『未来から来た男、を自称する男』その10
マンションの地下駐車場は四方をコンクリートの壁で囲まれた空間で、俺は入口から最も離れた一角へと木谷を引き連れて進んで行った。
前後、左右、上下、全てが灰色の壁で閉ざされた空間を一歩一歩進みながら、俺はどうやって木谷を説き伏せようかと必死で思考を走らせ続けていた。
しかし、妙案が思いつくよりも先に、俺の足は地下駐車場の奥の角の隅の、もうどこにも行き場のない箇所にたどり着き、俺はそこで立ち止まった。
「ここなら」木谷が言った。「誰にも聞かれずに話せそうだね」
そのときの木谷は、表情にも声色にも、感情の昂りは一切感じられなかった。
「実はだな、その」俺は言った。「村西を殺したというのは、その、嘘だったんだ」
俺がそう告げても、木谷の態度は落ち着いたままだった。
「あの写真も、死体に見せかけたものでな」俺は話を続けた。「それで、その」
「なんで殺せなかったの?」
そう言って、
木谷はぐっと俺の方に身体を近づけた。
俺は思わず後ずさりをしようとしたが、俺のすぐ背後にあるコンクリートの壁がそれを阻んだ。
「な、なんでって」俺は言った。「だって、そりゃ」
「殺すチャンスがなかったわけじゃないよね?」木谷が言った。「インスタで送られてきた写真、あのひとがうつ伏せで倒れてたけど、あそこで刺せば殺せたんじゃないの?」
「いや、その」俺は言った。「それはそうなんだが」
「じゃあなんで?」木谷が言った。「なんで殺せなかったの?」
ねえ、なんで? なんで殺せなかったの?
殺せるチャンスがあったのに殺せなかったなんておかしいよね?
ねえ、なんで? なんでなの?
教えてよ、ねえ。黙ってないでさ。矢井田くん。どういうことなの? ねえ?
「――殺せるわけないだろ!」
俺は絶叫していた。
「罪のない人間を、そんな簡単に殺せるわけがないだろ!」
息を荒げる俺を、木谷は驚くほど静かな態度で見ていた。
「罪のない人間?」木谷は言った。「ちょっとしっかりしてよ、矢井田くん。あのひとはさぁ、わたしたちの邪魔をしてるんだから、それは悪いひとってことでしょ?」
「いや、違う」俺は言った。「違うんだよ、それは」
「違う? なにが違うの?」木谷が言った。「あのひとは悪いひとなんだから、それは殺してもいいってことでしょ?」
俺はもう耐えられなかった。
「違うんだ、木谷」俺は言った。「殺していい人なんて、いないんだよ」
俺は全てを木谷に打ち明けた。木谷が犯した最初の殺人以降、俺がずっと、間違った認識を木谷に刷り込み続けてきたことを。
「ほんとうにすまない」俺は言った。「俺のせいで、お前に罪を重ねさせてしまった」
俺の告解を、木谷は黙って聞き続けた。
どこかのタイミングで、木谷がぽつりと口を開いた。
「つまりこういうこと?」木谷が言った。「矢井田くんは、わたしのことをずっと“悪くない”って言ってたけど、それは嘘だったってこと?」
「ああ、そうだ」俺は言った。「全部、俺の責任だ。だから――」
だから、と言ったところで、
俺の言葉は途切れた。
何故かって?
木谷がそこで、俺にアイスピックを突き刺したからだ。
◆◇◆
「……!!」
俺は突如として体内を駆け抜けた激痛に、声にならない悲鳴をあげた。
刺されたのは、左の太腿。
痛みに耐えかねて、俺は膝をついた。
跪いた俺を、木谷は黙って見下ろしていた。
いつの間にか取り出していたアイスピックを、右手に握って。
「あのね、矢井田くん」
木谷は言った。
「わたしはね、子供の頃からずっと、悪いことはせず、正しい行いをすることを心がけてきたの」
木谷の声は、澄んでいて透明な響きだった。
「わかるかな? 矢井田くん。わたしはわたしの人生を、誇りに思ってるの。だってわたしの人生は、“正しいこと”だけで形作られているから」
俺は、なにか言わなければならないと思った。
思った、が、痛みに耐えるので精一杯でとても意味のある言葉を紡ぎ出せるような余裕はなかった。
「それなのに、矢井田くんは、わたしの過去にしてきた“正しいこと”を“本当は正しくなかった”って、そう言うんだね?」
「き、木谷」俺はどうにかして口を開いた。「俺は……」
その直後、木谷が俺の左腿の刺し傷に爪先を蹴り込んだ。
「やめてくれるかな? 矢井田くん」
俺は呻きながらアスファルトの地面を転げ回った。
「わたしの過去を、勝手に作り変えないで」
仰向けに倒れて身悶えしていた俺の胸骨を、木谷が片足で踏みつけた。
「訂正してよ、矢井田くん」
木谷が俺を踏みつけながら言った。
「わたしが過去にしてきたことは、全部正しいことだったって」
そのとき、俺は唐突にあることを思い出していた。
あの日、十二月七日に、あの男が言っていたことを。
“矢井田さん、あなたは十二月十二日の夜にフェニックスタワー田端というマンションの地下駐車場で死体となって発見されたということでした”
十二月十二日の夜――それは、今だ。
フェニックスタワー田端というマンションの地下駐車場――それは、此処だ。
「……訂正、してくれないんだね?」
木谷の右手がゆっくりと動く。
いや、本当にゆっくり動いているのかはわからない。
でも俺にはそのように見えた。
「じゃあ、しょうがないや」
アイスピックの先端がゆっくりと弧を描き、そして俺の喉元に向けられたところでピタリと停止した。
「バイバイ、矢井田くん」
◆◇◆
そして俺は、十二月十二日の夜にフェニックスタワー田端というマンションの地下駐車場で木谷に刺されて死んだ。
……。
…………。
………………。
ああ、そうだ。
そうは、ならなかった。
何故かって?
