『七ツ森』23
23
エイボン卿が呪術にその身を捧げる事を決めたのは一世紀前の事である。かつて、仲間であった魔術師たちに裏切られ、研鑽を積んだ己の魔術にも裏切られ、憎悪と絶望が頂点に達した時、魔力が反転し呪力と化した。めくるめく怒りの奔流に身を任せるのは邪悪な心地良さを伴い、魔術では決して及ばなかった仲間たちも、まるで紙切れを裂くが如く惨殺せしめた。実際のところ、仲間たちの所業は裏切ったというほどのものでもなかったかもしれない。今はもうよく思い出せないが、確かエイボンの出自をからかわれたのが始まりだった気がする。いや、それとも魔術の腕の未熟さだったか。とにかくコンプレックスを刺激された事は覚えている。周囲の者は皆立派な魔術師で、エイボンは言ってしまえば落ちこぼれだった。仲間の一人に、美しい女魔術師がいた。淡い思いを抱いていたのを覚えている。だがその女が最期に口にしたのは――「どうせこうなると思った」。女が、エイボンの顔を見て吐き捨てた。その瞬間、呪力が最高潮に燃え上がり、エイボンの両腕が怪物の如く伸びて、女の細首を一気に締め上げた。正気に戻った時、エイボンの周りには仲間たちの死体が転がっていた。光り輝く魔術の道ではとんと芽が出なかったが、怨嗟の木霊する呪術の闇は、エイボンを快く迎えてくれた。その事実に、残った最後の良心が死んだのを覚えている。己の痴態も仲間の死体も、闇の中に消えればいい。
今。あれから百年以上の時が過ぎた今、エイボンは森の中にいる。真なる闇からやってきた崇高な御方のために、エイボンは暗黒の儀式を行い、奈落へと続く扉を開かんとしていた。
「……
エイボンの呪文に呼応して、森の地面に敷かれた巨大な赤い魔方陣の模様が目まぐるしく変化する。ガルタンダールが開けた異界へのゲートを中心とし、さらに深層に潜るためにエイボンはこの魔方陣を敷いた。陣を構成する模様は、その一つ一つがいわばソースコードで、深層異界へ至るための門となるべく最適な形に変化し続ける。門を開けるのはガルタンダール一人に限定し、その鍵は先刻ガルタンダールが入手した呪牢の鍵を使用する想定だ。エイボンの役割は、お膳立てである。
「……
一世紀。道を外れ、仲間を
だが、これだけか。こんなものか。
大呪術師たるエイボンの腕の見せ所が、ただ門をこさえるだけなのか。
違う。
まだできる事がある。最大級の首級を上げてガルタンダールさえも瞠目させる事ができる。今、この時。この森に入ったからには。
「……来い。森の魔術師。その肉体は我が主の役には立たぬ。貴様を下し、その敗北を
赤い魔方陣を組み上げながら、エイボンは沸き立つ怒りとともに、敵の到着を待っていた。
硫黄の臭いが漂っている。さながら邪悪な火口のように。
ガルタンダールは一歩一歩を噛みしめるように森の中を進んだ。その手には赤い光線がいくつも絡み合ったできた有刺鉄線のようなものが握られ、その有刺鉄線の先には、二メートルほどの黒い影が繋がれている。
「見えた」
ガルタンダールは言った。黒い影は低く唸ったまま、返事らしい返事をしない。
「……さて。女の子同士、遊ばせてあげたいのだが。これは……」
前方十五メートルほど。
ガルタンダールの見据える先に、一軒の家がある。
第三の森。森の管理者、ニールス・ユーダリルの屋敷。
だが、その屋敷には、扉らしい扉は一切見当たらない。
「大事な子どもは家の中に匿うつもりか。急に訪ねたのは悪かったが、大事な用がある。うちの子を預かってもらうよ」
ガルタンダールの人形めいた白さの掌の中で、禍々しい形状の鍵が、打ち上げられた魚のように暴れていた。
ニールスの魔術によって、マキとアウストリは一息に第三の森にあるニールスの屋敷まで飛ばされた。到着後、アウストリはマキを連れて家の中に入ると、即座に屋敷にあらかじめ組み込まれている魔術を起動する。
『
「……ドアを全部
事態をよく呑み込めないまま、マキは尋ねる。
