霧の中
宮古遠
前篇
一
彷徨うしかなかった。薄ぼんやりと明るいのに、目の前に拡がるのはただ霧の粒子―――色濃い白に埋め尽くされた、不可知の空間ばかりだった。足下の草原はどこまでも、果てが何処なのか判らぬまま続いてゆく。遠くに聳える黒の塔―――ぼやけた一つの黒の影。その向こう側まで。
白の少女は白の髪に、睫に、肌をしていた。白の衣服を纏うまま、霧の中に瞬いている。目覚めと共に出会ったこの子は、僕と言葉が通じない。通じぬままに先を行く。けれど少女は僕が呼ぶと、蒼の瞳で覗き込むまま「きあ」と鳴く。振り返って首を傾げて。僕と通じ合うように。
白の少女はテトテトと、僕の先を歩いてゆく。そうして進んで、振り返って、再び霧中の僕を見る。僕を見つけたら、またトテトテと歩きだす。霧中へ僕を連れてゆく。
―――この子は何処へ往く気だろう
寒さは無い。身体が重い。自分の身体じゃないみたいでふわふわしている。どっちつかずの感覚は、夢みたいな世界の中を、彷徨っている所為だろうか。
霧の中を彷徨う僕は、僕のことをなにも知らない。
霧の中を彷徨う僕は、少女のことをなにも知らない。
どうしてここで眠っていたのか。
どうしてここで目覚めたのか。
その何もかもが判らない。
思い出せない。
―――ぼくは何処へ往くのだろう
現実なのか夢なのか。それすらなにも判らない。太陽も月もみえない世界。朝も昼も判らない、時間のない、何もかもをうやむやにする白の世界。灰色のボロ布を羽織った僕と、にこにこ笑う小さな白の案内人は、何処までも続く霧にまみれた草原の地平を、歩き、進み、彷徨って往く。
―――ぼくはいつまで
―――いつまでぼくは彷徨うのだろう
ぼんやりとした不安。
立ち止まる。
途端、
「■■■■■■」
僕の背後で何かが響く。
霧笛みたいに深く低く、僕に何かを知らせる音が。
―――音、なのか
思ったとき、
ぞわり。
何かの影が、僕を見つめる。
蠢く。
振り返る。
「――――――」
なにもいない。
蠢いたという畏怖のまま、悪寒ばかりを僕に残す。
残して影もないままに、再び白が僕を惑わす。
「きあ」
少女がひとつ鳴く。
蒼の瞳であっけらかんと、どうしようもないように。
―――気のせい、か
僕は僕に結論づけて、再び霧の中を進む。
進もうとする。
「きあ」
少女がまたひとつ、僕に何かを鳴いて示す。
―――なんだろう
判りかね、僕は少女をぼうと覗く。その態度に、少女はむすっと頬を膨らす。僕のボロ布をくいくい引っ張り、幾重にも輪の連なった、蒼の瞳で再び見上げ、
「きあ、きあ」
ふたつ鳴き、霧中を指差し、僕を何処かへ連れてゆく。
指先をみる。
―――あ
何もなかったはずなのに、突然の僕の目の前に、人の棲んでいたであろう古びた廃墟の影達が浮かび上がる。白のひとつの大きな花が、影なる廃墟に蔦をめぐらし、捕まえ、明滅している。
―――おいで
―――おいで、おいで
腹を空かせた怪物たちが、彷徨う僕らを食べたくて。
白の粒子のその中で、じいっと待ち構えているみたいに。
二
廃墟の怪物たちは、みんな崩れていた。
無数の蔓が彼らを包み、白の花がその奥で、明るく暗く明滅している。
遠くでみると暖かで、なんとも可愛らしかったのに―――近くで見上げた白の花は大きすぎて。酷く不気味だった。
明るく暗く、暗く明るく。
光って消えてを繰り返し、壊れた姿を僕に示す。
取り込まれた建物の色々を、僕は眺める。この街の大通り―――草原になった大通りに沿って、人間たちが生活していた街並みが、延々と続く。命を吸われて枯れた街が、延々と。
―――人はもう、どこにもいない
―――人などいない
街の終わりは見えなくて、霧の中に呑まれ、消えている。
そんな途を、少女と歩く。
三
大きな建物の前へ、辿り着く。
真っ白な建物は、白の花を頭の上に、帽子みたいに棲まわせている。目の前に無数のバリケートを有したまま、霧の中に時間を止めて。燃え上がり黒くなった車たちは積みあがり、積みあがるまま蔦に覆われ、己の姿を忘れていた。
