第2話『霧島堺人-2-』

 カイトは棚持麗華の住むマンションに来た。12階建ての高層マンションで、セキュリティは完備。エントランスでオートロックに合鍵を刺し、暗証番号を入力し、カイトは滑るように静かに昇降するエレベーターに乗った。麗華はカイトが娼夫だった時の客で、今は程の良い連れだった。部屋の前まで来てインターフォンを押すと、「は~い」と声が聞こえ、ぱたぱたとスリッパの鳴らす音が扉の中からした。ガチャリとドアが開く。

「カイト君、どうしたの? びしょ濡れで……今、タオル持ってくるわ!」

 カイトは麗華の取ってきたタオルを受け取ると、頭をガシガシと拭いた。

「今晩泊めてくれないか?」

「良いけどカイト君……どうして……?」

「悪いけど事情は話せない。もし泊めて貰えないなら他を当たるよ」

「そんな、いいわ。私は何も聞かない。さぁ入って」

 カイトは、玄関を通されて中へと入っていった。着ていた服はどれもビショビショに濡れていたので、そのまま脱いで洗濯機の中に入れた。こびり付いていた血も、公園で洗ったせいか目立たなくなっていた。洗濯機のスイッチを入れて、バスルームのドアを開ける。蛇口をひねり、雨で冷えた体を熱めのシャワーで温める。顔を洗うとき、うっかり手を凝視してしまったが、気にしないように両の手を顔に擦った。お湯がバスタブに溜まると、とっぷりと身体を浸けた。深い深呼吸を一つ長めにすると、天井を仰ぎ、グッと強張った疲れがお湯へと染み出る。

―――これからどうしたものか……ここではもう仕事は出来ない。また他所の区へ行って、ホトボリが冷めるのを待つか。いずれにしろ早々と身を隠さなければいけない。アパートの方にだって、もう追っては広がっているのか? 明日の早朝必要なものを取りに帰ってみるか……。

 カイトは大まかにだが、逃亡計画を立てた。

 風呂からあがると、脱衣所に着替えが用意されていた。Tシャツにパンツ、下着に至っては、いつ泊まりに来てもいいように常時一式揃っている。それに着替え、フェイスタオルを頭に乗せたまま、リビングのソファーに深々と座った。

「よかったら」

 飲むと心が落ち着くと、麗華はホットミルクを、ソファーの前のコーヒーテーブルに置いた。

「突然押しかけて済みません、入れてくれてありがとう」

「そんな……いいのよ。私はいつでもどんな時だってあなたの味方だから」

 この人は歳不相応の無邪気な笑顔を、カイトに見せる。まるで女神か天使のように。温かく包み込む優しさ。彼女はカイトに優しくすることによって、幸福感に満たされているのだろう。カイトはそれを利用している。需要と供給。欲するが求め、それが満たされれば去る。そんな関係。お互いが望むべくして出来上がった関係だ。麗華はリラックス出来るアロマキャンドルがあるのよと何やかにや言っていたが、今日はもう疲れた、もう寝よう。カイトは何度か空返事をすると、いつの間にかソファーに横になり、深い眠りについた。


 朝、カーテンの隙間から差す陽の光でカイトは目が覚めた。麗華はキッチンの方にいるようだった。

「あら、もう起きたの? ちょっと待ってて、今出来るから……よし!」

 どうやら朝食の用意をしてくれたようだ。ケキャップをかけたスクランブルエッグと付け合せにソテーしたホウレンソウと、香ばしいハーブ入りのウインナーをワンプレートに乗せて持ってきた。それから常温のコーンスープ、これは麗華の家に来る度作ってくれるカイトの好物だった。