『そうですよ、お嬢。敵は呪術師の集団。手駒として怨霊や悪霊を使う事もあるでしょう。しかし、そうした呪力に属する連中は境界のルールに影響されます。招かれなければ人の領域に入れない、というルールですね。この場合、領域というのはこの家です』
アウストリが矢継ぎ早に説明する。マキにはよくわからない。
「……どういう事?」
『難しく考える必要はありません。ようは、私たちが上がっていいよ、と言わない限り、あちらはこの家に入れないのです。しかしドアを強制的に破ってくる事も考えられますから、一時的に全てのドアを失くしました。これでこの家は閉じた箱です。ここを私とスズリで守り、お嬢を守り抜きます』
さ、部屋に行きますよ、とアウストリは言い、マキの手を取る。
家の中の景色は目まぐるしく変わっていた。家具の位置、廊下の長さ、曲がり角の数。それらが異様な速度で伸びたり縮んだり、増えたり減ったりするのだ。景色の変化に加えて距離感や床の感覚も変わり続けるので、マキはどうしようもなく気持ち悪くなった。
『あまり周りを見ずに、私の背中だけを見ていてください。ペテン師レベルの迷宮仕様はいかなる侵入者をも迷わす踏破不能の迷宮。歩けるのは私とニールス様だけです』
言いながらもアウストリはマキの手を引いて、すたすたと迷宮と化した家の中を進む。背中だけを見ていろと言われたものの、マキは耐えられず目を瞑った。床の感触はまるで生き物の背中の上を歩いているかのように起伏に富み、柔らかくも固くもある。耳鳴りのような奇怪な音が、常に低音で響いている。これで目を開けでもしたら、常に動き続ける景色で確実に吐いてしまう。
『さ、着きましたよ。お嬢』
アウストリが言った。同時に、足元の感覚が一定になった。固い。木の床の感触。
マキが目を開けると、そこは修理中のマキの部屋だった。まだ工具が置きっぱなしになっていて、床も壁も、直ったところとそうでないところがある。
『問題が解決するまでお嬢にはここにいてもらいます。大丈夫、私とスズリが守りますから。――スズリ、部屋に入った』
『把握している。泉の間は隔離された。アウストリ、あなたには権能があるけど、なるべく部屋から出ないようにして。敵が仮に家の中に侵入した場合、迷宮仕様で完全に封じ込める。巻き込まれないように』
アウストリとスズリが打ち合わせを続ける。使い魔たちは皆同じ姿をしていて、差異は目の色や衣装の色、それに声といったところだ。アウストリとスズリは数日一緒にいるが、マキにはまだいまいち区別がつかない。
『敵は今どこに?』
アウストリが訊いた。
『今、見取り図を出す』
スズリが答え、部屋の壁一面に屋敷の見取り図が、青い線で映し出された。
赤い光点が、家の前で点滅している。
『最接近している者が一人、家の前に。侵入を試みている』
「よくできている」
屋敷に張り巡らされた魔術の一つ一つを観察しながら、ガルタンダールは呟いた。
手に持った呪牢の鍵はかたかたと震えている。屋敷の壁に強引に差し込めると思っていたが、思ったよりも魔力の防壁が固い。極めて複雑な魔術の式が魔力を増やし、ガルタンダールの呪力の侵入を防いでいる。
「ロンギヌスの槍でも持ってくるべきだったかな」
呪牢の鍵をポケットにしまい、ガルタンダールは顎に手を当ててしばし考える。
開けられないのならば、仕方がない。
「……出てきてもらおう」
見取り図の赤い光点が、ふっと消えた。
「ねえ……見て」
マキは壁の見取り図を指差した。アウストリもすかさず気付いたようだった。
『スズリ。敵の反応が消えた』
『追跡中。――周辺に反応なし』
スズリの冷静な声が答える。途端、異音が部屋の中に走った。見取り図に変化が表れていた。
「赤い光が……」
マキは息を呑んだ。
屋敷の周りに無数の赤い光点が出現していた。一瞬で、だ。兆候などない。
『スズリ! 一体何が――』
『確認する――周囲には――』
