ミノスの林檎
イツキトキワ
プロローグ:逃走の始まり
光に満ちていた。
光の粒子は極微細であり、その一つ一つの重さは限りなく無、ゼロに近いものだったが、それが億、兆、京……那由多……無量大数と集められた凝縮されたそこは、この世界のどこより重く、吸い込んだもの一切を閉じこめてしまう一種の結界と化していた。
そこは光の牢獄だった。
細かい塵にも満たない光の粒子が、幾万幾億、幾京、幾無量大数に集まりひしめき、ついには何者も動くことを許さない、捕らえ圧し潰す枷となり無限に質量が増していく檻となっていく。
牢獄は非常に小さく軽く、しかし大きく重かった。かつて世界樹の「守護者」として戦った男の身体を締め付け、身動ぎすら許さないほどに。
男の名はミノスと言った。
誰が付けたかもわからない、気付いた時にはすでにその名で呼ばれていた。
ミノスは強かった。
世界樹を蝕もうとするものたちと戦い、守り抜いた。
しかし、そこで大罪を犯した。
「天使」を殺した。
世界樹の子たる「天使」を。
「神々」とともに世界樹を育て、「守護者」とともに守る、「神々」の子、「神々」にならんとするものを。
しかし悲劇はそれがミノスの最愛の者であったこと。
ミノスの悲しみは深く、怒りは紅く、憎しみは泥のような黒に彼を染め上げ、錯乱させた。
世界樹を傷つけ、最愛の「天使」を殺した大罪に、ミノスは「守護者」としての全てを失い剥奪されて、この何者も近づけない光の牢獄の中に浮かんでいた。
その牢獄が不意に消えた。
上下も左右も解らない暗闇の中に、ミノスはぽつんと取り残されたように浮いていた。
その頭上に何かが降りてきた。
ミノスに向かって真っ直ぐに降りてくる白いシルエット、その姿がはっきりとしてくるほどにミノスはその目を疑った。
もう二度と見ることが叶わないと思っていた。彼の腕の中で光となって四散した最愛の「
「ミノース」
愛しい声がミノスの名を呼んだ。
二度と聞くことは出来ないと思っていた声が、ミノスが彼女の名を呼ぶより先にその耳に届いた。
涙が頬を流れ落ちた。涙がこんなにも温かいものだと思ったことはなかった。
「ミーノース」
幻なんかじゃない。もう、はっきりと聞こえる。
懸命に翼をはためかせ、不規則な螺旋を描く。
ただ一点を目指して。
溢れる涙の飛沫が、翼に身体にはじけて光となって消えてゆく。
「ミリュ」
名前とともに彼の腕に飛び込んできた「天使」をミノスのたくましい腕が身体が、しっかりと抱きとめた。
「ミノス」
「ミリュ」
お互いの名前を決めていた合言葉のように呼び合う。何度も何度も何度も。恋しかったその嬉しさと愛しさと喜びをいつまでも感じていられるように。
「ミノス」
小さな手、今に折れそうな腕、その細い肢体の全てを使ってミノスを抱きしめてくる「天使」が顔を上げ、潤んだ大粒の瞳で見つめてくる。その桜貝の唇が噛むようにミノスの名を呼ぶ。
「ミリュ、どうして」
暫しの抱擁の後、ミノスはためらうようにその疑問を訊いた。その言葉がこの刹那の幸せを破壊する
「ミノス、逃げて」
それは呪詛だ、言ってはいけない撃鉄の響きが、最悪をともなって落ちてきた。
ドン!
どれだけの重量があったのか、その衝撃に二人は大波に翻弄される小舟のごとく吹き飛ばされた。
「きゃあ」
ミリュの悲鳴を胸で聞きながら、ミノスは回避にその場を跳んだ。
暗闇の中に黒い影が浮かんだ。
黒に黒、本来であれば見えるはずもない。しかしそれは周囲の闇よりさらに濃かった。闇の濃縮、それの正体がなんであるかわかるほどにどす黒く、醜悪だった。
「ヒュドラ……」
苛立ちも嫌悪も怨嗟も隠さず、ミノスはその名を吐き捨てる。
あきらかに二人をめがけ落下してきたそれは、九つの鎌首を一斉にもたげ、斉唱するようにミノスの名を叫び、げへっげへっと卑しく嗤った。
「ミーィノース」
這いずる地虫を思わせる低い声が辺りの空間さえも歪ませ響く。ミリュがミノスの腕の中で身体をかため震えた。歯と歯がかち合う、嫌な音が彼女を更に恐怖へと追い込む。かつて、最愛の者の手に掛からねばならなくなった自分の死の元凶が、自分を殺した最愛の腕を隔てたすぐそこにいた。
「また会えて嬉しいぜ、ミーィノース。世界樹では散々世話になったからな。再会を祝いてぇが、急いでるんだ。さっそくだが、そいつをこっちに素直に渡してくれねぇか」
「ふざけるな」
「ふざける? 今のお前を相手になにをふざけろってんだ、ミーィノース」