明るく、暗く。
暗く、明るく。
白の花の成すがまま、霧の粒子に建物は光る。
「きあ」
少女が僕を覗きこみ。
またひとつ、僕に鳴く。
―――いって、みるか
少女の手を握る。
バリケードを越える。
四
倒れるままの車椅子。黒ずんだ壁。血の黒。鋭利に抉れた廊下、暗がりへ続く明暗―――それらの様相は、しいんと静まり返るまま、無残な敗北を幻視させる。
僕と少女はゆっくりと、その内部へ潜った。白花の浸食は、建物の内部にも至っていて、天井を食い破り、力強く蔦を絡ませ寄生する花の根は、うねうねと捻じれ滅入りながら、廊下の奥の巣窟へと、僕らを導いているみたいだった。
うち棄てられたベッド、落ちたカーテン、倒れる機材―――色々のものが朽ちるまま、役目を果たせず死んでいる―――そんな廊下を。僕らはずんずん歩いてゆく。
一番広く、しっかりとした部屋に辿り着く。大きな机が鎮座していて、壁の棚には色々の資料や、書籍が、たくさん納められている。が、それらは花の蔦に呑まれ、散乱し。今はもう、元の役目を果たせない。
少女はそうした色々を眺め、本の一つを手に取る。が、そこに書かれている文字が判らなかったのか。そのままじいっと座り込んで、手に持つ本を上にしたり、逆さにしたり。パタパタはためかせたりして、嬉しそうに遊んでいる。
―――ん
そうして色々を眺める中、僕はその、大きな机の上に散乱するままになっている、或る一つの書類―――そこに記された或る文言に、目を止める。
『巨花の霧を吸い込むと、体内に白い花が宿り、幻視・幻聴を引き起こす。蝕花症に治療法は存在しない。穏やかなる幸福のまま死に至り、異形を産み出す。人間のうちに殺さねば。躊躇してはならない。決して。決して。………』
僕らの彷徨う霧。
霧は―――普通の霧ではない。
―――死だ
死を与える霧だ。
―――僕もこの子も
―――霧に死ぬのか
僕は思う。
思って怯える。
―――幸福とはなんだろう
感染しているとすれば、僕は幸福なのだろうか。
少女も幸福なのだろうか。
―――判らない
僕には幸福が判らない。
最初の幸福を覚えていない。
―――幸福を得たから、人を殺すのか
―――建物の中の争った跡みたいに殺すのか
ここで起こった不幸は、誰かの幸福を殺し損ねたからなのだろうか。
殺せなかったからこうなったのだろうか。
―――書類はずいぶんと古びている
発見から時間が経っている。
―――対処法
対処法が見つかっているかもしれない。
―――ならばどうして、ここは未だに霧なのだ
―――ここだけでないのか
遠くに見えた、果ての判らぬ黒の塔。
あれは何処にある。
霧の世界の外にあるのか。
―――それとも
最初から。
最初から霧の世界に―――
「陲ォ讀應ス薙??逋コ隕」
なにかが、くる。
五
―――衝撃。
部屋の壁が崩れ、霧が満ちる。
黒の―――無数の蠢く黒の何かが、白き影の中から現れ、僕らの這入った部屋を壊し、削り、喰らう。
「謗帝勁縲?縺吶k縲?謗帝勁縲∵賜髯、」
霧の中から蠢くまま、己の形を有さぬそれは、群れた黒の触手―――黒のタールに身を捩り、狂い踊る。より固まった僕へめがけ、その巨体を著しいバネと体躯で、壊した外側への入り口から、少女めがけて黒の触手を、槍を無数に延ばし射る。
―――間に合わない。
「――――――」
刹那、
少女が影に手を翳し、黒の動きを封じ込める。
未知なる力がそこに生じる。
蒼の瞳が紅く染まり、鋭く黒の影を見据え、絞る。
「逡ー蟶ク縲?逡ー蟶ク」
蠢くままに封じ込められ、黒の影は悶え苦しむ。
啼き、轟き、呻き―――
白の中に黒を発し、尖り、蠕動し。
拘束を解こうと藻掻く。
―――悪寒
―――悪寒だ
僕はいま、悪寒そのものと対峙している。
「蜀肴ァ狗ッ峨??髢句ァ」
けれど影は。
影はすぐさまお構いなしに、少女の力を振り払う。
攻撃が、躍動が。
