カヤのおつかい

たびー

第1話 カヤのおつかい

 ごとんごとん、ごとんごとん……。


 電車に揺られながら、カヤはくちびるをへの字に曲げていた。さっきまで山の間を走っていた電車は、棚田を過ぎて今は平野へと入った。窓の向こうに広がる田んぼは、風にそよぐ稲が青く眩しい。

 カヤは膝のうえにのせた籐のバスケットの持ち手をぎゅっと握っている。汗で持ち手が湿っている。


 ――おにいちゃんの、ばか。なんでカゼなんてひくのよ。


 カヤはしかめっつらで電車のシートのはじっこに座っていた。

 山の駅から乗った一両きりの電車は乗客も少なく、カヤとは離れた座席の開けられた窓から入る風は六月の初夏の匂いを運んで来る。いきなり鳴った警笛に、カヤはびくりと体をふるわせて、慌てて麦わら帽子を片手で押さえた。どきどきする胸のうえに手を置いて、大きく息を吸って吐いた。


 ――よかった、耳もシッポもでてない。おまじないしなくても、だいじょうぶ。


 カヤはキツネに戻っていないことに、ほっとした。


 ごとんごとん、ごとんごとん。


 終着駅までの駅は十二、時間にして一時間と少し。ようやく三つの駅を過ぎた。のこり、ここのつ。次の駅までが、とても遠くのに感じられる。終点には永遠に着かないような気すらする。

 土曜日のお昼にはまだ早い時間。おしゃべりする人もなく、バスケットの中のジャムの小瓶がカチャカチャ鳴る音がかすかに聞こえる。


 ーーちっともへいきなんかじゃない。


 出かける前は、このみちゃんの前で「ひとりでもだいじょうぶ」なんて強がって見せたくせに。

 ひとりでおつかいなんて、ムリだったんだ。

 カヤは今朝のことを思い出していた。朝起きてすぐに、町までのお使いしてとお母さんから頼まれたのだ。


「えー! きょうは、このみちゃんとあそぶやくそくしてるのに!」

 このみちゃんは、カヤの家の一番近くに住む同い年のキツネの女の子だ。

 カヤはお母さんのエプロンを、くわえてひっぱった。まだ小さな体だけれど、背中の毛は立派なキツネ色だ。ふさふさのしっぽをふりまわして抗議する。

「お兄ちゃんが行くはずだったけど、熱がでちゃって。悪いけど、このみちゃんには今度また遊ぼうってお話ししてきて」

 お母さんは、人に姿を変えていた。昨夜作った瓶詰めジャムにラベルを貼っている。人のかっこうのほうが作業しやすい。それに急な来客があったりしても安心だ。ちゃぶ台で、ごはんを食べているお父さんも、同じく人の姿をしている。

 カヤのお兄さんは、昨日から元気がなかった。一緒に野いちごを摘みにいったときもぼんやりしていたし、ふだんはおかわりする夕ごはんも残して、早くに休んでしまった。

 だからカヤは寝るときにお祈りした。おにいちゃんが元気になりますように、おつかいをたのまれませんように。このみちゃんと遊べますように、と。

 いささか自分勝手なお願いは、かなわなかったようだ。

「お母さんも、いっしょにきて!」

「無理よ。お父さんが山に木を伐りに行ったら、家が留守になっちゃうでしょう。お兄ちゃんを一人だけにできないわ」

 お母さんは、出来上がった瓶入りの野いちごのジャムを、バスケットに入れた。

「町の駅で、サヤおばさんが待っているから、これを届けて。お店のジャムが品切れしちゃって、土日用にどうしても欲しいんだって」

 サヤおばさんは、お母さんの妹だ。町に住んで、小さな雑貨屋さんをしている。雑貨屋さんに並べてあるのは、カヤのお父さんが作った木のスプーンやお母さんとカヤたちが摘んだ野いちごでこさえたジャム、山男のガラス器、川に住む人魚たちが育てた真珠のピアス、雪女の特製アイスキャンディー。日用品からお菓子まで、山の恵みがたくさん売られている。

