と二人分の家賃稼いだ方がてんでイイでしょ??それより
ビアンカはくるっと勢いよく振り返ると、グレッチェンとハルの間をずんずん通り抜け、一旦外へ出て行った。
「診るも何も……」
シャロンは目を伏せ、グレッチェンとハルに向かって小さく首を振った。
それはそうだ。ルシルがもう長くないのは一目瞭然。関節ももう動かせず、起き上がるのも無理かもしれない。
沈痛な面持ちでルシルに触れようとするシャロンの傍へ、グレッチェンはハルと近づいた。
「皮膚の状態が皮下組織まで破壊されている。充分な薬もなければ適切な処置もされてないし、清潔も保たれてない。せめて、同じ包帯を繰り返し使うことだけでもやめてほしいが……、金銭事情的に無理だろう……」
ぼそぼそと、低く嘆くシャロンに返す言葉が見つからない。
ルシルとビアンカへの同情もだが、自分達が焼き殺した父、姉、レズモンドの屋敷の使用人たちをふいに思い出してしまったのだ。
実際に彼らの死体を目にした訳ではないが、浅く細い呼吸で命を繋ぎ止めるルシルに彼ら彼女らが重なり、心を掻きむしられた。
「だから、ビアンカは砒素中毒になるまで縫製工場で働いてたんだろ。砒素を危険物と見做す法の裏で、縫製工場や造花の製造工場で使用する分には厳しく規制されていない。ビアンカは早い段階で仕事を止めたみたいだが」
「ハルさん気づいていたのですか」
「昨日は気づいてなかったが、今日は会ったと同時に気づいた。あの手じゃ仕事は続けられないし、他の仕事に就くのも……」
「シッ!聞こえないっ」
何が、と反発しかけてハルは口を噤む。
静まり返った室内に、ヒューヒューと風に似た音が――、ルシルの呼吸がやけに響く。よくよく耳を澄ますと、呼吸音に混じって肉声が途切れ途切れに混じっている。
その声が意味のある言葉なのか、単純に苦痛を漏らしているだけなのか。
「……君、自分が何を言ってるのか、分かってるのかね?!」
突然、シャロンが怒声に近い声を発した。
「シャロンさん。……彼女は、何と??」
「グレッチェン……」
一瞬の躊躇いののち、シャロンは感情を抑えた声で告げる。
「『カレンデュラので足を
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