後篇

 

 

       六



 気付くと僕は、何処とも判らぬ湖の岸辺に、脚を湖面に浸すまま、仰向けに倒れ込んでいた。

 ―――あの子は

 重く、濡れた身体を起こす。

 周囲を見渡す。

 霧の淀みが波みたいに、湖面を揺らす。

 少女をみる。

 ―――ああ

 横たわる少女は、僕と同じように眠っていた。身体に白の衣服が張り付き、白の肌を透けさせている。白の濡髪は鎖骨の上で、蚯蚓ミミズみたいなうねりをつくり、彼女の首を締め上げる。睫の雫がぽたりと落ち、湖面に小さな波紋が生じる。衰弱し、一層白さを増した少女は、瞳を閉じて動かぬままに、僕にその白さを、弱弱しさを、儚さを示してゆく。

 ―――大変だ

 眠る少女を抱きかかえ、僕は岸辺を離れる。

 傍に広がる草原へ、ゆらりと少女を横たえる。

 けれど。

 けれど僕はどうやって、少女を生かせば良いのだろう。

 そのとき、

「とぷん」

 水面で何かが蠢く。

 驚き、湖を覗く。

 然し波紋が見えるばかりで、ほかにはなにも映らない。

 映らないが―――

 僕はあの感触を思い出す。

 ―――あれは

 ―――あれは夢ではなかったのか

 一瞬思う。

 思ってすぐに意識を戻す。

 少女の頬を触ったり、手を握ったり。

 暖めようと僕は励む。

 励んでみる。

 ―――けれど。

 僕の身体は冷たくて、この子の命を戻せない。

 灰色の、掠れた僕の身体には、この子生かす力がない。

 胸に大きな―――穴の開いてしまった僕には。

 死んでいるのに、生きる僕には。

 ―――どうすれば

 ―――どうすればよいのだろう

 黙したまま、動かずに。

 生気を失い、消えかけている。

 ―――きあ、きあ

 鳴いて、鳴いて。

 僕と何処かへ案内してゆく明るさも、健気さも。ぼうっとどこかへ失って、君は眠りにつこうとしている。

 ―――死んでしまう

 ―――ひとりぼっちになってしまう

 手を握る。

 ―――いやだ

 ―――ひとりは

 ―――ひとりは、こわい

 情けないまま、僕は思う。

「■■■」

 音が響く。

 何かが岸辺を歩いてくる。

「■■■■■」

 身構える。少女を抱える。

 ―――まさか

 黒の影との邂逅。

 その前兆を思い出す。

 が。

「■■■■■、■■」

 音はあの、ぬらりと蠢くものではなかった。

 がし、がし。

 ざり、ざり。

 堅いものが地面を踏みしめるような。

 穏やかな、音が近付く。

 ゆっくりと、ゆったりと。

 ―――あ

 音のする方向。その中に或るものが見えた。

 巨花の明かりを小さくした、そんな明かり。

 あたたかな、灯りだった。

 灯りはゆらゆらと揺れながら、音と共にこちらへと近付いてくる。少女を抱き抱えた僕は、少しの怯えと恐怖のまま、近付くそれを待ちかまえた。

「――――――」

 それは灯りを頭に有する、古びた一体のロボットだった。

 僕よりも少し大きくて、腕が長くて脚が短い。

 至る所が錆び付き、苔むして、太っている。

「■■■」

 ロボットは僕らの前に立つと、二つの瞳で照らしながら、じいっと。僕の抱える少女を見つめ、腕を伸ばし、僕に示す。

「■■■、■■■■■」

 暖かな明かりで照らすまま、僕に両手を差し伸べる。

「■■■■■■■」

 ちかちか、ちかちか。

 二つの瞳を点滅させて、僕に云う。

 ―――この子を

 ―――この子を助けてくれる、のか

 応じて僕は、少女を託す。

「■■■。■■■■、■■。………」 

 ちか、ちかちか、ちか。

 返事みたいに、瞳が灯る。

「■■、■■■」

 少女を抱えたロボットは、きこきこゆったりと、ゆっくりと、二つの瞳で霧中を照らし、背後の僕に途を示した。

 