 サヤおばさんは、麦わら色のふわふわの長い髪をしていて真ん丸の眼鏡をかけている。トレードマークのエプロンドレスを服を着て、人に混じって暮らしている。にこにこしていて、いい匂いがして、カヤは大好きだ。おばさんなんて言うのが似合わないから、カヤはサヤちゃんと呼んでいる。

「届けてくれたら、ごちそうするってよ」

 お母さんが、ウインクして見せた。

「あした、お父さんがお迎えに行くから、サヤおばさんのところに泊まってきな」

 お父さんが、お茶を飲みながら言った。

「うん……」

 お泊まりできるのは、嬉しい。サヤおばさんは、きっと山では口にできないお菓子や料理を準備してくれるだろうし、お店が終わったら、どこか遊びに連れて行ってくれるかもしれない。

 町は嫌いじゃない。でもカヤは今まで一人で電車に乗ったことがないのだ。

「このみちゃんに、おはなししてきなさい」

「はあい」

 お母さんに言われて、カヤはしぶしぶと家を出た。


 しばらくしてカヤは走って戻ってきた。

「お母さん、お母さん! はやく人に化けさせて。いそがなきゃ、でんしゃにおくれちゃうよ!」

 着くなり、カヤはお母さんを急かせた。さっきまでの浮かない顔はどこへやらだ。

「そんなに慌てないの。どうしたの? きゅうに行く気満々ね」

「このみちゃんに、すごいねっていわれた。ひとりでまちに行くんだーってはなしたら」

 カヤは鼻高々だ。このみちゃんも、このみちゃんのお兄ちゃんのコン吉も、まだ一人で町まで行ったことがなかったのだ。

 電車の油の匂いや人の匂いは、ほんとは少し苦手だ。でも電車なんて乗っちゃえばすぐに町へ着く、いつもみんなで出かけるときみたいに。だから、大丈夫とカヤは思った。帰ってきたら、ひとり旅の話を聞かせるんだ。きっと、すごいってふたりとも目を丸くして聞いくれるだろう。

「おかあさん、きょうはあじさいをつかったんだね。あたしはなんの花にしようかな」

 お母さんのスカートは、アジサイの花びら模様のスカートをはいている。

「あやめがいいんじゃない? 一茎あれば、たりるから」

 カヤは家から飛び出して、近くの水辺から濃い紫色の大きなあやめを一茎口にくわえると、また走って戻った。

「はい!」

 カヤはあやめをお母さんに渡した。

 お母さんは受け取ったあやめの花の匂いをかぎ、茎の長さを後ろ足で立ったカヤと比べた。

「お父さん、手伝ってくださいな」

「よしきた!」

 お父さんは得意げな顔をして、立ち上がった。準備体操するみたいに肩を回して。

 カヤはわくわくした。人に化けるときにお父さんが、くるりと空中で一回転させてくれるのが大好きなのだ。

「じゃあ、カヤはお花をしっかり持っていてね」

 カヤは胸の前で花をささげ持った。

「山神さま、山神さま。お願いいたします、子ギツネのカヤを人の姿に」

 お母さんが両手を合わせて唱えると、はいっ、というかけ声を合図にカヤは後足で床をけった。

 くるん!

 お父さんがカヤの後ろ回りを補助する。高く飛び上がったカヤは、きれいに一回転した。

「じゃん」

 カヤは体操選手みたいに両手をあげて着地を決めた。

 あやめ色のチェックのワンピースを着た、十歳くらいの女の子になったカヤがあらわれた。

「かわいいワンピース!」

 袖はパフスリーブの半袖、スカートは膝より下まであって少し長め、胸の下から切り替わっていて、細かいギャザーがよっている。

 カヤが赤い靴をはいた片足でターンすると、スカートがふわりとふくらんだ。

「これなら、もしも尻尾が出ても隠せるからね。それから耳はこれで」

 と、お母さんは長い三つ編みにしたカヤの頭に麦わら帽子をのせた。

「よし、どこから見ても、かわいい人間の女の子だ」

 お父さんは腕組みしてうなずいた。

 言われてカヤは、はにかんだ。

「びっくりしないようにね」

 お母さんはカヤにバスケットを渡した。手に持つと、ふわんと甘ずっぱい香りがした。思わずバスケットにかけてあるハンカチをよけてみると、ルビーみたいにぴかぴか光るいちごが、小さな器に入って赤い水玉もようの蓋の瓶と並んでいた。