少女を襲い、吹き飛ばす。
打ちつける。
「きあ、きあ。………」
壁からずり落ち、へたり込んで。
弱弱しく、少女がなく。
「謗帝勁縲?謗帝勁縲?謗帝勁」
黒が叫ぶ。
弱った少女に、撃が迫る。
「――――――」
躍動した。
気づけば僕の重い身体が、少女の前へ跳び、立っていた。
少女を庇い、黒の撃を背で食い止め、地を踏みしめる。
痛み。
痛みがこない。
―――なん、だ
僕の身体は冷たさを失い、今までにない発熱を起こす。
内側から、熱を発しているのが判る。
高揚している。
「驍ェ鬲斐r縲?縺吶k縺ェ」
迫る。視る。潜る。躱す。
黒の触手が、肩を掠める。
肩を掠めた触手のタールが、ぐじぐじとまとわりつく。
生きているみたいに。
僕のことを畏怖させる。
「きあ、きあ」
弱々しく、少女がなく。
瞳が蒼に明滅する。
―――逃げよう
僕は思う。
少女を抱え部屋を飛び出す。
走り出す。
「繝九ご繝ォ繝翫ル繧イ繝ォ繝翫ル繧イ繝ォ繝翫ル繧イ繝ォ繝」
黒が叫ぶ。背に叫ぶ。ぎぎぎぎと軋ませ音を放つ。ぐちゃぐちゃと、ゆるりと、ゆらりと、ぬらりと。僕と少女を喰らうべく、にじりにじりと追いつめる。追いかける。
建物の破壊と崩壊。
目まぐるしく変わる空間。
霧の浸食。
黒の進行。
僕らの逃避。
―――対峙してはいけない
云い聞かせる。
聞かせているのに身体が重い。
―――つめたい
一瞬の躍動。
一瞬の発揮。
あれはいったい、なんだったのだろう。
僕の身体は思い出せない。
黒の影の恐怖にやられて、僕はだめになったのか。
それとも白の霧にやられて、むなしく死につつあるのだろうか。
―――それでも
―――それでも逃げなきゃならない
僕は走る。
走り続ける。
「繝槭ユ縲?繝槭ユ縲?繝槭ユ縲?繝槭ユ」
逃げまどう僕の背後から、うねりねじりとそれは迫る。一面に黒の終を与え、何百もの、黒の瞳で、蠕動をして僕らをのぞく。目まぐるしく、僕らをみる。
「繧ウ繝ュ繧ケ縲?繧ウ繝ュ繧ケ縲?繧ウ繝ュ繧ケ縲?繧ウ繝ュ繧ケ」
壁を喰らい、霧で満たす。無数の槍みたいな牙が、何処が口なのか判らないまま、無数の口はがばと開き、捻れてぎゃりと鳴り迫る。迫るままに追いかけて、僕らと共に外へ飛び出す。
「――――――」
先程までの街が消え、底なしの虚空が口を開く。
背後に迫る、黒と同じに。
―――そんな
少女を抱え、僕は惑う。
惑う、しかない。
「繧ェ繝ッ繝ェ縲?繝?」
迫る攻撃。唸る斬撃。
眼前の攻撃を避ける手立ては、僕にない。
餌食になって、喰らわれて―――そして無残に死んでゆく。
死なせてしまう。
―――それは
―――それは、嫌だ
途端、僕の身体は再び熱し、抱えるままに右腕が変じ、変じる中から銃を産む。巨大で、邪悪な―――雷のように延びた銃口。据え、構え。撃ち方も知らぬまま。撃ち方を知る僕が動く。目の前に立つ影へ向け、無数の歪な赤の筋を―――輝き轟く鉄の礫を、幾重も幾重も叩き付ける。影を蝕み抉り取る。
荒地に立った枯れ木みたいに。
霧中の影が、少し揺らめく。
ぼやける。
―――やった、のか
が。
影はそれでも消え失せず、己の歪を気にもせず、僕の身体に撃を浴びせた。
僕の胸を撃が貫く。
鋭い黒の、無の槍が。
―――ああ
虚空の闇へ僕が落ちる。
君を抱えて僕が落ちる。
―――これは、死ぬな
落下。落下。落下。
どこまで落ち行くのか判らぬまま、延々と僕は落ちてゆく。
虚空の底の死へ向かう。
―――ごめんよ
抱える少女に思う。
途端、
「どぼん」
音がした。
―――水だ
残響のまま、僕の身体が沈んでゆく。中有に少女が浮かんでゆく。どれだけもがいて抗っても、僕の身体は重すぎて、底なし沼にはまったみたいに、足を捕まれ堕ちてゆく。
―――僕は
―――僕はいったい、誰だったのだろう
意識が遠のく。
何かが触れる。
まっくらになる。
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