第一章 ラッキー
覚えているのは、
寒かったこと。
怖かったこと。
お腹が空いていたこと。
寂しかったこと。
温かかった手。
その優しい温もりは声の記憶だけでしかなかった。
か細くも強い意志と力強くぶっきら棒な声。
「よせ」
「でも、このままじゃ」
一度は抱き上げた温かな手は、そっとそれを手放した。
「ごめんなさい、小さきものよ。でも大丈夫、あなたに加護を」
ああ、あなたたちもぼくをおいていくんだね。
二つの声が風のように消えた。
まるで、最初からなにもなかったように、臭いさえ残さずに。
そして、またなにかがそれを抱き上げた。
「やめなよ、汚い」
「だって、かわいそう。このままじゃ、死んじゃう」
「だからって、ああもう、そんな顔しないで」
温かい……
ここに来てできたのは、
家族とおいしいごはん。
暖かい場所。
こたつ。
そして嬉しかったことは、比奈が見つけてくれたこと。
その日、小さきものーーノラの子猫はラッキーと名付けられ、
☆
ラッキーは外が嫌いだった。
寒いし怖いし、なによりノラだったときのことを思い出すとたまらない気持ちになる。
なのに、なぜ比奈は毎日、楽しそうに忙しそうに外に出て行くんだろう。
ラッキーにはそれがわからない。
外になんか行かないで、もっとぼくと遊ぼうよ。
だからラッキーは今日も小学校に急ぐ比奈の前に座り、靴を履こうとする足元に絡みまくる。
「もう、またラッキーったらぁ」
通学用の靴の片方に入ったラッキーが比奈を見上げて「にゃあ」と鳴いた。
これを足に着けないと人間は外に出られない。だったら履かせなければいいんだ。そうすれば比奈は外に出られない。
そう思ったラッキーはいつもこの時間、比奈の靴の中に入っている。しかし毎日される比奈の方はたまったものではない。朝に弱いから尚更その一分一分が貴重で遅刻かそうでないかを左右する。
「帰ってきたら遊んであげるから。ね、いい子だから」
頭をなでて靴から抱き上げ、そっと自分の横に置くと比奈はさっさと靴を履いてランドセルを背負いドアを抜ける。
「お母さん、先に行くよ」
「いってらっしゃい。車に気をつけてね」
はーい、とキッチンで片付けものをしている母、美紗都に返事をしながら、ドアを開ける。
その背中に寂しげなラッキーの声がした。
細く開いた隙間の向こうで比奈がラッキーに手を振った。
「ラッキー、帰ったらいっぱい遊ぼうね。だからいい子でお留守番しててね」と言い残し、ドアを閉めた。
そのドアの閉まるタイミングに合わせて、ラッキーが右の前足で床を叩くような仕草をみせた。
使えるのは一日に三回、一叩きで確率三分の一の幸運を引き寄せることができた。無論、ラッキーがこのことを知っている訳はなく、また日向家の面々も猫であるラッキーにそんなことが出来るとは夢にも思っていない。
ただラッキーはノラのときの経験上、そんなこともあるぐらいにはわかっていた。
お腹がすいたとき、他の猫、犬に追いかけられたとき、寒いとき、前足を動かすとなにか良い事が起きてラッキーを助けてくれた。
比奈に拾われてからは、ほとんど使うことも必要も無くなった、ラッキーが天から授かった〝
外は怖くて嫌い。だけど……
だけど、比奈のいないここはつまらない。そしてノラの頃より寂しかった。
だから今日は決めたのだ。比奈に付いて行こうと。
ラッキーは土間に降りると、トットットと歩いてドアに近づき両前足を掛けた。身体がわずかなに前に傾き、ほんの少しだけドアが開いた。
比奈の家に来た頃よりは太ったが、他の家の飼い猫に比べラッキーはまだまだ痩せていた。そして、その隙間はラッキーが通り抜けるのに充分な広さだった。
隙間から入ってきた外の空気が誘うようにラッキーの鼻先を撫でた。その冷たさに一瞬、身をすくめ足が止まる。ノラの頃の嫌な記憶が出し掛けた前足を引き止めた。
しかし、その鼻が比奈の残り香のような匂いを嗅ぎ取ると、ラッキーは右手で顔をひと撫でして意を決したように隙間を抜けていった。
まさか、その後の日向家が大騒ぎになるとも知らずに。
ラッキーを見送ったドアが、いたずらな風に押され静かに閉まる音が聞こえた。
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