「あ、食べちゃだめよ。カヤにはすっぱすぎて、いつも耳がぴょんて出ちゃうじゃない。これはサヤおばさんのぶん。キツネの山でしか採れない、特別ないちごだからね。サヤの大好物なの。このまま届けてあげて」

 キツネの山のいちごは、真っ赤で小粒ですっぱくて、ほんのりとした甘さが舌先に残る。そして何より香りがいい。ジャムに向いている苺だ。

 カヤは、つばをゴクンと飲んで我慢した。もし術がとけたら、また始めからやり直しだ。そんなことをしていたら電車に遅れる。それでなくても、駅までは遠いのだ。

「サヤちゃん、そんなにいちごが好きなら、山に戻ってきて結婚すればいいのにな」

「あら、サヤがいるから町のお店で品物を売ってもらえるのよ。そのおかげで、森の住処を失くしても村はずれで暮らせるんだし。いちごが好きなのと、お店をやめて戻ってくるのは別の話だわ」

 お母さんのきっぱりした反論にお父さんはタジタジだ。

「ま、人間の婿さんをつかまえたいんだろ、昔話みたいに」

「それも別の話!」

 お母さんは、お父さんの背中を押して玄関へ向かわせた。

「行ってらっしゃい、カヤ。もしも術がとけてしまったら?」

「しんこきゅうして、せきをふたつ、こんこん!」

 カヤはお父さんと手をつないで、答えた。お母さんがうなずく。

「忘れちゃダメよ」


 カヤたちが住んでいる家は、村のはずれだ。前はもっと山奥に住んでいたとお父さんから聞いたことがある。カヤはお父さんと駅までの道のりを歩いた。

「にんげんのおよめさんになったキツネなんているの?」

 カヤはお父さんとお母さんのさっきのやり取りが気になって聞いてみた。

「むかーし、むかしにはあったみたいだけどなあ。古い言い伝えだよ」

 ふーん、とカヤは返事をした。サヤおばさんが人間と結婚することはないようだ。

 小さな集落をぬけて、緑の屋根の駅舎についた。

 切符を買って、電車に乗る前にお父さんが、電車の運転士さんにカヤのことをお願いしていた。終点まで乗るので、と。

 線路はカヤの乗る駅で終わっている。終着駅は始発駅だ。

「カヤ、終点までは駅は十二だ。今日は土曜日だから、子ども一人で乗っていても変に思われないだろ。町の駅で、サヤおばさんが待っていてくれるから大丈夫だ」

 ホームまで見送ってくれたお父さんと別れる時までは元気いっぱいだったはずなのに。


 カヤは二つある扉の先頭に近い方、すぐ左手の四人がけの座席におちついた。カヤひとりを乗せて出発した電車が、一つ目の駅に着いたとき、乗ってきたのはお父さんよりは年上に見えるおじさんだった。半袖のポロシャツのお腹のあたりがパンパンだ。

 車内のカヤを見て、細い目を少し大きくした。それからカヤを無遠慮に眺め回すと、反対側の長い座席の端に座った。

 ーーもしかして、こどもがひとりで電車に乗ってるの、ヘンだって思われた? 

 カヤは体が固くなっていった。肩にやたらと力が入る。

 二人になった乗客を乗せて、電車は二つ目の駅に着いた。プラットホームには、おばさんが二人立っていた。

 開いた扉から車内に入ってきたおばさんは、やはり座席のはしっこのカヤを見ると、あら……と小さく声をあげた。それからぎこちなく笑うカヤを、しげしげと見てからカヤと同じ側の真ん中へ二人で腰かけた。

 ーーどこかヘンなとこあるのかな?