決まっているだろう。
あいつが来たからだ。
◆◇◆
「バイバイ、矢井田くん」
木谷がそう言ったのと、ほぼ同時くらいのタイミングだった。
木谷の背後から忍び寄ってきたそいつは、片手で木谷の右腕を掴み、逆の腕を木谷の首に背後から巻き付けて、瞬く間に木谷を絞め落とした。
失神し、ぐったりと脱力した木谷の身体をそっと地面に横たえると、そいつはゆっくりと俺の方に、その赤ん坊みたいな締まりのない顔を近づけてきた。
「お久しぶりです、矢井田さん。五日ぶり? ですかね」
そう。
あの玖島という男だった。
「駄目じゃないですか、矢井田さん。十二月十二日は田端近辺には決して近づかないようにと、あれほど言ったじゃないですか」
玖島はいかにも大げさな動きで“やれやれ”といったニュアンスのジェスチャーをとった。
「な……」俺は言った。「なんで、お前がここに」
「定期的な見回りです」玖島は言った。「結構いるんですよ。“この日、この場所で殺されていたので、同日に同所には行かないでください”と忠告したにも関わらず、それをやってしまう人がね。なんで、こうして定期的に現場を回っているんでしょ」
いやぁほんとギリギリのところで間に合ってよかったですよ、と言いながら玖島は携帯電話を取り出してどこかに発信をし始めた。
「とはいえ、怪我をさせてはしまったみたいですね。申し訳ない。今、救急車を呼びましょう」
玖島は言った。
「あと、警察の方にもわたしから通報しておきますね」
◆◇◆
……それからどうなったかって?
今さら言うまでもないだろう。
結局それがきっかけで、俺と木谷の関係は明るみに出た。
流石にもう、言い逃れはできなかった。
俺は全てを洗いざらい話したよ。
殺人幇助やら死体遺棄やら、そのへんの罪状を全て認めた。
で、今こうしてここに入ってるってわけだ。
木谷の方は、まだ裁判が終わってないらしい。
…………。
そうだな。
最終的には、あの玖島という男の言うとおりになったわけだ。
十二月十二日の夜、田端のマンションの地下駐車場で死体となって発見される。
本来だったら、俺はそういう運命を辿っていたのかもしれない。
でも、あの玖島という男のおかげでギリギリのところでそれを回避できた。
きっと、あの男は、本当に未来から来たのだと……
……あんたは、
そうだと思うか?
俺?
俺は……
実を言うと、別の可能性をひとつ疑っている。
ああ。
もし、あの男の言ってることが、実は全くのでまかせだったとしたら、どうだろう。
もちろん、それだとおかしい部分は色々と出てくる。
俺の死因にアイスピックを持ち出してきたこととか、俺が木谷に刺されそうになったところに都合よく現れたこととか。
そこで、俺はこう考えてみたんだよ。
あの玖島という男は、実は村西とグルだったんじゃないか、と。
だって、そうだろう?
そもそもの発端として、十二月六日に俺とあの男を引き合わせて二人で会話させるように状況をセッティングさせたのは村西だ。
そして、最初に木谷に疑惑を掛けたのも村西だった。
俺が思うにだな、村西はもっと前から木谷が怪しいということに気づいていたんじゃないだろうか。
で、調べていくうちにどこかで木谷と俺の繋がりに気づいた。
そこで、俺に揺さぶりを掛けて決定的な証拠を引き出すために、あの玖島という男を使って一芝居打たせた。
俺が死ぬ場所とされていたのは村西のマンションの地下駐車場だったし、俺が死ぬ日とされていた十二月十二日は俺と村西が二人揃って非番の日だった。
恐らく、村西には十二月十二日に自分のマンションに俺を連れてくる算段が幾つかあったんじゃないだろうか。
その中の一つに、俺はまんまと引っ掛かってあいつの部屋まで行った。
元の予定としては、俺はあいつをそこで殺すつもりだった。
結局は出来なかったが、俺がそうしようとしたところを現行犯で捕まえる腹だったのかもしれない。
で、部屋を出たあとも村西――か、あの玖島という男――は俺の動きを監視し続けていた。
俺と木谷が地下駐車場で言い合いになり、俺の犯行への関与が決定的なことを確認して、それから確保に来た。
こう考えても、実は辻褄が合うんじゃないかと思うんだよ。
…………。
ああ、そうだ。
この場合、ひとつだけ、疑問が残る。
あの玖島という男が、十二月六日の朝の時点で、
あの、現金輸送車襲撃事件の犯人の逃亡先を知っていたことだ。
あの事件……
そう。
あんたが、もうひとりのお仲間と起こした、あの事件だ。
この刑務所に入ってから、ずっとあんたに訊きたかったんだよ。
もし、あんたが、あの玖島という男か、あるいは村西となんらかの繋がりがあって、三芳町のパーキングエリアに立ち寄ることを伝えていたんじゃないかってな。
そうだとしたら、俺の考える説のほうが正しいってことになる。
なあ。
どうなんだ?
どうなんだ?
教えてくれよ。
頼むから。
――――――――――――――――――――――――――――――――
『未来から来た男、を自称する男』 了
過去作り変え師 オカダケイス @lyricalpops
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