さっきからあからさまにミノスの名を連呼する。あからさまな挑発にミノスは唇を噛んで堪える。奴は知っているのだ、ミノスが「守護者」の全てを失ったことを。
「なぁ、黙って渡してくれりゃあ、命だけは勘弁してやるよ。今回だけだがな。さっさとその「天使」を渡して、頭をこすりつけて謝りな。ヒュドラ様、どうかお命だけはご勘弁をってーー」
ヒュドラの巨体が宙に浮く。九つの頭が互いを打ちつけ合いながら転がっていった。
蹴り飛ばしたミノスが、吹っ飛ぶヒュドラの巨体を見据えたままに体制を整える。しかしーー
腕の中のミリュがうなずく。それにうなずき返し、ミノスはヒュドラに背を向けて走った。
ミリュがなにかを詠唱する。
彼方に光の
「走って、ミノス」
ミリュがゲートを指差す。
「どこへ行くつもりだ」
走るスピードを上げ、ミノスが訊いた。
這いずる振動が走る足元を伝ってくる。背後から凄まじい勢いで九つの蛇頭が迫っていた。
「〈愚者〉の元へ」
「〈愚者〉 ゼロ、か」
「イドゥンの導きよ」
女神イドゥン、それに〈愚者〉か、久しぶりに、もう忘れていたと思っていた名を二つも聞く。
懐かしさに持っていかれようとする思いが、辺りに響く低いしゃがれ声に呆気なく壊された。
「待ちやがれミノス、そいつを渡しやがれ」
この畜生が、罵声とともにヒュドラがなにかを口から吐き出した。
一直線にミノスめがけ飛んで回避した足元で弾ける。飛沫のかかった足に焼けるような痛みを感じ、ミノスが低く呻いた。
「毒、か」
チッ、ミノスが舌打ちをする。
激痛が蛇のように這い上がり、走る足を戒めてくる。
バランスを崩し倒れそうになりながら、それでもミノスはゲートに向かって痺れる足を動かした。
スピードが落ちる。
「毎度毎度、腹の立つやつだぜ。俺の邪魔ばかりしゃがって。だかな、それも今日でお終いだ」
ヒュドラの尾が勢いよく振り下ろされる。巨体が大きく跳躍し、九つの首がその口を開いてミノスの頭上を塞いだ。
「ミノス、これを」
ミリュが両手をミノスに差し出した。
「それは」
その手に包まれていたのは金色に輝く林檎だった。
世界樹でしか採取出来ず、女神イドゥンのみが育てられる、神々を若々しく保つための食べ物。
「食べて」
ミリュがミノスを促す。
「しかし」
ミノスはそれを躊躇った。なにか嫌な予感がした。
「食べて、ミノス」
真剣なミリュの目がミノスに決断させる。
ミリュの手から林檎を受け取ると、光る黄金の果実に歯をたてかみ砕き咀嚼した。
「待ちやがれ、それは俺のもんだ」
光る牙が巨大な槍のように思えた。開いた口が貪欲な深淵のようにミノスもろとも全てを飲み込こもうと迫った。
「食べてミノス、そしてもらって、私の命を」
豊潤な香りと豊かな甘さ、そのあとをわずかな酸味が追っていく。
歯を立ててすぐに手の平をつたって金の果汁が流れ落ちた。
まるでミリュを食べているような錯覚を覚える。
そしてさらにミノスは、自身の身体の奥底から急激に沸き上がり、腕へ足へ指先へと満ちてくる懐かしい熱を感じた。
世界樹の天使の「守護者」であったかつての自分を思い出させ、覚醒させる熱き力「闘気」が再開を喜ぶようにミノスの体内、精神を巡回した。
「ミリュ、これは」
「守護者」として復活した自分にミノスは驚きを禁じ得ない。
「ミノス、時間が無い。ゲートがもうもたないわ」
「大丈夫だ」
ミノスの背中から破裂音が聞こえた。
一対の白い翼が落下してくるヒュドラを遮るように開き羽ばたく。
今にも消滅しそうにその輪郭が薄れていくゲートに向かう。
「させねぇぞ、ミノス」
ヒュドラの声にミノスが拳に力をこめ、振り向きざまに大きく振るった。
ドン、光が放たれ、一気に膨張しヒュドラを包んだ。
ミノスは身体から「闘気」が抜け出て萎んでいくのを感じた。背中の翼がガラスのように砕け、光る塵になって消えてゆく。
ミノスの手がその塵を掴もうとするように開き、落ちる。
一瞬後、ヒュドラを呑み込み、弾けた光の衝撃波を受け、吹き飛ばされるようにミノスはゲートをくぐった。
「よくも俺の首を。許さねぇぞ」
核となる真ん中の首を残りの八つの首を犠牲にして守ったヒュドラが、後を追って消える寸前のゲートに首を入れる。
その巨体の半分がくぐり終えようとしたとき、ゲートは無残にも消えてしまった。
かろうじてゲートを抜けたヒュドラの首が叫んだ。
「許さねぇ逃がさねぇぞ、ミノス。その
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