 カヤは体のあちこちを、あわててさわった。耳も尻尾も出ていない。ほっぺたもヒゲは飛び出ていない。すべすべだ。それでも気になりすぎて、カヤは耳鳴りがするように感じた。

 三つ目の駅からは三人のお客さん。電車は少しずつ町に近づいているようだ。田んぼの他に数軒の集落も見えるようになってきた。

 だんまりした車内に、カヤは押し潰されそうだった。

 もしかして、小さすぎる子どもは一人で電車に乗ったらダメなんじゃない? でもお兄ちゃんは時々町までお使いに出かけている。それに、お父さんが運転士さんにカヤのことを話していた。だから、ダメなんてことはないはず。

 小さな頭で考えすぎて、カヤはクラクラしてきた。人の匂いも気になって窓を開けたくなったが、開けかたがわからなかった。

 匂い……あっ、とカヤは声を出しそうになった。

 もしかして、あたしキツネくさい? それでみんな近くにすわらないの?

 カヤはほっぺたや額がひんやりしてきた。キツネとバレたらどうしよう。次の駅で降りちゃう? でもそんなことしたら、もうおうちには帰れなくなる。お父さんお母さん、お兄ちゃんに会えなくなる。

 そう考えただけで、カヤは胸のあたりが、きゅうっと苦しくなって泣きそうになった。

 車内にアナウンスが響いて、次の駅の名前を知らせた。

 徐々に減速して電車が停まると、今までより、ずっとたくさんの人が乗ってきた。

 あれ?

 大きな鞄を肩にかけたカヤくらいの女の子がいた。一人のようだ。女の子は髪を頭の後ろにひとつにまとめて、おだんごにしている。

 ――誰も女の子をじろじろ見たりしない。一人で乗ってもいいんだ。

 カヤは思わずため息をついた。女の子は席に座らず立ったままで扉のそばの手すりにもたれると、手慣れたようすで耳にイヤフォンを入れた。

 女の子も周りを気にしているふうではない。カヤはなんだか安心した。そうこうしているうちに、次の駅からは降りる人もいたし、乗る人が多くなっていった。カヤのところの座席も四人分きっちり埋まった。

 カヤは車内のひとたちの服装や持ち物が珍しくて、思わずキョロキョロと見渡した。カヤのすぐそばには、半袖のセーラー服を着た女子学生が二人、吊革につかまっている。今日は土曜日だけれど、学校に行くのだろうか。隣に座るピンク色の長い髪のお兄さんは、ずっとガムをかんでいる。ヒョウ柄の服を着たおばさんの髪は紫色だ。子どもをだっこしたお母さん、大きな旅行鞄を持った男性もいる。

 線路沿いはいよいよ賑やかになり、高い建物も見えて来た。あと三つで終点だ。

 あと少し、あと少しとカヤはソワソワしていた。

 だから、次の駅で起こることに無防備でいたのだ。


     ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 次の駅で向かい側のドアが開くと、またたくさんの人が乗って来た。その中に眉間にしわを寄せ、肩をいからせている男性がいた。背が飛び抜けて高かったので、カヤの目にも自然と入ったのだ。白髪頭を短く刈りこみ、作業服を着ていて、初老といっていいくらいの歳だろう。

