30、夏の果て

 時間の概念を忘れてしまったかと思った。 

 深いまどろみの中で、まずたくさんの人が走り回る靴音を聞いた。人が寝ているというのに大きな声で喚き立てながら施設内をあちこちで駆けずり回る音がする。うるさい……。なんて非常識なんだろう……。


 そんなことを考えながら、私はゆっくりと覚醒していく。知らない肌触りのシーツにくるまっている事に気がつき、知らない部屋の匂いがした。ゆっくりと意識を取り戻していく。そうだ、ここは真生さんの研究室だと、ぼんやり思う。


「真生さ……?」


 彼の気配がないので探すため起き上がろうとした瞬間、頭の中が引き裂かれるような痛みが走った。堪え難い痛みに私は頭を抱えながら再び倒れこむようにしてベッドにうずくまる。


(なにこれ、なにこれ——!?)


 これまで感じたことのない種類の痛みに軽くパニックになり、痛みがひくのを必死に耐えているところへ、部屋の扉が開く音がして数人がバタバタと入ってくる気配がした。

 パーテーションに人影が映り、ああ、真生さんが戻って来たのだと思い上半身を起こす。向こう側からパーテーションを押しのけてこちらをのぞいた顔をと目が合った瞬間、私は再び激しい痛みに襲われた。


「いつきちゃん!!」


 ——その人は、麗華さんだった。


「麗、か……さ……」

「よかった! 無事だったのね……!」


 そう言いながら麗華さんは私が裸であることに気づくと、一瞬、見たこともないような恐ろしい顔をして、それからすぐに自分のカーディガンを脱ぎ私へ着せた。

 前ボタンを締めがなら、私の身体や様子を素早く点検していく。さっきの怖い顔は夢だったのかと思うくらい普段通りの彼女に戻っていた。


「怪我は……かすり傷程度ね? どうしたの、身体が辛い?」

「……すごい、頭痛がするんです……」

「頭痛……?」


 麗華さんは手慣れた手つきで私の脈をとりながら辺りをキョロキョロ見ると、デスクの横にあるゴミ箱を見つけそれを探った。


「いつきちゃん、真生から何か飲み物をもらった……?」

「飲み物……? ……はい、寝る前に、ホットココアを……」


 あの後、ずっと興奮して眠れない私に落ち着くからと真生さんが淹れて飲ませてくれたのだった。そういえば、その後の記憶が……。


「睡眠薬、入れられてる。それも相当強いやつ。いつきちゃんの体質と合わなかったのね。薬が抜けるまで、少し辛いかもしれない……」

「睡、眠薬……!?」


 確かに眠れないとは言ったが、薬を使うだなんて……しかも、私になんの了承もなく飲み物に入れた……!? そんな、バカな。真生さんがそんなことをするはずがない。


 私が混乱している間にも麗華さんはどこかへ連絡を入れ、私が無事であることを報告している。相変わらず館内を人が走り回る音も響いていた。

 やがて麗華さんはデスクへ目をやり、しばらくデスクの上の書類を見ていたかと思うと、肩を震わせて泣き出した。


 私は痛みに抗いながら様子を伺う。何か、尋常ではないことが起きている。

 麗華さんは鼻をすすり、こちらへ向き直ると私のところへ来て、その書類を目の前に差し出した。


「あなたにマザーになると約束させたので、許してくださいって」


 つい気をぬくと目がかすんで、痛みで頭にモヤがかかったようにぼうっとする。私は書類に書いてある内容に集中しようと、気を入れなおす。麗華さんが持っていたそれは、書類ではなく私の誓約書と手紙だった。

 ——真生さんの手紙。


『姉さんへ

 こんなことをした俺のことを呆れているでしょう。迷惑をかけて本当に申し訳ありません。

 俺が行ったことの罪がこんなことで償えるとは思ってはいませんが、こうして詫びることしか思いつきませんでした。

 いつきちゃんにはマザーになるという約束をしてもらいました。これでどうか、許してください。』


 ところどころ、インクが涙のあとで滲んでいる。

 真生さん、これを泣きながら書いたのだ。


「……この、こんなことでは償えないっていうのは、どういう意味でしょうか……?」


 そう言って麗華さんを見上げると、目が合った瞬間彼女は口を手で押さえ、息を抑え込めないまま嗚咽する。一体どうしたというのか、私はどうすることもできないままおろおろとするばかりだった。

 やがて麗華さんは自分で気を立て直し、私に喉の奥から絞るような声で言った。


「今朝、この島付近の海中から真生の体内GPSの反応が発見されて……。今、捜索中なの」

「……え?」

「いつきちゃんを強い薬で眠らせてる間に……あの子……」


 状況が飲み込めない。

 真生さんは、今、海の中にいるの?どうして……?