「美味しいよ。いつもありがとう」

「いいのよ、これくらいのことで喜んでくれるなら私は幸せだな。ねぇ、今日は時間空いてるの? もし空いているならどこかお出かけしない?」

「悪い……今日は用事があって…いやでも午後なら空いているよ。それからで良いなら大丈夫だけど」

 事情も話さず無下にすることも出来ない。カイトは、電車に乗って違う街にでも行けば大丈夫だろうと算段した。

「だったら決まり! 12時になったらまた家にきて。それから美味しいものを食べて好きな服を探して、ショッピングに行こう!」

 麗華は目に見えて生き生きとしていた。銀行勤めの彼女は、お金には頓着しない方だ。

 他人と買い物をすると、何でも衝動的に買いしてしまい、あとで後悔をするのだが、カイトといる時はきちんと自分をセーブ出来るそうだ。きっとそれはカイトに自分の価値観を知られるのが、少し怖いからだと思っている。安っぽい女に見られることを嫌い、本当に必要なものを見定められると言う。

 朝食が終わると、カイトは手早く着替えを済まして、麗華のマンションを後にした。

 

 カイトは家に着くなり、着替えをして印鑑や通帳など、必要なものをまとめて再度家を出た。

―――昨日の今日で出歩くのは危険だろうか……。

 そう思いつつも、足取りはマンションへと向かう。

 7階のボタンを押し、エレベーターで昇っている中、やはり今日出かけるのは、やめておこうと決心をつけた。

カイトは麗華の部屋に着くなりインターフォンを押すと、麗華の声が聞こえた。

「カ、カイト君……ご、ごめん」

 その時、ゴッっと頭部を鈍器で殴られる音が廊下に響いた。カイトは、廊下に倒れると同時に、薄れいく意識の中で、視界の隅で麗華の心配そうな顔と声、それからカタギのものが着ることのない、派手はスーツ姿の男が複数人立っているのが見えた。

「待ってたぞ霧島堺人。昨日はうちのもんが世話になったなぁ」


 鉄の匂いがする。鉄の味がする。そうだ……これは血の味だ。喉をせせり上がってくる胃液と血反吐でむせ返って、ゴホゴホと咳き込む。カランコロンと口の中に異物を感じる。歯だ。何本か奥歯が折れたらしい。カイトは鮫島組の男達に、リンチという分かりやすい暴力を受けている。アバラは何本か折れているだろうか。鼻血も大量に出ていて息が思うように出来ない。立っているのがやっとだ。そもそも無理やりにでも立たされているのだが。本当だったら今すぐにでも、地面に突っ伏して眠りたいがそうはいかない。

「まだお寝んねには早いぞ、良く見ろ」

 晴れ上がった瞼を指で持ち上げられ、薄くなった視界を無理やり開かされる。

「いやっ……もうこれ以上は……やっ……やめ……やめてください……おね……お願いします…」

 麗華が犯されている。何人もの男に前から後ろから、その体の全てを蹂躙されている。嫌がる彼女の言葉も虚しく、男達の行為は止まらない。

「お前のせいだ。これはお前が招いた結果だ。残念だったな、逃げられると思ったか? 世の中そんなに甘くはないぞ」

 使われていない廃工場の中、小さな悲鳴と肉を打つ音だけが響いた。

―――俺の人生もここまでなんだな……。

 ぼんやりとした意識の中、熱病に侵されているみたいに、様々なことが頭をよぎる。最初に浮かんだのは、今は亡き母と妹のことだった。あの日全てが狂い始めた。カイトを覆う闇。どうしようもなく暗く、病んでしまった世界。


「……ちゃん……にいちゃ……お兄ちゃん! 聞いてるの!?」

 耳の奥カイトの妹『砂夜』の声がする。

「あぁごめん、聞いてなかった。なんだって?」

「もういいよ、お兄ちゃんに言っても仕方のないことかもだし。ほらお兄ちゃんって女心とか全然分かんないでしょ? ね、お母さん」

「そうね、カイトにはまだ早いかも知れないわ。でも、カイトももう少し大きくなったらいい男になるとお母さんは思うわよ~。目鼻立ちは、身内贔屓を抜きにしても良いと思うし、気遣いも出来るしね」

