第三章:依頼 その1
「ねえ、どこまで行くの」
交差点の赤信号に助けられ、紗綺はようやく零に追いついた。
掴んだコートの背中はこの暑さの中、何故か冷たくひんやりとしていた。
ずるーい。自分だけこんないいもの着てるんだ。
紗綺はもう汗だくだった。
さっきまで汗を拭いていたタオルもすでにぐたぐたで、絞れば雫が滴れるんじゃないだろうか。
乙女の雫……
これは高く売れるんではないだろうか。
暑さに幻覚じみた妄想が漂う紗綺の頬に何か冷たいものが押し当てられた。
普段なら驚いて文句の二つ三つはマシンガンのように並び立てるところだが、今の紗綺には砂漠にオアシス、灼熱地獄に仏様、それが何かを確かめるより先に、手先が覚えている本能に従って喉の奥に流し込んでいた。
ぷはぁー
肺と胃、身体のすみずみを走る毛細血管の末端のすべてからかき集められた熱を一気に吐き出すような勢いで息を継ぐ。
生きてるーって感じがする。
「ありがとう」
空になったペットボトルを零に返そうとした手は、見事なシャドーボクシングになっていた。
あれ、零は?
日傘を差した散歩中だと思われるおばさんが、酔っ払いを見るような目で更に二歩三歩と、正気に返った紗綺から遠ざかる。
交差点を渡り終え、小さくなっていく零が見えた。
零ったら、いつの間にーー
追いかけようとする紗綺の前で信号は無常にも赤に変わった。
ちょ、ちょっとー
小さくなっていく零を逃さないと、凝視、信号が変わると同時に走り出す。
その前を自転車が通り過ぎる。
慌てて避け足をもつれさせる。
よろける紗綺を誰かが支えた。
「あ、ありがとうございます」
振り返る紗綺の目に見知った若い女性の姿が写った。
「大丈夫ですか、紗綺お嬢様」
「環さん」
「交差点の急な飛び出しは危ないですよ」
紗綺の知り合い、紗綺の祖母の従者がいた。
「零、見なかった」
「さあ? それより汗だくじゃありませんか。うちによっていかれては?」
「そうしょうかな」
祖母の住んでいるマンションはここから以外と近かった。
シャワーで汗を流し、一息ついたら気分も変わるだろう。
猫探しはその後だ。零のアホ!
ミノスの林檎 イツキトキワ @kannazuki2701
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