ふたごもりの家

良崎歓

ふたごもりの家

 もう三日も、森の中をさまよっていた。初冬の森は食べられるものも多くはない。それだけ歩き続けても、足は無意識に森の奥へ奥へと向き、里に出ることはなかった。たとえ帰っても再び棄てられることは、分かっていたから。

 夕闇に山鳩の声が響き、紫は身震いした。昨日は狼の遠吠えを聞いた。このあたりには人を化かす狐も出るし、うっかり禁制の地に踏み込めば天狗の怒りをかう、とも言われていた。

 自分は明日にものたれ死ぬだろうに、それよりもいま、迫りつつある夜が怖いなんて。なんて滑稽なのだろうか。

「ふ、うっ」

 笑おうとしたが、うまく声が出ず、ただ息が漏れただけだった。

 木々の奥に僅かな明かりが見えたのは、そんなときだった。ゆらゆらと揺れる光は人工的なものにも思えたが、こんな山に人が棲んでいるだろうか。ならばあやかしか、鬼火の類か。いずれにしても、まともなものではない。

 それでも、橙色の光は、疲れきった紫の目にはとても魅力的に映った。もう、ものごとを正常に判断する力は残っていなかった。紫の足は、まるで引き寄せられるかのように明かりに向かっていった。


 目を覚ましたのは、柔らかな布団の中だった。木目が美しく揃った天井。闇を薄めてくれる、行灯の明かり。い草の匂いのする畳。火鉢で炭がはぜる音。

 寒くて凍えそうな、いつもの自室ではない。

「気分はどうだい?」

 穏やかな男の声とともに、顔をのぞき込む気配がした。

 視界に飛び込んできたのは、新雪のように白い髪と、対照的に真っ黒な瞳だった。

 その対比があまりに鮮烈で、紫は息をするのさえ忘れて見つめた。現実感のまるで無い純白。色が深すぎるせいか捉えどころのない瞳。何とか相手の存在を掴もうと一所懸命に見るけれど、見れば見るほどふわふわと遠ざかっていくようだった。

 しばらくものも言えずにそうしていると、青年は「そんなに見られちゃァ穴があく」と微笑んだ。紫ははっとして、慌てて目をそらす。

「お前さん、庭先で倒れてたんだよ。この寒い中、そんなに薄着で山の中歩き回ったら、風邪も引くべ」

 なにも言えず、紫はただ眉を寄せた。青年は笑みを浮かべたまま、傍らにあった盆を引き寄せた。

「白湯だ。飲めるか?」

 頷いた紫に、青年は湯呑みを手渡した。一瞬触れた彼の白い指はひんやりとした感触で、ふわふわとした意識の中、紫を現実に引き戻すには十分な冷たさだった。

 人心地つき、ようやく礼を言う余裕が生まれた。紫は深々と頭を下げた。

「ありがとう、ございます」

 青年は「たかが湯を出したくらいで」と頭を掻いた。

 それからふと真顔になって、彼は枕元の桶から手ぬぐいを取り上げた。再び体を横たえた紫の額に絞った手ぬぐいが乗せられた。青年の指よりひやりとした感覚に、紫は自分の熱がずいぶんと高いことを知る。

