第二章:迷い猫をさがして
☆
「ねえ、
それはあっさり振り払われて、その隙に長身の黒いコート姿はあっという間に遠ざかっていく。慌てて紗綺が後を追う。そんなことがかれこれ三十分以上続いている。
「待ってってば」
そんな紗綺の願いなど聞いてくれるほどお人好しじゃないことぐらいわかっている。でも……
「少しくらい待ってくれてもバチは当たらないでしょう、この大バカ!」
小さく影のようになった後ろ姿に紗綺は罵声を浴びせた。
まったく、今日も暑い。
予報では三十度を越えるとテレビの気象予報士は伝えていた。
それは昨日も聞いた。一昨日も聞いた。先一昨日も先先一昨日も、だ。
今日で十日連続の真夏日、猛暑だ。
あーあ、この炎天下の休みに私は何をしてるんだろう。
「ねえ、ゼロってばぁ」
無言で前を歩く黒のコート姿に紗綺が声をかけた。これで何度目だろう。
さっきまでは「知るか」「頼まれたのはお前だろう」と反応もあったが、今はそれもなくなり、紗綺から離れようとするかのように歩く早さも変わった。前を行く姿がまた小さくなっていく。
いつも一緒に歩いていても、常に一、ニ歩遅れるのに……
離されまいと小走りになるが、その距離は容易には縮まらない。
「もう、待ってよー」
どんだけ歩くの早いのよ、あんたは競歩の選手か!
黒い後ろ姿に毒づきながら、それでも離れまいと追いかける。
しかし、あいつは暑くないのかな。
まるで夜明けが忘れた闇のような格好で、風のように歩いて行く。
その姿にすれ違う人は一瞬呆気にとられ、しかし次の瞬間には小さく離れた後ろ姿に頭をひねっている。
幻でも見たような気になるのかな。
空は快晴、風もない。
ようやく花も咲き始めた頃だっていうのに、今日の天気はどのチャンネルもどのサイトも夏日予報だ。
紗綺がタオルで何度目かの汗を拭う。
なんとなくバックに入れた自分を褒めてあげたい。
そして今日は日曜日。なんの予定がなくてもうずうずウキウキしてしまう一日の始まりーーのはずなのに。
汗ばむ肌に張り付くような下着と衣服、今の紗綺にはただ暑いだけの最悪の時間になっていた。
やっぱり引き受けるんじゃなかったなぁ。
紗綺は行き詰まっていた。
たかが猫一匹、すぐにでも見つかる、簡単簡単とタカをくくっていたら、このざまだ。
後悔ばかりが頭に浮かぶ。
ことの起こりは同じクラスで長年の親友でもある優子からの相談だった。
「紗綺、まや、お願いがあるの」
両手に持った紙パックのジュースを差し出して、トレードマークのポニーテールが頭を下げた。
お願い事をする時の彼女のいつものポーズ。小学校の頃から変わってないなーと、目の前に座る二人は「またか」といったウンザリ顔で互いの顔を見合わせ、ため息をつく。
優子はまだ頭を下げたままだ。
お願いを聞いてくれるまで、この姿勢は続く。意外と頑固だった。
とりあえず言い訳を訊いてみた。
「優、今度はなにやったの」
「あのね、猫を探してほしいの」
「猫? 優の家って、猫なんか飼ってたっけ」
「違うの、あの近くの知り合いの女の子の家の猫なんだけど」
あー、なんとなく分かった。
紗綺が何となく悟った時、隣りの摩耶がつんつんと脇腹を突っついてきた。
どうしたーーと顔を向けた紗綺に摩耶が首を振った。
やめとけ、耳を貸すなとその目が語る。
うーん、だけどな親友、もう乗ってしまったのだ。こいつの舟に。
紗綺は話しを続けた。
「いなくなったの」
「うん」
「手伝ってあげるって言ったの」
「うん」
「で、見つけられなかったと」
「うん」
いつものパターンだった。
「がんばれば」
摩耶はにべもない。
受け取った紙パックの側面からストローを取り、飲み口に刺す。
「あーん、だったらそれ返してよ」
「なに、ゆう、あたしとキスしたいの」
咥えていたストローを優子に向けた。
「んなわけないじゃん! ねえ紗綺、お願いーぃい」
優子にすがりつかれた紗綺に、冷めた目の摩耶が言った。今度はちゃんと声に出す。
「やめときなよ、紗綺。そうじゃないと、この子、いつまでも懲りないよ。おんなじ事の繰り返し。じゃれて自分の尻尾を追いかける子犬か、あんたは」
「例えが長くてわかんない」
長い長考の末、紗綺は「いいよ」と返事をした。末っ子に頼られたら長女は弱いものだ。
「絶対、後悔するよ。紗綺」
出来る次女の言葉は冷たい。
それでも、最後はなんだかんだ言って手伝ってくれるのだが。だったら最初から手伝ってほしいものだと紗綺は思う。
「そんなの、この子のためにならないからでしょう。紗綺は甘いのよ」
ごもっともな意見だ。
そんなこんなで紗綺の迷い猫探しが始まった。
「へえー、黒猫なのね。名前はラッキー、と」
「黒猫で〈幸運(ラッキー)〉とはね、なんかミスマッチな感じだね」
横から紗綺のスマホに映し出された子猫の画像を見て、摩耶が感想を述べる。
だが、そう簡単には見つからず、一週間が過ぎた。
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