 父親の記憶はない。死んだのか別れたのか、母に聞く機会もなかったので、物心がつく前に父という存在は無かった。母と妹。二人だけがカイトの家族だった。

「ところでお兄ちゃん!今日は何の日でしょう?」

「そんなの決まってるだろ、仮面カイザーWの映画公開日だ」

「違うよ! もう酷い! こんなに大事な日忘れるなんて!」

 砂夜は頬を膨らましてプリプリと怒った。

「嘘だよ、冗談だ。おめでとう砂夜。大事な妹の7歳の誕生日、兄ちゃんが忘れると思うか?」

「じゃぁプレゼントは?」

「買ってきてあるよ、ほら」

 そう言うとカイトは、隠してあったプレゼントの入った袋を砂夜に渡した。

「うわ~! なにかな? 開けていい?」

「いいよ」

 カイトは、期待に胸を膨らませた妹の表情を見ていて、幸せな気持ちになった。小遣いを貯めに貯めて買ったプレゼントだ。喜んでくれるに違いない。

「わ~! テディベアだ!」

「クマのぬいぐるみで喜ぶなんて、砂夜はまだまだ子供だな~」

「む~子供じゃないもん! お兄ちゃんと歳三つしか違わないんだもん、でもこのクマさんは嬉しい! 大事にするね!」

 砂夜は明るい子だった。兄妹で似ていると言われたことはなく、まだあどけなさが残るが、カイトと同じように将来美人になるだろうという予感をさせる程、整った顔立ちをしていた。

「さて、今日はお母さん腕によりをかけて料理するわよ! ケーキも焼いちゃう! 豪華なお祝いにしましょう!」

 母、『楓』は美しい人だった。カイトと砂夜の整った顔立ちはこの人から受け継いだんだろう。女手一つで二人をここまで育てた、育ててくれたそのぬくもりは、健やかなもので、世間に何一つ恥じることのないような確かなあたたかさを感じた。

 幸せな日々は続くと……そう、思っていた。

 その夜は、たっぷりのクリームでデコレーションしたケーキを、三人で分けて食べ、砂夜の誕生日を祝うと、夜は更けて行った。明日も学校がある。兄妹は風呂に入り、床に就くと、すぐにすやすやと眠ってしまった。

 楓は食器を洗い、後片付けをしていた。ピンポーンと玄関のチャイムが一度鳴る。こんな時間に誰だろうと、楓はドアスコープを覗くが、そこに人影はなかった。この時、楓は取り返しのつかない失敗をした。不審に思い、例えチェーンがかかっているからといって、少しでもドアを開けてしまったことだ。

 空いた隙間から、無造作に突っ込まれたチェーンカッターが、バツンと音を立ててチェーンを切った。あまりのことに、楓は臆してしまいドアを閉めることが出来なくて、外にいた男の侵入を許してしまった。

「奥さん、ちょっとお邪魔するぜ。騒ぐなよ」

 男はしゃがれた声でそう言うと、すかさず持っていた包丁を、楓の首筋へと翳した。玄関での攻防の末もみくちゃになり、男が楓の上に乗っかる形で部屋に倒れこんだ。

「子供に怖い思いはさせたくないだろう。少しだけ大人しく俺の言うことを聞いてればすぐに済む」

 男の息は荒く、口には並びの悪い黄ばんだ歯と、濃い無精髭。灰色の作業服から廃油と土埃の匂いを放っていた。男は楓の上に馬乗りになると、おもむろに楓の服を脱がし始めた。

「いやっ!! やめてください!」

 必死に身を捩り男の拘束を解こうと、楓は抵抗する。

「騒ぐなっつったろ」

 ピタリと楓の首筋に当てた包丁の刃を沈ませる、鋭い痛みがツゥと走り血が流れる。

「うぅ」

「前から目ぇつけてたんだよ、奥さん。もうどうでもいいんだ俺は。最後にあんたのことを好きなだけ犯してこんなところからはおさらばする。ちょっとつきあってくれよ」

 楓は殺されてしまうという恐怖に、必死で声を抑えた。もし声を上げて、子供たちが起きてしまったら、殺されるのは自分だけでは済まないかも知れない。シャツのボタンを引き千切る音と布の裂ける音が、子供たちの目を覚まさせないことを願った。