 熱い湯に、冷えた手ぬぐい。青年は、付きっきりで紫の看病をしてくれていたらしい。

「すごい熱だよ。昨日今日の話じゃねえだろう。お前さん、もうずいぶんと、ちゃんと食ったり寝たりしてねェな?」

「……そんなことは、ない、です」

「言いたくねえならいいさ。さァ、もう少し寝てな」

「でも、これ以上ご迷惑を」

「独りで暮らしてるから、気兼ねはいらね」

 柔らかい言葉で、しかしきっぱりと、青年は告げた。

「隣の部屋にいるから、何かあったら呼んでくれ。……おれは、セツという」

「ありがとうございます、セツさん」

 セツは、うんうんと頷きながら、布団を掛け直してくれた。肩まですっぽりと布団に覆われたとたんに、睡魔が紫を襲う。

 遠のく意識のどこかで、セツの声が響く。

「礼なんか言わなくていい」

「ありがとう――」

 ――ああ、また礼を言ってしまった。

 口を噤んだ紫を、セツが悲しそうに見ていたような気がした。それを確認する間もなく、紫はすぐに眠りに落ちていった。


 次に目覚めたとき、熱はすっかり下がっていた。

 部屋は、外からの光でやわらかく満たされていた。しかし、体を起こして見回しても、部屋の中にセツの姿はない。

 ――もしかしたら、幻だったのでは。

 あんなに美しい人だったのだもの、この世のものではなかったのかもしれないと、紫はふと思う。

 しかし相変わらず、枕元には湯気の立つ鉄瓶と、冷たい水の入った桶が置かれていた。それは、誰かが紫を看病するために準備してくれたもの。

 ――ならば、これは幻ではない。

 紫が襖をおそるおそる開けると、囲炉裏端に白い人影があった。

 赤々と燃える火、自在鉤に下げられた鍋。

 セツの白い姿には、ひやりとした温度と浮き世離れした雰囲気が漂うが、家の中には不思議と生活感があり、あたたかい。それが両立していることに、紫の心は強く惹かれた。人がいくらいても、どこまでもつめたい家を、紫は知っていたから。

 セツはこちらに気づくと、向かいの席を勧めてくれた。彼に倣って座った紫に、セツはふんわり笑って「よく眠れたか?」と尋ねた。

「はい。熱も下がりました」

「そりゃよかった。じゃァ、山を降りられるか」

「え?」

 聞き返した紫に、セツは続けて告げた。

「ここは人間がいていいとこじゃねェ」

 その言葉を飲み込むまでに、少し時間が要った。『人間』というのは私のことか。では、『ここ』にいるセツは『人間』ではないのか。

 紫は起き抜けでうまく回らない頭を働かせ、セツの言いたいことを噛み砕こうとする。

「ここはな、マヨイガだ」

 『まよいが』。遠い昔に聞いた言葉に、紫は懐かしい母の声を思い出していた。

 母は地元の生まれで、昔話や伝承に明るかった。静かな夜に、こんな囲炉裏端で、山奥の不思議な家の話をしてくれたものだった。

 ――山の奥、ほんとうに山の奥にはね、神様のおうちがあるの。そこからはね、何か一つ、好きなものを持って帰ってきていいのよ。あなたなら何にする、紫?

 紫の答えに、母は困ったように笑った。

 ――駄目よ。神様の世界のものを口にしたり、着てしまったりしたら、人間の世界に戻ってこられなくなるわ。

 ここはマヨイガ。神様のおうち。

 それならば、納得がいく。セツは人間ではなくて、神様なのだ。だって、こんなにうつくしいモノが、ヒトであるわけがないと、昨日からずっと思っていたのだ。

「マヨイガ、知ってるか?」

 紫は小さく何度も頷いた。

「なら、話は早ェな」

 セツは大きく一度頷き、ふわりと身軽に立ち上がった。つつ、と滑るように畳の上を歩き、背後にあった棚のところまで移動する。

 大きな棚には、米を量る升、綺麗な塗りの椀、美しい細工の色とりどりの小物や生活用品がたくさん置かれている。価値が分からない紫にも、どれも相当に高価なものだろうとは想像はつく。

 セツは棚の中身を指さし、言った。

「ここにあるもんでも、もちろん無いもんでも。欲しいもん、何でも一つ用意してやる。それ持って早く家に帰りな」

 果たして、母から聞いた昔話の通り。しかし、紫には昔話とは違う事情があった。

「帰る家がありません」

「なんだって?」

「口減らしで、追い出されたんです」

 母が亡くなって引き取られた先で、ほとんど奴隷のような扱いを受け続け、それすらも飯がもったいないと追い出されたのは四日前のこと。山に入ったまま戻らぬ紫は、おそらくはもう、死んだものと扱われているだろう。帰っても、誰も紫を待ってなどいないのだ。

 ここに残りたい、と紫は強く思った。もしここで穏やかに暮らせたら、どんなにかいいだろう。

 決意を込めて、紫はセツを初めて真正面から見つめた。

 セツと視線がぶつかったが、目は逸らさなかった。底なしの沼のように深い黒の瞳は、無防備に対峙していると吸い込まれそうになる。それを何とかこらえて、紫は言った。

「何か一つというのなら、温かい粥をください」

「お前さん」

「それか、この泥まみれの着物の替わりに、着替えを」

 セツはしばらく目を見開いていたが、やがて真顔になった。黒い瞳が細められ、紫を射る。

「神域のものを食ったり着たりしちゃ、俺と同じモノになっちまう。あっちに戻っても、もう今まで通りにゃァ生きられねェぞ」

 セツと同じになるのなら素敵なことだと、紫は微笑む。セツは笑う紫に驚いたのか、目を丸くして首を傾げた。

「本当に、分かって言ってるか?」

「分かっています。私が欲しいものは、この家での暮らし。……身の程もわきまえないお願いなのも、ご迷惑なのも百も承知です。でも、どうか、ここに置いてください。炊事も洗濯も掃除も、できる限りのことは何でもしますから」

