29、ひとよ、繋ぐ

 研究室にいると言ったって、その敷地は広くどこにいるのかわからない。

 そんな時に、レオくんのくれたカードがとても役に立った。入り口の施設地図でおおよその位置の見当をつけて幽閉されているであろう部屋を探す。真生さんのいる部屋へ続く扉だけカードが反応するようになっていて、それがわかればあとは一本道のようなものだった。


 植物の研究室だと一目で分かる部屋へ出た。薄暗い室内には三台のデスクを囲むように様々な植物が天井まで段々に置かれた鉢植えに植えられおり、保温球のようなもので温められている。花壇には自動で給水できるよう、水が小川となって走っていた。その反対側には標本や薬品類がきちんと並び、たくさんの紙資料と実験道具もあちこちにある。

 保温球が等間隔でほんのりと光り、土とおおい茂る草や花の匂いと水のせせらぎと空調の機械音が入り混じる不思議な空間だった。

 私はその幻想的な光景に、ぼんやりと、ここで真生さんがどんな風に過ごしていたのだろうと彼の気配を探していた。


 その時だった。さらに奥の『教授室』と書かれた扉が開き、「だれ?」という声がした。


 私は息を飲み、弾かれたように声がした方へ身構えた。声の主も、私と目が合い凍りつくようにその場で固まる。

 そこには、幽霊でも見たかのような、信じられないものを見たといった様子の真生さんが突っ立っていた。


「いつきちゃん……?」


 まるで本物かどうかを確かめるように問いかけ、私はゆっくり頷く。


「信じられない。どうやってここまで……」

「真生さんが、強制送還になっちゃうって。知らせてくれた友達が助けてくれました」

「なん、で……」

「真生さんが私に会いたがってるって聞いて」

「そんな……、だからって……」

「だから、会いにきました」


 真生さんの顔がくしゃっと歪み、そのまま両手で顔を覆いその場に崩れ落ちた。


「俺が……どんな思いで……」

「真生さん……!?」


 私は急いでそばに駆け寄り覗き込む。顔を覆う指の間から絞り出すような声がした。


「俺が……どんな思いで我慢したと思ってるの……!? こんなことをしてしまったら、もう、取り返しがつかないじゃないか……!」

「ごめんなさい……」


 濡れた髪から、真生さんの足の甲へ雨の雫がぽとりと落ちた。真生さんは手から顔を離し、恐る恐る私を見た。


「こんなに濡れて……この嵐の中を、こんなになってまで……」


 ポツリとそう言うと、真生さんの目に生気が戻ったような気がした。

 彼はすっくと立ち上がり「風邪を引いちゃう」と言いながら、私の手を引いて教授室へ連れて行く。教授室のさらに奥にパーテーションが立っており、そこが仮眠室になっているようで、どうやらそこを間借りしているらしかった。


 カラーボックスからバスタオルを引き出すと、急いで私の体を拭く。タオル越しに大きな手が私の体をこする。頭を拭かれている時は、すっぽりとその手に包み込まれて気持ちよすぎて気が遠のくかと思った。


「濡れた服も、乾かさなきゃな。着替え……俺のTシャツしかないけど、ごめんね」


 そう言いながら真生さんは着替えを取り出し、ベッドの上に置くと退室しようとする。私は思わず後ろからしがみつき、彼を引き止めた。


「行かないで」

「隣の部屋にいるだけだよ、大丈夫だから」

「やだ、もう、私の前から一瞬でもいなくならないで」

「いや、それじゃ着替えられないから……」

「じゃあ着替えない」

「そんなずぶ濡れのままじゃ風邪引いちゃうよ! じゃあ、こうしてるから、着替えて、ほら!」


 真生さんはぎゅっと目を瞑り、腕組みをすると作業椅子にドスンと座り込んだ。

 私は、こんな時にまで何を言ってるんだろう。タオルで身体を拭きながら濡れた服を脱ぎ、下着を脱いで、Tシャツに手をかけ、私は真生さんを振り返って、見た。


 真生さんは目を閉じたまま息を殺して待っている。その姿が愛おしくて愛おしくて、涙が溢れ出す。もう、自分でも自分のしたいことを止めることはできなくなっていた。私は彼の前に立ち、「もういいですよ」と、声をかけた。