 頭痛がさらにひどくなる。


 そんなことできるわけない。だって、真生さんは幽閉状態だから中から勝手に外には出られないはずだ。……と、そう考えた瞬間、血の気が引く思いがした。

 いや、可能だ。私が持ってきたカードキーを使ったのだ。

 真生さんにとっては、私に関わることは生きるか死ぬかの選択に等しかったということなのか。だから、あんなに拒んでいたの? 嘘をつくことも誤魔化すこともできたかもしれないのに。いや、そういうことが出来ない人だから、私は真生さんに惹かれたのだ。

 でも……。

 だけど……。

 待って、待ってよ。私になにも言わず、あんな約束を残して、私一人をここへ縛り付けていくの——!?


 私はそのまま気を失いかけ、救急隊員が駆けつけてきたところまでで記憶がない。

 私の足元で嗚咽する麗華さんの声が遠くなっていく景色だけ、どこかで見た映画のワンシーンのようだった。



*   *   *



 その後、私は島の病院の個室でしばらく入院となり、息をするだけの人形のようにして暮らした。

 なくしたものの大きさを受け止めきれないまま、あるはずの感情がまるで無くなってしまったかのようになにも感じず、こんな自分がまるで他人のようで、どこか遠くからそんな自分を眺めているような気さえしていた。

 ただ、私には一つだけ望みがあった。あの日のことは誰にも言わない。ただ、小さく祈りを積み上げるようにして日々を過ごした。


 窓の外では、本島へ帰る人たちが慌ただしく夏の終いの準備をしている。空が高くなりはじめていた。


 そうして夏が、終わる。

 ある日、私は腹痛を感じて嫌な予感がし、トイレに駆け込んだ。

 生理がきていた。占いもできないほど真っ赤に染まった便器を見て、唯一の望みは無情にも絶たれた。母のようにはうまくやれなかった。私は真生さんを繋げなかった。

 この時、はじめて自分の中で止まっていた感情が津波のように押し寄せ、飲まれ、トイレのドアを叩きつけながら号泣した。

 驚いてやってきた看護師たちに押さえ込まれても私は暴れ続けた。

 私が殺した、私が殺した——! たった一人の私の半身を私が殺したんだ……!!

 鎮静剤を打たれ、無理やり眠りに落とされ、夢の中で真生さんにすれ違ったような気がしたけれど声もかけてもらえず、私たちはそのまま離れた。

 ——目が覚めると、いつもの私が自分の中へ戻ってきているような、そんな気がした。光の眩しさに、私は泣いた。



 *   *   *



 いよいよ男性が本島へ帰る日となった。その日は快晴で、厳しい日差しがジリジリと肌を焼く。

 私は一時的にだが外出の許可をもらえるまでには回復し、生徒会の代表ということもあり、見送りの会への出席を許可された。


 会はつつがなく終了し、最後に船乗り場で各々この夏を共にした人たちと別れを惜しんでいる。

 マリヤも欧州の島へ転校するためにこの船で経つ事になっていた。マリヤと顔を合わせるのはあのロープウェイ乗り場以来だった。そういえば、こんなにマリヤと離れていることもはじめてだった。いずれ日常に戻れてもマリヤはもういないのだ。今はまだ、その実感が全くないが……。