 男性は人混みのなか、すばやく首を巡らせて車内をひとわたり見終わると、やにわに声をはりあげた。

「そこのガキども、立て!」

 最初、カヤは何を言われたのか分からなかった。周囲がざわめくなか、カヤがぽかんと口を開けていると、隣に座ったピンクの髪の青年がめんどくさそうに顔を上げた。

「年寄りの席に、ずうずうしく座るな」

 老人が目の前に来た。するどい言葉は自分と青年に向けられたのだと、カヤは初めて気づいた。

 怒鳴られた青年は小さく舌打ちすると、スマホを上着のポケットに押し込んで立ちあがった。カヤはしかめっ面の青年を見あげて、おろおろした。

「おまえもだ、おまえもどけ!」

 怒鳴り声にカヤの体がビリビリとしびれた。

「あなた、そんな声出さないで」

 男性の妻の声だろうか。言動をいさめられても、男性はカヤをにらみつけたままだ。

 カヤはうつむいつて、ふるえる足を床につけた。座席左側のポールをなんとか掴んだが、もう怖くて顔があげられない。車内は小さくざわめいた。


 たたなきゃ。ここはダメだったんだ。座ってちゃ、ダメだったんだ。


 カヤがポールにつかまり、体をずらすようにして座席から降りるやいなや、男性が連れの女性を座らせて自身もどかりと腰をおろした。

 ピンク頭の青年が、人混みをかき分けて車両の反対側へ移動していくのが見えた。

 カヤもそうしたかった。しかし体の小さなカヤが、混雑する車内を進めるわけもない。さっきまで座っていた座席の仕切りのすぐ横に移るしかなかった。

 いきなり怒鳴られた怖さで、カヤの胸は激しく鼓動を打ち続けた。耳の奥で血がどくどくと流れる音が響く。


 泣いちゃダメ、泣いたら術がとけちゃう。


 カヤはバスケットを胸に抱きしめ、うつむいた。

 カヤの周りにいる人たちは、小声でささやきあっている。ひどいよね、ないよね、と男性を非難する声がカヤにも届いたが、なんのなぐさめにもならない。

 頭のところがゾワゾワする。かくした耳あらわれそうだ。

 駅はあとふたつ、あとふたつ。そしたら、サヤおばさんが待っているから。カヤは口を強くむすんで涙をこらえた。

「あなた、ごめんなさいね」

 頭の上から声がして、カヤはおもわず顔をあげた。

 仕切りの向こうから、グレーのショートヘアーの女性がカヤのほうへ顔をむけて頭をさげた。

 黒いサングラスをかけていているので、表情はよく分からなかったが、優しい声だった。

「わたし、目がよく見えなくて」

 白い杖を持ち上げてカヤに見せた。

「年寄りのための席に座っているやつのほうが悪い」

 隣の男性が腕組みをして、きっぱりと言い切った。

「そんなふうに言わないで」

「いいんだ、おまえは病人なんだし」

 半分怒ったように言う男性の横で、女性が眉を寄せて作り笑顔をした。カヤは声をかけられたことで、よけいに体をちぢこませた。

 カヤの回りは、重苦しい沈黙が続いた。ごとんごとんと電車の音が大きく聞こえた。

 迎えた次の駅では、降りる人より乗る人が多かった。カヤの気まずさなど関係なく、さらに人が詰め込まれドアがしまった。

「さっきから、匂いがするんだけど……」

 終点へ向けて列車が動いてほどなく、サングラスの女性が再び口を開いた。

 カヤは飛び上がりそうになった。気づけば窓はぜんぶ閉められたらしく、天上から涼しい風が吹いてきている。電車が密封されてキツネの匂いを嗅ぎ付けられたんだ。

 カヤの頬は冷たくなった。逃げることもできず、カヤはますますドアのほうへ体を押しつけた。

 女性が鼻をくんくんと動かす仕種に、周りの乗客たちもつられたように鼻をひくつかせて首をかしげる。

 カヤは、今にも飛び出そうな耳としっぽを押さえつけようと必死だ。

「いちご、かしら」

 女性の言葉に、カヤはハッとした。いまさら、かごのいちごが甘い香りを放っていることに気づいた。

 キツネの匂いじゃなかった。カヤは深呼吸して、小さく二度せきをした。

 こんこん。

 しっぽと耳がすっと引ける感触がした。安心したカヤは思いきって声をあげた。

「わ、わたしのいちごかも……!」

 カヤの応えに女性は微笑んで小さく手をたたいた。

「あたりね。わたし、鼻はよくきくのよ」

 女性はカヤに顔を向けて、サングラスを中指でくいっと押し上げた。カヤは、ほっと息をついた。そうすると、胸のドキドキもちぢこまった体も、元に戻るっていくように感じられた。

