第9話
「三十まで、仕事一筋で行くって言ってたのに」
坂本の結婚式へと向かう飛行機で、私は独りごつ。
♪〜冬が寒くって本当によかった
君の冷えた左手を
僕の右ポケットにお招きするための
この上ないほどの理由になるから——
あの時、坂本は何を思って、私の手を自分のポケットに入れたのか。
この曲はまだ生まれてもいなかっただろうが、あの二月の極寒のモスクワで、私たちはこの歌のように雪の絨毯に平行な足跡を付けながらはしゃいでいた。
そして、この歌のように、私たちの人生は別々になった。
ただ違うのは、それを選んだのは男の側である坂本先輩の方だったということ。
こんな陳腐な状況で右ポケットの思い出をうっかり取り出してしまって、「君のいない道」を一人で歩いているのは、女の側である私だったということ。
気づくと『スノースマイル』は終わって、ほかの曲が流れ出した。
***
披露宴会場。
坂本の父親が、私たちのテーブルに挨拶に来た。そして、私の隣に座っていた坂本の同期の木塚に「こんなことになっちゃいました」とさびしそうに言って、お酒を注いでいた。坂本は、婿養子に入るのだ。
木塚によると、相手の女性の家は飲食店をやっており、それが坂本の職場に近いことで知り合ったらしい。そして、彼女の父親が病いに倒れて仕事が続けられなくなり、一人娘として急きょ店を引き継がねばならないという流れの中で、坂本が何かと彼女に力添えしているうちに、そういうことになった、という話だった。
そっちには進んで「励まし」役を買って出てたってことか。
ひな壇の坂本を見ると、うれしそうにニヤニヤしている。その横の新婦は、落ち着いた風情のきれいな人だった。
***
夕方遅く、参列した同窓生たちといっしょに、私は帰りの飛行機に乗った。
シャッフル再生のiPodからは、もう『スノースマイル』は流れて来ないだろう。
ほかの曲を聞きながら、私は披露宴会場に座っていた新田を思い出していた。
「本当にごめんなさい」
言葉が、思わず口から出そうになった。
私は新田に、何ということをしたのだろう。
あの旅行の前半のギリシャで、何ごともないように明るく楽しそうに振る舞っていた新田。そして、モスクワで力尽きたようになってしまった新田。
旅行のあと、現像された写真を研究室のみんなといっしょに見た。
私も驚いたのだが、どの写真も坂本が私に恋人のように寄り添っている。そして、私には見えなかった視界の向こうで、新田は少し離れて一人申し訳なさそうに立っていた。
新田にとって大学生活最後の大事な卒業旅行が、こんなことに——。写真は如実に物語っていた。
新田の思惑が引き金になったとは言え、成り行きは誰も想像できなかった方向へ流されていった。
それを、誰かがどうにかできただろうか。わからない。
——が、少なくとも、私が行くと言わなければよかったのだ。
新田は、しかし、卒業後一年して、別の同期の女性と結婚した。
卒業と同時につき合い始めたというから、あの旅行で私に失恋したのだとしたら、それでよかったのだ。大切な思い出作りとは引き換えになったけれど、別の幸せを手に入れたということで、どうか勘弁してほしい。
そして、私だけが、あの飛び込み参加の罰を受けたかのように、今も独り身なのだった。
(了)
右ポケットの恋 たまきみさえ @mita27
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