 そんなことをうだうだと考えているうちに、声をかけづらくなってしまい、少し離れた場所からタイミングを計っていたその時だった。

 マリヤが私の視線に気がついた。私の顔を見るなり、持っていたトランクを投げ捨て私に駆け寄り抱きついた。


「いつき……!」


 マリヤは私の首にしがみつき、さらに力を込めて抱きしめた。


「もう大丈夫なの……?」

「うん、心配かけてごめん」

「私……、必ずいつきを助けるから」

「マリヤ……?」


 私は身体を離し、マリヤを見つめる。

 マリヤは目に涙をいっぱいにためて、私に念をおすように言った。


「いつき、待っててね。二度と、あなたをこんな目に合わせたりしない」

「……あの、だから違うんだよ、私は……」


 真生さんとのことは、マリヤが思っているようなことではないのだ。私はマリヤにだけはわかってほしくて言葉を紡ごうとするが、何もかもをうまく選べずにいた。

 するとマリヤはしばらくそんな私を見守っていたが、やがて私の肩に手を置き、優しく微笑んだ。


「いつき、今は笑ってお別れしよう。これ以上言い合っても、今は多分、私たちお互いを理解できない。十年後、進んだ道の上でならきっと語り合える言葉も持てるはずよ」

「マリヤ……」

「大好きよ、いつき。絶対に迎えに行くからね」

「……うん」


 マリヤの手を離し、彼女の背中を見送った。それと同時に肩をたたかれ振り向くと、遥くんがはにかみながら立っていた。


「やあ、身体の具体はどう?」

「ありがとう、大丈夫だよ」

「内心ホッとしてるでしょ、俺らが帰るの」


 そう言って、腕組みをしながらニヤリと笑う。


「そ……そんなことないよ! やっぱり寂しいよ。あれ? ……レオくんは?」

「さすがにあれだけ派手にやれば……ね。先に帰ったよ」

「……え?」

「あいつなら大丈夫。例え前科持ちになったって、あいつの才能を喉から手が出るほど欲がるところは山ほどあるから」

「もし、会うことがあれば私が感謝してたって伝えてくれる?」

「……君は、最後の最後までお人好しなんだなあ」


 遥くんは私の両手を取ると、自分の頬へあてる。


「遥くん……?」

「そのお人好しついでに……覚えておいて欲しいんだ、しっかり」


 そういうと、目を閉じて私の手や指先を自分の顔になぞらせていく。


「こんな、顔の形。額……眉毛……目……」

「は、遥くん……?」


 私は思わず手を引こうとすると、手首をグッと握り返される。


「だめ、集中して。鼻の形はこう……これが、唇……」


 指先が唇に触れて、心臓が跳ねる。


「これが顎……耳はこんな形……」


 一通り私に顔を撫でさせて、ゆっくり目を開けると「覚えた?」と小首を傾げてみせる。


「な、なん、なに!?」


 私は狼狽しながら遥くんの手を振りほどく。遥くんは「だから——」と言って、私の手を握り直した。


「こんな顔の形の子供が生まれたら、俺の子供だからね。絶対、覚えておいて。そして、俺に気づいて」

「——!」


 顔から火が出るかと思うほど熱くなる。遥くんは王子様スマイルでニッコリ微笑んだ。


「俺、謝らないからね。間違ったことしたと思ってないから。俺のこと許せとも思ってないよ。でも、きっと、俺はずっと、君のことを想ってる」


 そう言ってゆっくり手を離し、遥くんは微笑む。恨み言もお別れの言葉も、何を言えばいいのか分からないまま、私はその場で佇んでしまう。ただ、この先きっと、なん十年後かに遥くんの声を忘れてしまっても、この指先の熱さはきっと忘れない。そう思った。


「俺からは離れられそうにないから、もう、行って」


 私は深くお辞儀をして、その場を離れた。振り返らず、なるべく人並みにのまれる方へ進む。もう二度と会うことがないのを悟りながらの別れというものを、あと、何度経験することになるのだろう。


 あと——。

 私は人をかき分けて、最後の別れを言うべき人を探した。

 大きなトランクを片手に、長い髪をなびかせながら船に乗り込もうとしたその人を呼び止める。


「麗華さん……!」


 麗華さんは私の声に振り向き、しんどそうに息をついてから渋々といった様子でこちらへやってきた。最後にあったあの日からさらにやつれて、ずっと老けた印象になっていた。


「マザーの研修、来年から入るんだって?」


 麗華さんはトランクを足元へ下ろしながら少しだけ口角を上げる。


「……はい。今年は療養と勉強に集中しなさいと……」

「担当、最後までできなくてごめんなさいね」


 私は必死に首を横に振る。あの事件の責任をとるため、麗華さんは私の担当を外されてマザー機関とは別の部署に移動になったと聞かされていた。

 この港でなら会えるのではないかと思い、私はこの会への出席を頼み込んでいたのだった。


「麗華さん……本当に、本当に申し訳ありませんでした……!」


 私は頭を下げてながら叫ぶように言った。どんなに謝ったところでもう全部取り返しがつかない。それでも、私は最後に一言、この人へ謝罪がどうしてもしたかったのだ。

 しばらく頭を下げていたが、麗華さんからなんの反応もない。恐る恐る見上げてみると、麗華さんはあの日に垣間見た恐ろしい顔をしたまま、私を見下ろしていた。


「……謝るくらいなら、あんなことしないでよ」


 麗華さんは拳を握りしめ、唇が震えていた。


「あなたがとってもいい子で、賢くて、ずっと大人のような振る舞いをしていたから、……忘れてた。思春期の女の子がどんなに恐ろしいかってこと。私だってそんな時期があったはずなのにね。油断して、間違えたのは私だけど……」


 こんな喧騒の中でも、麗華さんの言葉は焼きごてを押しつけられるかのように私の心をジリジリと焼く。


「でも……」


 そう言って、少し言い澱み、自分の中でなにかを決したように改めて私の目を見据えた。


「でも、ごめんね……。あんたのこと、絶対に許さない」


 ——私は、傷つく権利なんかない。

 でも、麗華さんの声はまっすぐ私の心臓を貫く。もう、痛みも感じない。ただ、ずっと、心に引っかかっていたことが言葉になって転がり落ちた。自分でも何を言い出したのか、一瞬分からなかった。


「私のような人殺しが、マザーに就くなんて、許されるでしょうか」

「……真生が残した意思さえ継がないって言うなら、一生あんたを恨む」


 麗華さんはそうポツリと言うと、足元のトランクを持ち、振り返ることなく船へ乗るためのタラップを上がって行った。


 そうか、私は、麗華さんから許可が欲しかったのだ。だから麗華さんに会いたかった。生きていていいと言われたかったのかもしれない。

 此の期に及んでまだ私は自分のことばかりだ。自分のエゴの図々しさにゾッとした。でも、それがないとマザーになんてなれる自信がなかったのだ。


「ありがとうございます……」


 言葉なんて彼女に届きはしないだろう。

 だけど、船が出航するまで私は頭を下げて、彼らの旅立ちを見送った。

 本島が海の向こうで少し遠くに陽炎に揺れている。

 夏の果てに、私は立っていた。




【終】

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エイレイテュイアの恋人 真鶴コウ @mao

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