時雨⑤






チン


ぼーっとしていたらしい。


エレベーターの到着を知らせる音で、私の意識は現実へと戻ってきた。


エレベーターの扉がゆっくりと開く。


ここに、昌太さんが乗っていたら……。昨日のあの人たちが乗っていたら……。


そう考えると変な緊張感に苛まれて、心臓がバクバクした。


大きく口を開けたエレベーターのか中には、誰も乗っていなかった。


ほっと安堵して、エレベーターに乗り込むと、2つ上の階のボタンを押す。


この時間、大抵みんな仕事中だ。


なかなか乗ってくる人はいない。


経理課が3階で、営業課が5階。4階で止まることなく、無事に5階までたどり着いた。


営業課のオフィスの入口を目指して進んでいくと、ドアが見えた。その向こう側に目を凝らしたが、彼のデスクがある真ん中の列の1番前は誰もいない。


またほっとしてドアを開ける。


1番目の前の席の女の人に話しかけて、書類を手渡すと、ニコリともせずに立ち去られる。


まあ、いつものことだ。


ちょうどその時だった。私の目の前を、昨日の男性2人組がニヤニヤしながら通り、そのまま横に折れてすれ違った。


最悪なことに、その2人組は、すれ違いざまに私のおしりを触っていった。


怖くて声も出なかった。


なぞの圧迫感に胸が押しつぶされて、呼吸が酷く苦しかった。吸っても吸っても、酸素は私の肺に入っていかない感覚になり、意識が薄れてきた。


その時。聞きなれた声がした。


「いま、何したんだお前らっ……!」


昌太さんが男性2人の前に立ちはだかって怒鳴っている。


その場は騒然となり、薄れゆく意識のなか、昌太さんが来てくれたこととセクハラの場面を見てくれていたことに少しだけ安心した。





目が覚めると、白い天井が見えた。薬品の臭いと何かの機械音でここが病院であることを悟る。


入社2年目にして過呼吸で倒れるとは。またしても、特殊な経験をした。


ふと辺りを見渡すと、ベッドの隣のパイプ椅子に昌太さんが座っていて、こくりこくりと眠っていた。


昨日に引き続き、心配をかけてしまったなと申し訳ない気持ちになりなって、じーっと見つめてみる。女の子みたいな長いまつ毛が可愛らしい。


ちょっとの時間見つめていると、視線を感じてか彼が目を覚ました。


「美沙……!!よかった……!!!」


目を見開いて、ガバッと抱きついた彼は、そう言うとポロリと涙を流した。


「ごめんなさい。」


色んな思いが込み上げて、私も鼻の奥がツーンとする。


数分の間、私たちは涙しながら抱きしめあった。

「ここ1年くらいずっと様子が変で……、でも訊けなくて……。」


腕を離して椅子に戻ると、彼は俯いて目を伏せながら少しずつ話し始めた。


「本田さんや畑中さんに職場の様子を聞いても、いつもと変わらないって言うから……。気のせいかと思ったりもして。で、職場では元気なのに僕の前だと元気がないのは、僕のこと嫌いになっちゃったからかなって思ったり……。君がこんなことになる前に、もっと話し合うべきだったね。ごめんね。」


彼は、申し訳なさそうに謝った。


ちがう。謝るべきは私なんだ。


苦しそうな彼の表情が切なくて、申し訳なくて、思わず涙が溢れた。


「私こそ、ごめん。誤解させて。」


一旦ここで言葉を切って、大きく息を吸い込んだ。


「私、自分に自信が無いの。過去にね、精神を病んだ時もあるし家出をしたこともある。あなたみたいに見た目が美しいわけでもない。なんの取り柄もないの。だから、あなたの彼女でいることが申し訳なくて。それで、ずっと悩んでた…。」


一息に話して、ふと彼を彼の方を見ると、真っ黒な瞳に悲しそうな色を浮かべて、じーっと私を見つめていた。


見つめあったまま、お互いに無言で時が過ぎた。


もう別れることになっても仕方ないなと思いつつも、やっぱり別れの言葉を言われるのは怖かった。


はあ……。と大きくため息をついた彼は、一瞬どうしようかと宙を見つめて考えている様子だった。


そして、なにかを思いついたようにちょっと顔を輝かせると、意地悪そうな腹黒い笑みを浮かべて私に視線を戻した。


え、なに……。焦る私の気持ちをよそに、怪しげな光を瞳浮かべたかれは口を開いた。


「美沙は……お馬鹿なんですか?僕がそんなことで嫌いになるわけないでしょ?」


ふふっと笑いながら、私の頬をびよーんと引っ張る。


「いひゃい……。」


私の小さな悲鳴を無視した彼は、その後も頬を上下左右に引っ張りながら、言葉を続けた。


「美沙のいい所は、たくさんあるんだよ?例えば、表情が豊かなところとか、謙虚で真面目なところとか、人を思いやる優しい心を持っているところとか、頑張り屋さんなところとか、ね。もう挙げたらキリがないよ。」


頬の痛みからか、彼の言葉が嬉しかったからなのか、じわりと涙が出た。彼は、それを見てクスリとしながら、なお手は話さずに続ける。


「容姿だって、自分で気づいていないだけで凄く綺麗なんだ。全体から醸し出される神秘的で繊細な雰囲気も、黒目がちで楕円形をした大きな瞳も、ほっそりした手足に長い首があって、その上に小さな顔が載っている体の作りも、真っ赤なリンゴみたいな唇も……。すごく綺麗なんだよ。君を始めてみた時、僕は冬の妖精が舞い降りてきたんだと思ったんだ。」


私がコンプレックスに感じていたところを、全て魅力的だと言った彼の言葉が、凄く心に刺さって、今まで抱えていた灰色の重苦しいものが無くなっていくようだった。


とめどなく涙を流す私を見つめて、にっこりと微笑んだ彼は、ようやく頬から手を離すと、ティッシュで涙を拭いてくれた。


その時だった。


ガラガラと病室のドアが開いて、七海さんと俊さんが入ってきた。


「みさっちぃー!もー、心配かけてぇーー!」


そう言った七海さんにぎゅうぎゅうと抱きしめられた。


「大丈夫ですか??」


いつものおふざけモードが完全に消えた、俊さんが、眉根を寄せてきいてくる。


私は、こんなにも多くの人に愛されているのかと思うと、涙がまた頬伝った。


ポツ、ポツ、と音がした。


病室の窓ガラスにくっついた水滴が、冷たい冬の雨が降り出したことを知らせている。


大丈夫。冷たい雨の中でも身体を寄せ合える人がこんなにいるから。


わいわいと騒いでいる3人を眺めながら、明日からの私は、もう少し自信を持って外を歩いて行けるような気がしていた。

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Rainy Day じゅりえっと @Juliette08

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