 頭を深々と下げ、紫はセツの反応を待った。

 もし駄目と言われても、里に戻るつもりはなかった。もう長い間、死なない程度に、まるで飼われているかのような日々を送ってきたのだ。

 それに比べて、セツに看病してもらったこの二日ほどが、どれほど人間らしい時間だったことか。もし叶うのなら、この夢のような二日間の続きを見たかった。

 やがて、セツの声が紫の頭上から降ってきた。

「顔を上げな、ええと」

 セツは、「そういや名前を聞いてなかったんだな」と小声でつぶやいた。

「ゆかり、です。紫と書いて、ゆかり」

「いい名だな」

 セツは、咳払いを一つ。そして、すうと立ち上がり、襖を開けて奥の部屋へ。

 やがて戻ってきたセツは、膳を抱えていた。

「実はな、朝げの用意だけはしてあったのサ」

 セツが照れくさそうに告げたのは、紫の心を優しく包みこむような一言だった。

 セツがよそってくれた粥を、紫は口に運んだ。一匙ごとに、あたたかさが口の中にじんわりと広がっていく。

「おいしい」

 そう呟いたら、目の前が滲んだ。

 単に、数日ぶりの食事、というだけではない。里の家ではずっと冷めきった残り物ばかりあてがわれていた。粥とはこんなに旨いものだったのかと味わっているうちに、涙が次から次へと溢れてきた。途中からは多少塩辛い味だったような気もするが、それでも夢中で平らげた。

 心も腹もいっぱいになり、紫は正直に言った。

「こんなにおいしいもの、生まれて初めて食べました」

「大袈裟な」

「ほんとうです。こんなにあったかい食べ物も、こんなに優しくしてもらったのも、生まれて初めて」

「そいつは、よかったねェ」

 おかわりはどうだい、とセツが勧めてくれる。二杯目の粥をほとんど食べ終わったところで、ようやく一心地ついた紫は、セツに尋ねた。

「私は、これから何をすればいいですか」

「とりあえずはのんびりしてりゃァいいんじゃねぇか」

 何もしなくてよいと言われると、かえって手持ちぶさたなものだ。

 里では、働きが悪いと殴られたり、飯をもらえなかったりそれから――何かしらの罰があった。それから解放されるのはありがたいが、では何をして過ごせばいいのだろう。

 紫は困って、セツに助けを求める。彼は紫の戸惑いを察したのか、ゆるく首を振って応じた。

「ここにゃ、お前さんをぶつような輩はいねェよ。いるのは俺だけサ。……とはいえ、お前さんも暇持て余すだろうなァ」

「そうですね。なにかお仕事はありますか」

「そんなら、俺を飼ってみないかい?」

「か、う?」

 うんうん、と、セツが頷く。

 紫は、目の前の青年をまじまじと見つめた。

 セツは今、自分のことをまるで犬猫のように言ったけれどとてもそうは見えぬし、もちろん頼まれたってそんな扱いもできるはずがない。

 では? と、紫は考え込む。

 人間を飼うというなら、紫が村でされていたような仕打ちをすればいいのだろうか。それは、セツにはどうにも似合わない気がするのだけれど。

 結局、紫はセツに尋ねた。

「飼うって、どういうことでしょう」

「お前さんは、麓の蚕飼いの村から来たんだろ? お前さんの家でも飼ってたかい?」

 確かに、紫の村は養蚕が盛んだ。最後に暮らした屋敷の主人も、織物の商いで身を立てたのだと聞いたし、実際に糸を紡ぐために今も蚕を飼育していた。そして、つい先日までは、その世話が紫の主な仕事だった。

「お蚕さまのことなら、ひととおりはできます」

「そうか、そりゃァよかった」

 セツは、ぽんと膝を打った。紫の方へにじり寄り、顔をのぞき込んでくる。

「俺は蚕の成れの果てなんだ。羽はあるが飛ぶことは出来ねえ。人の手がなければ生きていけねえ。繭になるまでは誰かに世話してもらわなきゃァ」

「だから、『飼う』ですか」

 蚕は家畜だが、里では同時に家に繁栄をもたらす存在として崇められてもいた。

 繭から出てくると姿形がすっかり変わっているのが、紫にとっては不思議でもあり、また好きなところでもあった。周囲の大人に尋ねると、『お蚕は繭の中で一から体を作り直すのだ』と言う。辛い日々の中、ならば自分も蚕になりたい、繭に入って生まれ変わりたいものだと、自分を励ます日も少なくなかった。

