去りしあとの、澄みわたる

みやふきん

完結済み掌編

 今まで真っ暗にしていたホテルの部屋で、相手からの電話の呼び出し音、コール三回分をきっちり聞いたあと、部屋の明かりをつけた。つけて消してを三回。これが取り引き開始の合図だ。

「取引は初めて会ったあのホテルで。夜になってから五〇四号室まで持ってくるように。ホテルに着いたら窓が見えるところに立って、合図を待て。部屋の明かりをつけて合図をするから」

 夕方、留守番電話にそんなメッセージを残してから、滞在先のホテルの部屋でずっと明かりをつけずに待っていた。

 きっと相手はすぐそこまで来ている。ドア一枚隔てた向こう側に。廊下を歩く音が聞こえてくる。息を殺して気配を感じとろうとした。一瞬静かになり、不安になった。ドアは閉めてある。相手は入ってこないはずだ。そういう約束だから。部屋の前にものを置いて立ち去るという取り引きだ。また足音が聞こえはじめた。次第に遠ざかっていく足音。まったく音が聞こえなくなってから、そっとドアを開けた。大きな紙袋がひとつ置いてあった。荷物を受け取った。これで取り引きは終了。

 ベッドの前まで紙袋を持っていき、中身をひとつずつ取り出して確認していく。彼の部屋に置いていったものが入っていた。昨日、突然彼の部屋を訪ねてきた家族に、彼はどんな言い訳をしたのだろう。もともとリュックひとつで家を飛び出したから、そんなに荷物はなかった。紙袋には黒いリュックが入っていて、その中にパジャマだとか下着、洋服、洗顔料、歯ブラシ、そして広辞苑と英和辞典。これからの生活に困るから、どうしてもと頼んで持って来てもらうことにしたのだ。

 リュックの下にまだ何かあった。紙袋の底から出てきたのは、少し潰れたティーバッグの箱。先週、彼と散歩中に一緒に入った雑貨屋さんで、彼が買ったアールグレイ。これは彼のものなのではないかと思いながら、箱の蓋を開けた。ティーバッグはまだたくさん残っている。ティーバッグが並ぶ隙間に紙切れが挟まっているのが見えた。取り出してみると、「これでも飲んで、あったまって」と彼の汚い字で書かれていた。

 こんなの、ずるい。

 ドアの向こうにいた彼を見てしまうと堪えきれなくなるから、こんなふうにやりとりしたのに。残していかないでほしい。記憶の中以外に見せないでほしかった。見てしまったら大切にしてしまう。幸いなのは飲んでしまえばなくなってしまうことだ。

 ホテルに備え付けのポットに水を入れて来よう。お湯を沸かしてお茶を飲もう。二人で飲んだのは一回だけだった。あとまだたくさんあるティーバッグをすべて飲んでしまえば、記憶にしか残せなくなる。早くそうしてしまいたかった。

 ホテルの部屋はあたたかくて、カップから立ちのぼる湯気すらほのかにしか見えないくらい。カップを両手で持ってすこしずつお茶を飲んだ。

 そして思い出していた。

 ホテルの朝食ビュッフェで声をかけられて、親は部屋で寝てますと嘘をついたのに、見破られて、警察に電話されてもおかしくなかったのに、これからアパートを契約するからおいでと誘われて、お年玉を貯めたお金も底を尽きかけていたから、住処は欲しかったし、やばいおじさんだったらすぐ逃げようと思ってついていって、半月が過ぎた。

 ただいまとおかえりのある生活。私のためだけに作られた馬鈴薯のお味噌汁。誰のものとも決められていない、同じ柄のお茶碗やお箸、マグカップ。お酒を買ったらついてきた景品のコップで飲むオレンジジュース。酔っ払うとすぐソファで寝てしまう彼。触れられなかったし、触れなかった。でも本当は触れたかった。ケータイに残る隠し撮りした寝顔の写真はさっき消した。ケータイ最後の写真は、両親を焼いた火葬場にいたカラス。

 大いなる猶予時間はもうすぐ終わる。もう終わった。大切な家族との日々は忘れないけれど、素敵な他人とのおまけみたいな日々は、忘れるまで思い出す。 

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去りしあとの、澄みわたる みやふきん @38fukin

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