       七



 丘の上には、巨花が一つ咲いていた。花の傍には、小さな小さな小屋があり、白の花びらを二枚目の屋根にしていた。

 ロボットの導くまま、僕は花びらの下にもぐり。そうして僕は初めて、花の付け根を、目撃した。そこにはなにか果実のような、柔らかな一つのふくらみがあった。

「■■、■■■。■■■■」

 ロボットはその、ふくらむ根本へ少女を連れ、その下に、優しく少女を横たえてやった。すると花は、突然少女に呼応するようにして、少女の身体を優しく包み込み―――ふくらみの中へ、とりこんでしまった。

 ―――なにを

 僕は慌てる。

 が。

 ―――ぽう。

 花が瞬く。

 少女をくるんだ花は、今迄とは違う様相を見せる。今迄はただ、霧の中にぼんやり明滅するばかりであったが、今、その白の花は、身籠る少女を育てるように。新たな命を吹き込むように、霧を吸う。ゆっくりと、しっかりと。花びらそれぞれが波打つように、明滅の呼吸を行ってゆく。

 花の呼吸に呼応して、花の中の少女も光り、光を受け取り、明滅を始める。頭から爪先、髪の毛の一本一本に至るまで。穏やかに、暖かに。

 互い違いに明滅する霧の中の光景は、僕の心に、少しばかりの安息を与えた。驚きと恐怖も生じたが、少女が元気になると思うと、それらは直ぐに消えてしまった。この子も人ではないという、どうしようもない事実を、残すままに。



       八



 ロボットは霧の中、延々と、この―――巨大な花に取り込まれつつある小さな家に住んでいるらしかった。彼の他には、ロボットもなにも存在せず、ただ、そこには一つの小さな、石積みのお墓が、美しい白の花に彩られている。ぽつんと霧中に佇んで、静かに誰かを眠らせている。



       九



 僕は少女が花に眠る間に、小屋の中へと這入ってみた。

 ここには確かに人がいた。

 いた、らしかった。

 色々の見慣れぬ機械や、植物、生物のサンプルが鎮座している。霧の中、誰かが確かに、穏やかに生活していたであろう痕跡を、そこに棲まう者の歴史を、ずらりと僕に示してくる。その空間、四方の壁に―――夥しい、色々の、何かについて刻まれた文字を、壁のすべてを覆い尽くして黒く黒く、刻みつけられていることを除いて。


『外宇宙との接続』

『境界の再建』

『因子体の発見』


 文字の巣窟で、僕は色々の文言を眺める。色々の文字は刻まれるまま、それらはひとつの流れとなって、部屋の奥の方へと続き―――僕を文字の更に奥へと、いざなってゆく。

 黒の流れが止まったのは、小屋の一番奥。

 壁にかかった鏡の、周囲だった。

「――――――」

 黒の中に浮かぶ唯一の鏡面の縁で、それらは鏡を喰らえずに、縁で力つきている。鏡面に、ある、ひとつの到達―――霧の世界の結論を、白の文字で刻むままに。


『湯に堕ちた氷は境を失う。我々はもう戻れない。今更因子を除したところで、地下への蝕は止められない。どうにもならない。どうにも。どうにも。………』


 鏡の文字を眺める僕は、鏡に浮かぶ僕自身を知った。花の光が明滅して、浮かび上がった僕の姿は、灰の布に身を包むまま、ボロボロと朽ち果てかけていた。人の顔と、機械の顔―――その両方を有するまま、それでも生きる僕を写す。僕に生じた空洞を、君の光が埋めるまま。

 鏡に写る機械の僕に。

 鏡を覗く人の僕に。

 触れて触れて、僕を知る。

 

 ―――これが、ぼく

 ―――ぼくだったもの、なのだろうか

 

 ぼくがなく

 きりがなく

 

 