「これ、どうぞ。あらってあります」

 カヤはカゴからいちごを一粒取って、女性の顔のまえにさしだした。

「わあ、いい香りね。ほら、あなたいちごですって」

 女性はいちごを受け取ると、隣に座る夫へと渡した。仕切りのうえに突き出た男性の表情は、カヤからもよく見えた。どこか戸惑うようにして、いちごを摘まんでいる。

「食べてみて」

 男性は乗客の視線が気になるのか、なかなか食べなかった。

「食べて」

 再度の女性の声に促されていちごを口にした男性は、瞬間ぎゅっと目をとじ口をすぼめた。大きな肩がちぢまる。

「すっ……これ……」

 女性は男性の様子が分かったのだろう。くすくすと笑っている。

「むかしのいちごみたいね。酸味が強くて甘すぎないの」

「きのう、お母さんとお兄ちゃんとつんできたんです。それでお母さんがジャムにして」

 カヤはジャム瓶を取り上げて、高くあげた。

「まあ、すてきね。ジャムは誰かへの贈り物?」

 カヤは首を横にふった。

「おつかいなの。サヤちゃん……おばさんのお店でうるの」

 そうなの、と女性は何度もうなずいた。

「おみせ、お寺がたくさんあるとおりにあるの。なのはな屋」

「そのお店、知ってる。小穀町

ここくまち

のところにある雑貨屋さんでしょ?」

 カヤの側にいた、ポニーテールの女子高生が会話に加わった。

「山小屋みたいなお店で、ハンドメイドの小物とか並べてある、かわいいとこ!」

 女子高生の言葉が嬉しくて、カヤはこくこくとうなずいた。

「こんど、行ってみるね。ジャム、美味しそうだもん。ふっかふかのパンにたっぷりぬりたい」

 そういうと、白い歯を見せて笑った。

 車内にメロディーとアナウンスが流れた。終着駅へ間もなく到着しますと。

 電車はスピードを緩めて何本ものレールをまたぐ連絡通路をくぐり、駅舎からいちばん遠い端のホームへとすべりこんで行った。

 カヤもよく知っている駅だ。改札前にサヤおばさんがいるはずだ。

 もうみんな停車したホームへと視線を向けている。

 プシューと電車の扉が開くと、ホームは一気ににぎわい、階段まで人の帯ができあがった。

「じゃあね」

 女子高生の二人がカヤに手をふって電車を降りた。

 カヤはわれ先にと降車を急ぐ人たちに、小さいからだをもみくちゃにされた。

 最後、車両に残ったのはカヤと老夫婦だった。

 何とはなしに微妙な間があいたとき、運転室の小窓があいた。

「ひとりで乗ってこれたね」

 電車の運転士さんが、カヤに笑いかけた。

 そうだ、ひとりで町まで来られたのだ。急に嬉しさがこみ上げてきて、カヤは小さくこぶしを握ると、その場で足を踏み鳴らした。

「うるさい」

 男性が顔をしかめてカヤを注意した。

 カヤはあわてて動きを止め、しゃんと背中を伸ばした。

「ありがとうございます」

 運転士さんへお礼を言うと、かごから出した切符を握りしめて階段まで一気に駆けた。

 コンクリートの壁が湿った匂い、改札の横にある立ち食いそばの鰹出汁の匂い。もうすぐサヤおばさんに会える。カヤは急な階段を苦もなく、はずむようかけあがった。けれど中段あたりまで来て、最後におりた老夫婦が気になって振り返った。