恥じらいに頬がカッと赤く染まる。作業着の男は、包丁を畳に寝ている楓の顔のすぐ横に突き刺し、乱暴に楓を弄った。破ったシャツで口と腕を縛る。

 豊満な乳房が汚い舌で舐られる。子育てをしてやや垂れ気味の乳房と、くすんだ乳首の色さえも、男は興奮しているようだ。男の口からは濃い酒気が漂っている。ジッパーが降ろされ、膝まで引きずり降ろされたジーンズが、楓の足の自由を奪った。下着の脇から強引にねじ込まれた男の太い指が、楓の局部を弄る。男の指の侵入は楓に耐えがたい苦痛を与えた。凄まじい異物感に、必死に抵抗しようと体を捩るが、男の指はしつこく局部を刺激した。焦れた男が楓のクリトリスを指でつまんだ。ビクンと電気のような衝撃が走った。どんなに嫌がろうと、体は刺激に反応して湿り気を濃くする。

 男の顔がその様子に感づいて、ニターと嘲笑う。包丁を片手に持ち直し、楓の胸に刃先を当てながら、反対の手でジーンズを完全に降ろした。男の足と手で強引に楓の股を左右に割る。男は待ちに待った時が来たと、恍惚の表情を浮かべた。

「動いてもいいが、俺は死体を犯す趣味はねぇ。頼むから静かにしていてくれよ」

 そう言ってから男は、いきり立ったイチモツをズボンから現した。男のイチモツは異様に太く、亀頭の形も歪だった。黒々としたそれを、楓の局部にあてがうと、ズブズブと深くに挿入した。内壁を抉る不快な感触に楓は涙を流し嗚咽を漏らす。ズッポリと男にイチモツが楓の中に埋まると、男は楓の耳元で呟いた。

「奥さんの中は最高だ。一回で終わしちまうのがもったいない」

 汚い舌が楓の頬を舐め上げる。獲物を仕留めて味わう肉食獣のような、残酷な感触がした。男が楓の腰を持って腰を激しく振る。必死にこらえる姿がいじらしいか、男はより一層感触に浸るような表情で楓を攻めた。襞が反り返り、広げられ満たされる時間が続いた。男が息を弾ませ、ピッチを上げる。リズミカルとは程遠い、利己的で独善的なセックスの匂いが発せられている。男がいよいよエクスタシーに達するという時に、寝室の襖がゆっくりと開かれた。

「お母さん?」

 眠気眼でトイレから出てきた砂夜が、その光景を目の当たりにしてしまった。ドロドロの熱く不快な精が楓の中で放たれる。楓は唇を噛み締めてその感触に耐え、男の隙を突いて包丁を手にした。楓の反撃に、官能の海から我に返った男が、包丁を持つ楓の手を抑えた。下半身はつながったまま揉み合いになる。

 砂夜は何をしていいかわからずその場にへたり込んでいた。格闘の末、包丁を取り上げた男は、楓の首に白刃を上から突き刺した。喉がつぶれ、動脈を切って血が噴き出し、呼吸が出来なくなった。血の咳が出て、空気が首に出来た穴から抜ける。男は荒い息を上げ、執拗に楓の首に包丁を刺している。リビングには血の海が出来ていた。こと切れる楓は、最後に我が子を思った。神様、あの子たちの命だけは奪わないで。包丁とイチモツを抜いた男が、今度は幼い砂夜に狙いを定めた。下半身裸の男が放心する砂夜の髪を掴む。砂夜は人形のように魂が抜けて、男のなすがままに成っていた。砂夜は裸に剥かれ、無垢な体を弄られた。