       十



 黒の影が、丘の上の僕らへめがけ、なき続ける。

 無残に抉れて臥しながら、じわりじわりと丘を登る。

 己の求める白の少女を、その手で貫き殺すべく。

 蠢いて。

 揺らめいて。

「■■、■■■=■■=■」

 黒の行脚を、あのロボットがぼうっと見据える。

 ちかちか光って威嚇する。

 けれど黒はお構いなしに、花の方へと進んでゆく。

 ―――お前も

 ―――お前も判らぬままなのか

 無常のまま、風が吹く。

 霧が靡いて影を坐す。

 僕を現す。

 ―――だからお前も

 ―――お前自身を確かめようと

 ―――確かめるために黒となって

 ―――幸福を捨て、成り果てて

「繝溘Φ繝翫Υ縲?繝溘Φ繝翫Υ縲?繧ケ繧ッ繧ヲ」

 蠢きながら影は云い、明滅をする花に向かう。

 明滅をする、少女に向かう。

「繝溘Φ繝翫う繧ォ繧ケ縲?繝溘Φ繝翫ち繧ケ繧ア繝ォ」

 触手を延ばし、唸らせ、凌ぎ―――

 身籠もる少女を殺さんとする。

 ―――けれど。

 黒の触手は無惨にも、僕によって斬られ、果てる。

 熱を有する僕から生じた、無数の灰の刃によって。

 ―――僕は彼女を、失いたくない

 僕の身体が変わってゆく。無数の刃、無数の銃を産み出して、虚の洞を有するまま、僕は獣になってゆく。機械としての僕の力を。化物としての僕の力を、扱い戦う姿へと。

 黒の影と、灰の虚。

 その対峙。

 相対。

「――――――」

 跳び、光る。

 躍動し、脈動する。

 影を、黒を、蠢きを。

 無数の刃と槍と撃が、僕の身体に襲い掛かる。

 僕に挑む。

 その全てを、僕は視る。

 霧の中から現るすべてを、惑いのままに僕は刺す。

 撃つ。

 斬る。

「繝翫ぞ縲?繝翫ぞ縲?繧ェ繝槭お繝上??繧ェ繝槭お繝」

 影が啼く。

 僕が吼える。

「繧ェ繝槭お繝上Ρ繧ソ繧キ繝医??繧ェ繝翫ず繝翫ヮ繝」

 吼えるままに、影を討つ。

 

   

      十一



 黒は消えた。消えた影はどろどろ融けて、無数の機械の部品たちと、無数の白の小さな花―――内に咲く花だけを遺した。僕とロボットは、そうした部品の色々を拾い、丘の上の、小さく眠る墓の隣に、それらの墓をつくってやった。穴を掘り、部品の色々を埋め込んで、土をかぶせて。影の残した色々の花を、そこへ供えて。

「きあ、きあ」

 すっかり元気になった少女が、再び花から産まれ出る。以前の通りに僕に笑い、僕の色々を見て廻る。僕らが彼らを埋めるのを、なにしているのというように、ずうっとずうっと動き回って、僕らの動きを真似てみせる。黒の影の小さな墓を、白の花で彩って。

「きあ」

 供えてひとつ、僕にわらった。



       十二



 ちか、ちか、ちかちか。

 丘の上で、ロボットが僕らに手を振っている。降っているのがまだ視える。けれどもうじき見えなくなる。霧の中に埋もれて消える。そこに確かに存在するのに、そんなものなんかなかったみたいに、覆い隠して消してしまう。何処かへ彼らを消してゆく。そうした別れの感覚を、振り返らずに僕は思う。

 この先僕らがどうなるのか。それはなんにも判らない。

 僕の胸には結局、今も穴が開いている。虚ろなまま、どうしようもないまま、ぽっかり出来た僕の空を、白の無数の霧が通る。

 僕は僕を人間だと思っている。けれど、けれど僕は多分、人間ではないのだと思う。機械か何かは判らない。が、それでも僕は今、此処にいるし生きている。生きていると、僕は思う。

 だからきっと。

 いつかきっと。

 僕は霧の中に死ぬ。

 幸福の中に死んでゆく。

「——————」

 少女が僕の手を握る。

 握って僕の眼を覗く。

「———ゆくかい」

 灰色の僕が君に云う。

「きあ」

 白の君が僕に答える。

 ちいさくちいさく微笑んで。

 霧の中、霧中に消える。

 彷徨う僕と、君は往く。

 

 

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霧の中 宮古遠 @miyako_oti

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