 セツが蚕だというのなら、彼のために精一杯尽くそう。紫の腹は、そう決まった。

「がんばってお世話しますね」

「そのうち糸を吐く予定だから、そのつもりでな」

 セツは嘘か誠か分からないような顔で言い、よろしくな、と笑った。



 日々は緩やかに過ぎていき、セツと紫との暮らしは静かに続いていた。

 セツの力によるものか、家の周りは常に緑が茂り、暖かく日が射し込んでいた。時折吹く優しい風は乾いた原っぱのにおいがし、時々は優しい雨の恵みもあった。

 その朝、紫は鶯のさえずりで目覚めた。

『中にいるとわからんが、外はもう春だからなァ』

 昨晩、セツはそう言って、着物をいくつか出してきた。

 決して上等ではないが、着心地は紫が昔に着ていたものとは比べものにならないほど。さっぱりと洗われており、丈もちょうどよかった。マヨイガにはこうした女物まで揃えてあるのだと、紫は感心しながら身支度を終えた。

 朝食は、紫の分だけ手早く用意する。

 味噌汁のいいにおいが漂い始めると、セツがひょっこりと顔を出した。セツが起き出すのはいつもこの時間だが、彼は食事らしい食事をとらない。たまに桑の葉を自室に持ち込むくらいだ。

 そんなセツだが、紫の食事の時には必ず囲炉裏端へ座り、紫が食べる様を嬉しそうに見ている。紫は一度だけ、そんなに見て飽きないかと尋ねてみたが、セツは「ヒトの子がものを食べてる様子は面白いからなァ」と答えていた。

 食事の後は掃除の時間に充てていた。

 マヨイガの敷地内と比べて、門の外はしっかりと時が流れているようだった。

 紫がここに行き倒れたのは冬のはじめ。その直後から、門の外では雪が紫の背よりも高く降り積もり、一寸先は吹雪といった荒れ模様が長く続いていた。

 近頃は、雪の壁は溶けてなくなり、露わになった土の表面には、門の内と同様に萌葱色の芽吹きが見え始めた。そして今日はその緑の中に、ちらほらと黄色や赤や白が混じっている。

 ――花の季節がきたんだ。

 紫は箒を持ったまま、門へと駆け寄った。

 門の外には、家の中にはない花たちが咲き並び、揺れていた。

 紫はしばし見とれた後、すぐにセツの顔を思い浮かべた。家の敷地内にも花は咲いているが、いつも同じ顔ぶれだ。たまに変わった花でも飾ったら、セツはどんな顔をするだろうか。セツの、いつもとは違う表情が見られるのなら、摘んでみようか。

 紫は何の気なしに、門の外へと手を伸ばした。

 伸ばした――つもりだった。

 しかし、出したはずの手は途中で止まった。紫が止めたくて止めたのではなく、まるで何かに後ろから腕を強く引かれているようだった。ちょうど、目に見えない糸でも絡みついているかのように、動かすことができないのだ。

「ゆ、か、り」

 セツがそう呼んだのと、草を踏み近づいてくる音に紫が気づいたのはほぼ同時だった。

 セツに名を呼ばれたのは、おそらく拾われてから初めてのことだ。これまで聞いたこともないほど低い声が背中に浴びせられたかと思うと、紫の体は完全に固まってしまった。それでも身をよじろうとしてみるが、それは徒労に終わった。

「『ことだま』というのを知ってるかい?」

 セツはにこにこと笑いながら、紫の目の前に立った。笑顔の優しさはいつも通りなのに、声の低さとの落差が紫をさらに焦らせる。

「こちら側のモノに簡単に名を教えるから、そういうことになる。名さえ分かれば、お前さんを縛ることができるのサ」

 セツは、静かに怒っている――紫はそう思った。怒るセツの姿を見たのもやはり初めてのことで、紫の心はすっかり縮み上がってしまった。

「ここから、出て行くかい」

「ち、ちが」

 ――私は、ただお花を見せたかっただけ。セツさんが喜ぶと思ったから。

 そう言えばいいのに、舌が思うように動かない。セツは、黙った紫の様子を眺めつつ、やはり低い声で続けた。

「念のため、だったんだがなァ」

 セツが言うと、突如、紫の手首と足と、舌と――体中に巻かれた白い糸が現れた。さらりと肌触りのよい、だがしなやかでつよい糸。

 ――絹だ。

 念のためと言うのなら、裏を返せば紫は疑われていたということになる。セツに疑念を抱かれるようなことはしていなかったつもりなのだが、なぜそうまでされなくてはならないのか、紫には分からなかった。