「もう一人いるんだろう?」

 男は、この残虐な時間を楽しんでいるかのように、低い声で言った。

「出てこい。妹を殺すぞ」

 怯える手で襖を引いて、カイトはガタガタと震えながらリビングに出た。カイトはことの一部始終を見ていた。しかし恐怖のあまり声も出せずに、ただ息を殺してその光景を見ているだけしか出来なかった。

「妹を離してくれ」

 自分は砂夜のお兄ちゃんだ。震える声を何とか絞り出すことが出来た。

「駄目だね。この子は殺す。でもお前がこの子のために何でもするというなら話は別だ」

「何でもするよ。だから妹の命だけは見逃してくれ」

 ヒーローに憧れていた自分が、なんと情けない言葉を発するのか。男はカイトの下半身に目をやった。

「なんだお前、母親がレイプされるのを見て興奮したのか? 勃起しているじゃねぇか」

 男に言われて、カイトは自分の下半身の異変に気が付いた。小便を出すだけにしか使っていないところが、男と同じように反り立ち硬くなって、パンツとパジャマを突き出すように引っ張っている。熱を持ったように熱く痛みも感じる。急にそれが恥ずかしくなった。男は笑った。それでまた恥ずかしさが増した。

「良いことを思いついた。お前もそんなにはちきれそうになっているんだ。楽になりたいだろ? 母親を犯して立派にイケたら妹は離してやる」

 男は下卑た笑いを浮かべて、自分の提案した最低の発想に、したり顔をしている。もはや常軌を逸していた。男は完全に狂っていた。命の尊さなど微塵も感じていない。カイトは恐怖のあまり立っていられなくなった。その場にへたり込み涙で嗚咽している。また男が笑った。

「早くしろ。出来ないというなら妹を殺す」

 冷酷な脅迫に、カイトはもう何も考えられなくなって、ただただ男の言う通りにするしかなかった。這い蹲って死んでしまった母の元へ行く。手には滴っていた母の赤い血が、べっとりと着いた。

「やり方は俺のを見た通りだ。母親のここの穴にお前のを入れるんだ」

 男は砂夜の股を割って、女の秘部を指で良く開いて見せた。カイトは男がしていたように母の前に膝を立てて股を開いた。男が見せた通り母にも砂夜と同じ穴があった。ただ穴からは、黄ばんだ粘度の高い液体が溢れていた。

「俺の使用済みだが却って滑りがよくなって良いだろう。どうした? 早くやれ」

 カイトは言われるがまま、男の真似をして母の中に自分のものを入れる。命のない木偶のような体は反発することなく、すんなりと侵入を許した。微かにまだ温もりが残っているものの、ぐにゃぐにゃで柔らかい母の体の中は、何の抵抗も感じなかった。

「足をもって腰を動かせ。時期に気持ちよくなってくる」

 手を縛られ、喉からは赤い血を流し、眼はどこか空を見てる母を、自分は犯している。熱はどんどん奪われ空気に散っていく。腰を打つ度に、なんでこんなことをしているのか、自分をどこか遠くから俯瞰しているような気分に苛まれる。神様がいるならなんて残酷な仕打ちをするのだろう。さっきまであんなに楽しい時間を過ごしていたはずなのに。感じたことない快感をカイトは感じていたが、その先は一向に闇。何も見えなかった。

「もっとだ」

男の機嫌を損ねないように懸命に腰を動かして、その時が来るのを待ってた。しかしいつになってもその時は訪れなかった。

「やっぱり死体を犯しても気持ちよくはならないか」

 男は嘆息し、諦めたようだった。そして妹を殺した。そしてカイトの意識はそこで途切れた。


 最悪な気分の中、カイトは水をかけられ意識を取り戻した。口の中にはまだ血の味がした。視界の隅で、麗華がぐったりと横たわって笑っている。身も心も余すと来なく汚され、精神が壊れているようだった。