 ホームのベンチに奥さんが座っているのが見えた。白い杖にすがるようにしてつかまり、背中を丸めている。

 思わずカヤはきびすを返して階段をおりた。

「だいじょうぶ?」

 背中をさする男性へカヤはたずねたが、舌打ちをされた。

「さっさと行け。ガキに何ができるってんだ」

 カヤは返答につまった。子どもにできることなんてない。ましてやカヤはキツネ。人間のことをよく知らないのだ。

「水かお茶が……」

 女性が苦しげにつぶやくと、男性はホームにある自動販売機へ駆けていった。

「ごめんなさいね、うちのお父さん口が悪くて」

 女性が少し顔をあげると、サングラスの隙間から、長いまつげと薄茶色の瞳が見えた。

 女性は藤の花が描かれたワンピースを着ていた。靴も藤色のサンダル。白い杖とグレーのショートヘアが映える。

「久しぶりに電車に乗ってちょっと疲れただけだから、だいじょうぶ。少し休めば歩けるわ」

 カヤはうなずいたけれど、なんだか胸の中がモヤモヤした。男性は数本のペットボトルを持って戻って来る。

 カヤは自分にできることが一つくらいないだろうかと考えた。そういえば、さっき渡したいちごは、旦那さんへゆずっていた。

「これ、口がすっきりするから」

 と、カヤはかごのいちごを取り出した。

「これ……」

 香りに気づいたのか、女性がわずかに体を起こした。カヤはいちごを手わたした。

「いちご、ね」

 女性はどこか戸惑うように、いちごをてのひらで転がした。

「おいしいよ?」

 カヤの声に後押しされたのだろうか。奥さんは、いちごを口元へ持っていった。

「おい、やめっ……!」

 背後で駆け寄る足音がして、カヤが振り向こうとしたとき、女性は意を決するように、いちごを口へほうり込んだ。

 女性が肩をきゅっとすくめる。

「あっ!」

 ぴょこん、と黄金色

きんいろ

の三角の耳が女性の髪から飛び出た。

「わああっ!」

 ペットボトルを投げ捨てた男性が、奥さんのキツネの耳を両手でかくした。

 額に玉の汗を浮かべ、顔を青くしている旦那さんとは対照的に、奥さんはじつに落ち着いたものだった。

「あらあら……」

 そうつぶやくと、口へこぶしをあてて、小さく二回せきをした。

「こんこん」

 ぽかんと口を開けたカヤの視界から、キツネの耳がすっと消えた。奥さんはいたずらっぽく、舌をちょっと出してみせた。

「あなた、もうだいじょうぶよ」

 旦那さんは、足から力が抜けたのか、ベンチの背もたれにつかまり、へなへなとホームへしゃがみこんだ。

「野いちご食べたら元気が出たわ」

 杖をついて、ゆっくりと女性が立ちあがった。ワンピースの藤の花が揺れて、藤棚の花房のように見えた。

「ありがとう、あなたのおかげで懐かしいふるさとを思い出したわ」

 カヤの麦わら帽子に手を乗せて、奥さんはほほえんだ。

「こんど、お店にも行くわね。こんなにおいしい食べ物が買えるなら、勇気百倍よ」

 カヤは何かが分かりかけて、うなずいた。

「わたしの病気だってきっとよくなるわ」

 ね、あなたと奥さんが振り向いて声をかけると、旦那さんは眉をよせ唇を真一文字に結んでうつむいた。

「さあ、もうお行きなさい。誰かお迎えを待たせているんでしょう?」

 言われてカヤは電車が到着してから、だいぶ時間が経っていることに気づいた。

「うん、ありがとう。バイバイ!」 

 カヤはあいさつもそこそこに、再び階段をかけあがっていった。あがりきってもう一度ホームを見下ろすと、二人は腕を組んで階段へ向かうところだった。

 カヤが改札へ顔をむけると、駅員さんのさんの向こうにサヤおばさんを見つけた。

「サヤちゃん!」

 カヤが名前を呼ぶと、サヤおばさんはほっとしたように指を組んでいた手をほどき、肩のあたりでふった。


 サヤちゃん、サヤちゃん!

 たくさんおはなし、したいことがあるんだよ。


 カヤは、はずむように通路をかけていった。



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