 やがて締め付けのせいで、息をすることも辛くなってきた。荒くなった呼吸に、少しきつすぎたか、とセツが呟く。

 戒めが少しだけゆるんだ隙に、紫は一言叫んだ。

「私は逃げません!」

「俺は、逃げぬように羽を奪われたんだよ」

「信じては、くれませんか」

「どうやって信じりゃァいいんだい」

 セツの冷たい声が、少しだけ震えた。はっとして視線を動かすと、セツの黒い瞳はいっぱいに見開かれ、眉は歪んでいる。堪えるような、精一杯何かを我慢しているような、辛そうな顔だ。

 ――セツさんは、悲しいんだ。

 紫の中に、これまでのセツとの暮らしが浮かんでは消えていく。

 ここで俺を飼うのが仕事だ、とはにかんだセツ。

 紫にとっては、幸せだけの毎日だった。いつか彼が繭を作る日まで、与えられた仕事を立派に勤めあげようと思っていた。

 一方のセツは、紫がいつ居なくなるか、気が気ではなかったのだろうか。優しい笑顔の下に、疑心暗鬼を抱え、膨らませていたのだろうか。

 紫は、自分のことばかりに必死で、セツの絡まった心になど気づかなかった。ましてや解くことなんて、なおさら考えたこともなかった。

「俺はもうすぐ繭になる。紫に今いなくなられたら困るのサ」

「お世話しますよ。いつまでも」

 紫の動かぬ体から、涙だけが溢れてこぼれた。



 これまではごく希にだったセツの食事は毎日になり、しかも大量の桑の葉を消費するようになった。庭の桑園から葉を摘み取り、セツの部屋へと運ぶのが紫の新たな日課となった。

 反面、桑を運ぶのが大変だろうからと、庭の掃除は日課から外された。気を使ってくれたのか、それとも紫が逃げ出さないようにだったのか。紫は前者だとどうにか思い込もうとしたが、セツの不信を知りながら務めるのは辛かった。表向きは自由に動けるものの、紫はあの日以来、見えない糸で縛られていると薄々感じていた。

 ――セツから離れられないはずなのに、縛られる前よりも距離が遠ざかっている。

 そう考えると、セツと以前のように親しく会話をすることもできなくなっていった。



 そんなある夜、セツと紫は久々に囲炉裏を挟んで座っていた。話があると、セツに呼び出されたのだ。

 セツは何の前置きもなく、唐突に紫に告げた。

「お前さんに、暇をやろうと思うんだ」

「……おいとま、ですか」

「俺は、そろそろ飯を食わなくなるからな」

 熟した蚕は食事をとらなくなってまもなく、繭を作る。そうなれば、桑摘みを手伝う必要はなくなる。つまり、紫がいなくなってもセツは困らない。

 ――お役御免、と言っているのだ。

 セツは硬い表情のまま、紫に礼を言った。

「今まで無理に引き留めて悪かったな。もう縛らねェし、名も呼ばねェ。お前さんは自由だ」

 名も呼ばないと面と向かって言われ、紫の胸は大きく跳ねた。何のことはない、あの日以前に――出ていこうとすればいつでも出て行けた頃に戻るだけだ。

 同時に、自分はセツに名を呼ばれたかったのか、と気付かされた。名前は、セツにとっては紫を縛る呪いだろうが、あの日以来、紫にとってはセツとの大事な繋がりの一つになっていた。

 ――もう、セツに名を呼んではもらえないなんて。そんなことには、耐えられない。

 何一つ伝える術もなく、時間だけが経ってしまっていた。ここで何も言えないと、紫の言葉はセツに届かぬままになるだろう。やっと、心の内を吐き出す機会が巡ってきたのだ。

「私は、出ていきたいなんて言っていません」

「でもな、これまで何人か来たヒトはそうだったんだ。ここに残りたいなんて奇特なヒトはそもそも少なかったしな。それもみんな、いつか俺の世話に飽いて出て行っちまった。お前さんは、今までのヒトと、違うってのかい?」