スズリの声が不自然に間延びして、唐突に切れた。
同時に、耳が詰まるような違和感と、背筋をなぞられるかのような怖気がマキを襲った。いや、マキだけではない。アウストリもまた奇妙な気配に身構えている。屋敷全体に、何か、嫌な空気が入り込んだかのようだ。
見取り図上では、赤い光点のうちのいくつかが、すでに屋敷の中に侵入している。
『いけない』
アウストリが即座にドアの前へと移動する。
「アウストリ、駄目だよ! 出ちゃ駄目だって!」
『家の中でおかしな気配がします。スズリがやられたかもしれません。お嬢は決してこの部屋を出ないでください』
そう言って、アウストリは部屋を出ようとして、そこでもう一度立ち止まって、マキのほうへと振り返った。
『お嬢。手を』
「え?」
『早く』
言われるがまま、マキはアウストリに向かって右手を差し出す。アウストリの黒い手袋をしているかのような小さな手が、マキの右手を握った。
何かが、マキの中に流れ込んだ。
『私の権能の一部をお嬢にも許しました。もしどうしてもこの部屋を出なければならなくなったら、外へ出る事を念じて走ってください。屋敷はあなたの味方です。あなたが逃げ切れるように導いてくれるでしょう』
アウストリの手がマキの頬に触れた。
『行ってきます、お嬢。いいですか。必要がない限り、この部屋からは出ないでくださいね』
「アウストリ――」
アウストリの姿がドアの向こうへと消える。
部屋の中はしんと静まり返っている。ドアの向こうから物音は聞こえない。
壁の見取り図では未だ赤い光点の群れが点滅を繰り返している。
屋敷の廊下は伸び縮みして、歩く者の歩行を阻むように作動している。使い魔たるアウストリは幽霊のように浮遊し、屋敷の至る所へと移動できる。迷宮仕様となった屋敷の中であっても同じだ。屋敷内のあらゆる権能を持つアウストリはその見取り図も正確に頭に入っている。迷宮仕様は屋敷内の景色を変え、距離感を狂わせるがアウストリは目的地まで正確な道のりで進む事ができる。赤い光点が点滅していた場所まで、アウストリは最短距離を進んでいた。
だが……
(おかしい)
アウストリの脳裏に疑念が過ぎる。何も起きていない。侵入者を示す赤い光点が点滅していた場所に来たのに、何も起きていないし、誰もいない。
ただ変化し続ける屋敷内の景色が見えるだけだ。
『スズリ。聞こえる? 今どういう状況?』
泉の間にいるスズリに呼びかける。
反応はない。
(泉の間は隔離されている。敵がすぐに到達するとは考えにくい)
何らかの妨害が屋敷に作用しているのは明らかだ。だが、魔術管制を司る泉の間とスズリの元には、まだ敵の攻撃や妨害は届いていないだろう。
(おそらく惑わされているのは、スズリじゃない。私だ)
だが、そうと考え付いたところで、打てる手はあまりない。経緯はわからないが、屋敷は敵の妨害に晒されている。マキの部屋に籠城する作戦はもう取れない。スズリとの連絡を復活させ、妨害している敵を討たなければ。
(屋敷周囲の防御はスズリが担当している。スズリが敵を検知していれば、今頃外で戦闘になっているだろうが……)
確かめる術は一つしかない。
『外に出るしかない』
アウストリは戦闘型ではないが、ニールスによって最低限の事はできるよう仕込まれている。
行くしかない。たとえ屋敷の外に出ようとも、その気になればアウストリは権能によって数秒で屋敷の中に戻る事ができる。
変転する屋敷の中を急ぐ。長い長い曲がりくねった廊下を抜ける。扉を一時的に出現させ、外へ――
「はい。お疲れ様」
どす、と。
アウストリの胴体に何かが刺さった。
使い魔たるアウストリでも痛覚はある。痛みによって身体の無謀な行使を抑制するためだ。
耐えられる痛みだ。そう思った。実際危ういところだったが、深手ではない。くるりと縦に回転し、アウストリは体勢を立て直す。
『あれは……』