 真生さんは「そんなTシャツしかなくてごめんね……」と言いながら目を開けた瞬間、自分の顔を叩く勢いで手で目を覆い隠した。


「きっ……着てないじゃないか!!」

「真生さん、見て」

「ダメだ!」

「真生さん、見て!」

「ダメだ、いつきちゃん! その手に持ってるTシャツ、着て……!!」

「真生さん!!」


 私は真生さんの腕を掴み力づくで顔から離そうとすると、真生さんは目をがっちり閉じて顔を左右に背け逃げようとする。


「お願い、真生さん、私を見てよ!」


 もみ合いになるが力では叶わず、ならばいっそとそのまま真生さんの首へしがみつき、胸へ飛び込んだ。


「私は、あなたに抱かれに来ました! 真生さんのご用事はなんですか!?」


 しがみつかれた真生さんは固まり、私にされるがままになってしまっている。


「私に会おうとして、強制送還を受けることになったと聞いたよ。何か、私に用事があったんでしょ? 真生さんのご用事は、なんですか?」


 次第に真生さんの力が抜け、ゆっくりと目を開けて、やっと私と目があう。私は真生さんの上に座り、両手で顔を包み込むように挟んで、私の方へしっかりと向けた。


「それを聞きに来た。真生さん、何か私に言いたいことがあったんでしょ?」


 真生さんは目は次第に潤み、私を見つめ、ゆっくりと頷く。


「こんな嵐だもの、誰もこない。時間はいくらでもあるよ。ちゃんと聞く。全部聞きたい。聞くから、真生さんもちゃんと私の目を見て話してよ」


 真生さんは途方にくれたような目で私を見つめ続ける。私はそのいたいけな顔をなで、彼の準備が整うのを待つ。窓のない部屋にも、外の嵐が暴れる音だけが届いてきていた。

 やがて、話し始めるためにすっと小さく息を吸う音がした。そして、掠れた消え入るような声で真生さんは言った。


「マザーになれ、いつきちゃん」


 覚悟を決めたその目の中に映る私はうっとりと彼を見つめていて、「あなたがそう言うならば」と返事をしているような気がした。


「大昔、地球が誕生して、生命が誕生して……、その瞬間から果てしない数の奇跡を繋いで、今の俺たちがある。どうか、それを、俺のせいで断ち切らないで……!」

「私の中に流れる血を断ち切るナイフになるのが怖いんだね、真生さんは」

「……怖い。怖いよ……! でも、それ以上に怖いのは……」


 そう言うと真生さんは私を包み込むように抱きしめ、首筋に顔を埋めて耳元で囁いた。


「君のことをこうしてしまう、自分だ」


 真生さんは私の耳に、首に、かぶりつくようなキスをする。


「君のことが、可愛くて、可愛くて……俺は……」


 私は真生さんの声を、唇を全て受け止める。


「なんで俺なんかを好きになった。なんで君は希少種の母なんだ。なんで、こんなに……こんなにも……」


 そう言いながら、真生さんは私にしがみつく。私はできるだけ優しく受け止める。


「いつきちゃんを、愛してる」

「それが、ご用件ですか?」

「そう、君に……伝えたかった」

「真生さん……」


 私は真生さんの唇の端に軽いキスをしてから「私もです」と応えた。


「じゃあ、私の用件もお願いしていいですか」

「その代わり、条件がある」

「なんですか」

「絶対に、マザーになると約束してほしい」

「分かりました」

「……本当に? 証拠を見せてくれないと信じられないなあ」

「証拠……。あ、見せられます!」


 私は真生さんの上から降りて濡れた洋服のポケットから手帳を取り出す。そこへ入れておいたマザーになるための誓約書を広げて見せた。


「これ……書きます!」


 真生さんはすぐに書類の意味を把握し、息を飲む。

 その反応を確認してからデスクにあったペンを拝借し、サインを入れて再び真生さんの目の前に掲げてみせた。


「この誓約書、真生さんに預けます。これでどうですか!」

「君って子は……」


 そう言うと真生さんは堪忍したように立ち上がり、私を抱き上げるとすぐそこのベッドへ連れて行きそっと降ろした。ゆっくりと私の横へくると、Tシャツを脱ぐ。薄暗い部屋では日焼けした肌がさらに暗く影を作る。やがて、その引き締まった体が私へ覆いかぶさった。


「あーあ。マザーに、なっちゃうのか」

「マザーになります」


 そう言うと、それを合図にしていたかのように、たくさんのキスが降ってくる。


「他の……男の子供を産むのか……」

「真生さんが、そうしろって言うから……」

「いや……だ」


 キスを繰り返しながら真生さんは嫌だ嫌だと繰り返し言った。駄々をこねる子供みたいに、他の奴のものにならないで、俺だけのいつき、俺のいつき……と。


 そこからは自分がフルーツにでもなってしまったような気分だった。私の甘いところを余すところなく真生さんの唇と舌がすくい取っていく。私はされるがままに自分の何もかもを開く。

 吹き荒れる嵐よりも激しく自分たちの息が混ざり合う。頭が真っ白になり、他に何も考えることはできず、ただただ、真生さんで自分がいっぱいになっていく。

 こんなに幸せなことがこの世の中にあったのかと、神を恨むような気持ちになった。全てを受け入れて、全てを明け渡す。この世界で誰でもなく、ただ一人、今、目の前にいる、この人に——。


「俺、やっと分かったよ。発情期にオスを誘う時のメスが切なそうな声で鳴くのも、カマキリが交尾の後黙って食われる気持ちも……こんな、こんな気持ちでみんな……みんな、次へ繋いでたんだ……」

「つ、な……ぐ……?」

「狂おしいほど愛しいと思う、この想いだ」



 私は、空っぽになった頭で真生さんの言葉を聞いていた。

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