 セツは、そう紫に尋ねた。一言一言ゆっくりと確かめるような問いかけ。こちらの心を探るかのような上目遣い。セツは明らかに困惑している。

 彼にとっては、飼い主は『いなくなってしまうもの』なのかもしれないと、紫は思った。自らの世話を、ごくたまに迷い込む客人に頼るしかないセツ。もし、幾度かの別れの後に考えたのが、『縛り付けること』だったとしたら。

 そこで紫は不意に、朝、身支度を整えていたときのことを思い出した。

 マヨイガには何でも揃っていると感心したのだったが、この着物は、これまでの『セツの飼い主』が着たものだったのではないのか。そしてセツは何度裏切られても、次に来るであろう飼い主のために、きれいに洗って仕舞っておいたのではないか。

 求めて、失って、それでも一頭では生きられずにまた求めて。蚕とは、なんと健気で悲しい生き物なのだろう。

 ――私も同じだ。

 紫も、自分も一人で生きることを諦め、死に場所を探しながら山を歩いていたのだ。それが、セツに拾われて、セツと生きようと願って、今ここにいる。

 自分とセツと、いったい何が違うというのだろう。

 もう、あの日のように舌が縛られているわけではない。紫の口からは、堰を切ったように言葉が溢れ出してきた。

「私は、いなくなりません。例え縛られていなくたって、残ってセツさんのお世話をしたはずです。セツさんをここで一人にはしたくないから。セツさんに嫌われても、信じてもらえなくても、セツさんのお側にいたいと思ってはいけませんか」

「どうして、そこまで」

「セツさんを――お慕いして、いるから」

 セツの白い肌が、ぱっと紅潮したのが分かった。

「こうなっちまうんだよ、最近。だからお前さんともまともに喋れなくてな」

 セツは赤くなった頬を手でこすり、耳をつまみ、どうにかして熱を冷まそうとしているようだった。やがて消え入りそうな声でぽつりぽつりと呟いていく。

「もう春だし、山を降りるのに苦労はねェだろう? お前さんの幸せを考えたら、人間の世界に戻してやった方がいいんじゃねェか。また、前のようにひとりに戻るだけだって思ったんだ」

「でも私は、セツさんと――」

 反論しかけた紫に、セツは真っ赤な顔でぶんぶんと首を振った。

「最後まで、聞け。……ひとりになるって考えると、こう、このあたりがぎゅうっと捻れるように痛む。今からこんなんじゃァ、紫が居なくなったら、俺ァきっと変になるって思ったよ」

 セツの黒い瞳が濡れて光っている。出会ったときは色が深すぎて怖ささえ感じたのだった。今では、その中に宿る感情を読み取れるようになった――のだが。

 ただ、今日のセツの顔は、これまでのどんな表情とも違っていた。桜色に染まった目元や耳も、頬を伝う雫も、紫が初めて目にするものだ。彼は胸を押さえながら、しかし嬉しげに言葉を吐き出した。

「なァ、これが『慕う』ってことだろう」

「はい」

「お前さんと同じかい」

「はい」

 紫が深く頷くと、そうか、とセツは呟いた。

「実は、マヨイガにも、ねェもんがあってな」

 何でも揃っているこの家に、無いもの。これまで、セツが手に入れられなかったもの。紫が思い当たるのは、一つだけ。

「飼い主、でしょうか」

「ちっと違う」

 どうやら、セツの考えていたものではなかったらしい。眉を寄せて考え込む紫を、セツは何故だかそわそわしながら覗き込んでくる。

「分かんねェか。教えてやろうか?」

「教えていただけるのなら」

 セツは落ち着かない様子で何か言いたげにしていたが、やがて意を決したようにきりりと口を結んだ。真っ直ぐ、射貫くように紫を見る。

「俺と、つがいになってくれないかい」

「……喜んで!」

「よかった」

 黒目がちな瞳は、今度はまるで花が咲きこぼれるかのように輝く。

 気付けば、セツの周りを細く白い糸が取り巻いている。繭づくりが始まったのだ。セツが、優しく笑って紫へと手を伸ばす。

「おいで。お前さんを俺と同じに変えてやろう」

「よろしくお願いします」

 紫はそっとセツの手に触れた。握り返してくる感触は、初めて会った日と同じ。しかし、その時よりもやや温かく感じるのは、気のせいではないだろう。そして繭を出る頃には、自分もセツと同じ温度になっていることだろう。

 周りの景色が白く霞んでいき、紫の視界はセツだけになる。やがてまどろみに落ちようとする中、紫はセツの声を聞いた。

「ずっとずっと、俺を飼ってくれな」

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