「女も壊れちまったし、いい加減お前ももう楽になりたいだろ?」

 ヤクザの男にそう言われてカイトは頷いた。生きていてもいいことなど一つもない。自分等、本当はあの時に母と妹と一緒に死ぬべきだったのだ。もう何も感じない。男が匕首をひらりと抜きはらった。やっと楽になれる。くそったれのこの世界から。その時だった。倉庫の扉が勢いよく開く音がした。

「その辺にしてもらおう」

 吐き気のするような生き地獄に水を差すのは、あの雨の中の公園でみた、右目に眼帯をしたスカーレットのスーツに身を包んだ金髪の女だった。

「誰だ、お前は!?」

「お前らと一緒でその少年に用があるものだ」

 男たちの怒声にも気圧されず、女は倉庫の中に悠然と入ってくる。カツカツとハイヒールの音が倉庫にこだまする。

「いくらメンツを潰されたとしてもやり過ぎだ。命を奪っていい権利など誰にもない」

「なんだろうとこんなとこに入ってくるんだ。ただで帰れるつもりはないんだろう?」

 たかが女一人で何が出来るというのだ。カイトは逃げろと言おうと喉を絞るが、上手く声は出なかった。荒事に長けた男が5人いても、女は歩みを緩めたりはしなかった。手には貧弱そうな傘があるだけ。

 兄貴分の男の一人が顎をやり、屈強そうな男が一人前へ出た。拳を鳴らしながら女に近づく。女の髪を掴もうと上から襲い掛かった男が、一瞬組み合ったと思ったら、木偶人形のように膝から崩れ落ちた。男たちはギョッとなって身構える。女は倒れた男を飛び越えて、果敢に男たちに迫りくる。カイトは朦朧とする意識の中、それを見た。鬼神の如く苛烈で鋭敏な立ち回り。傘はその貧弱さに反し凶器と変わった。先のとがった金属部分で男たちの匕首を華麗に叩き落とす。彼女には警棒を扱う警察官の洗練された動きがある。あっさりと二人目をのして彼女は言った。

「これ以上やるならそちらにも怪我をしてもらうぞ」

 気圧されているのはむしろ男たちだった。

「舐めるんじゃねぇ! これがあってもまだそんな舐めた口が叩ける!?」

 男の一人が胸元から拳銃を取り出した。女は当然のようにそれを眺めると、舌打ちを一つしてまた歩み寄ってくる。精一杯の威嚇をしてもこの女を止まらない。銃を構える男が女の頭に狙いを定めて引き金を引く。

「死ねや!」

 倉庫内に銃声がこだましたが、悲痛の声は上がらなかった。男が引き金を引く一瞬前、女が持っていた傘を開いた。傘は防弾傘だった。無論、女は痛手は負っていない。傘を広げたまま女は突っ込んできた。半狂乱になって男は銃を乱射した。二発三発と銃弾が傘に弾かれる。今度は男が女の射程に入っていた。女は傘の柄についたスイッチを押すと、傘の先の尖った金属部分が射出され、男の肩口に突き刺さった。男は低く悲鳴を上げて銃を落とした。女は銃を拾い上げると、一瞬で銃をばらばらに分解してしまった。

「まだやるか?」

「こいつ!」

 恐怖と自尊心がないまぜになって、男たちはたたらを踏んだ。

「その辺にしてやってくれねぇか?」

 そう声が割って入った。女と男たちを止めたのは、開け放たれていた倉庫の扉の前に立つ、着物姿の男だった。着物の男もまた堅気ではない雰囲気を纏っていた。

「鮫島」

 顔だけ振り返って女が言った。彼女と鮫島と呼ばれた男は顔見知りらしい。鮫島も彼女を見止めて名を言う。

「アリア=イングラム。日本に来ていたのか」

 美しい響きと武骨な余韻の残る名。雨の夜会った女。アリア=イングラム。その名を聞いて、一先ずの安息を感じ、カイトの意識はまたそこで途切れた。

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Velvet glass room 柳 真佐域 @yanagimasaiki

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