目の前にいるのは、銀髪の男だ。古めかしい貴族のような恰好をして、長い銀髪は後ろに束ねている。まるで火山にでも来たような臭いが漂っている。硫黄の臭いが。
だが、男よりもはるかに異様なのは、その背後にある雲の中に浮かぶ、大きな、一つの目玉である。目玉は赤く忌まわしい呪力を発しながら、アウストリではなく屋敷全体を見下ろしている。
「まあ家主が出てくる事はないだろうが……それにしても使い魔一匹とは興覚めだ。小動物をいたぶるような趣味はないのだが……」
銀髪の男は退屈そうにアウストリを見下ろしていた。その佇まいに感じる、異様な気配。
『呪術師……じゃない』
そう言った瞬間、アウストリは自身の身体が崩れ落ちるのを感じた。先の一撃が身体を構成する大事な魔術を傷つけている。戦闘など、とても無理だ。早く。屋敷に戻らなければ。
「私が誰だかわかるかい? 小さな使い魔君?」
わかるはずがない。アウストリの知識では相手が何者かまでは見抜けない。
アウストリに見えたのは、闇だ。銀髪の男の形をした闇。その闇の中で、白い霧が渦巻いている。
部屋には工具はあったが時計がなかった。マキはニールスが使っていた金槌を握りしめたまま、窓から差し込む光の中でじっとしていた。アウストリが出て行って五分は経っただろうか。あるいはもう十分は経っただろうか。いずれにしてもマキにできる事は何もない。
このまま待つ? 外で騒ぎが収まるのを?
……そうだ。それしかできない。それしか。今のマキにできるのは、勝手に動いて状況を悪化させない事だ。部屋の中で待つ。それでいい。それで――
――――キィ。
静かすぎる屋敷のどこかから、軋んだ音が聞こえた。
知っている音だ。
ドアの開く音だ。
「……」
マキはじっと耳を澄ます。足音は、聞こえない。一瞬、あの軋んだ音が聞こえたあと、物音はしない。
迷宮仕様とやらのせいで、ドアが開いたのだろうか。いやでも、それならついさっきまでの間にも、音はしていそうなものだ。
開いたのは、どこのドアだろう? そしてもしドアが開いたのなら、開けたのは誰だ?
嫌な予感がする。脳裏によみがえるのは、霧の道路での出来事だ。母とバスの中に戻った、あの時。
――どう解くか、知っているか。
見てみよう。廊下はどうせ目まぐるしく景色が変わって気持ちが悪い。さっとドアを開けて様子を伺い、さっと部屋に戻る。開けて閉めるだけ。簡単だ。
金槌を片手に、マキはドアノブを下方に押す。
――どう試すか、知っているか。
廊下に顔を出し、右を見る。開いたドアなど見えない。悪夢のように変化する廊下の景色だけがある。
すかさず、左を見る。
「あ……」
光が、見える。廊下の先に。
真っ直ぐに伸びた廊下の先に、長方形の光が見える。
ドアだ。ドアが開いている。
あの光。あれはおそらく、屋敷の中ではなく、外の――……
長方形の光の中に、黒い、何かが降ってきた。どさ、と。鈍い音が聞こえた。
奇妙な感覚がした。あの時。バスの運転手の声を感じたのと同じ。あるいは、旅立つ前の教室で、同級生の期待や不安を感じ取ったのと同じ。
霊感が、再び研ぎ澄まされつつある。
助けて、と。そう言われた気がした。
黒いものが見えた。ぴんと。真っ直ぐ。地面から伸ばされたような。
人の腕。
「っ!?」
マキは理解していた。落ちたのは人だ。外で、誰かが、屋根かどこかから、地面に向かって落ちたのだ。
――助けて。
声が、聞こえる。ドアのほうから。光のほうから。
外から、声が。
腕の主が、顔を上げた。
女の子だ。額から血を流した。おそらく、マキと同じくらいの。
「……助けて」
その声が、確かに聞こえた。
――どう生贄を捧げるか、知っているか。
魔の鴉がやってくる。-The Raven Witch is on a journey- 安田 景壹 @yasudaichi
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