時雨④

私たちが正式に交際し始めたのは、出会ってから2ヶ月後の6月。雨が降る土曜日だった。


午前7時。


目が覚めて外を見ると、しとしとと雨が降っていた。ネットニュースで気象予報を見ると、今日から梅雨入りと書いてあった。


眠い目を擦りながら、電気ポットに水を入れてお湯を沸かす。


大好きなKelly Rolandの曲をかけながら、鼻歌交じりに朝食の用意をしていると、隣の部屋からコンコンと壁を叩く音がした。


こんな朝早くに珍しいなぁ


と思いながら、コンコンと叩き返す。


SNSを開くと、おはようのメッセージがきていた。おはようとか返信し、“これからこっちに来るの?“と、確認のメッセージを送る。


既読がついて少ししたあと、“やってみただけ笑“と返事がくる。


ちょっと寂しいような、ほっとしたような気持ちになる。会いたい気持ちはあるけれど、さすがに部屋着にすっぴんの姿で会いたくはない。


なんて返信しようか迷っていると、“今日の午後、予定空いてる?“と送られてきた。


今日は丸一日なんの予定もなかった。“空いてるよ“と返信すると、「Yes!!」と嬉しそうな声が、隣の部屋から聞こえてきた。


それだけで嬉しくて、彼の返事が来る前に、朝食作りに取り掛かった。


午前中のうちに家事を終えて、身支度を整えた私は、彼が来るのをのんびりと待っていた。彼の方は、SNSのやり取りのあとしばらくしてから、どこかに出かける気配がして、それっきりだった。


午後12時。


玄関チャイムの音が鳴る。インターホンで確認すると、ずぶ濡れの彼がそこにいた。


急いで玄関に駆け寄りドアを開けると、にこりと微笑んだ彼がお邪魔しますと入ってきた。


「風邪ひいちゃうよ。」


声をかけて、浴室からタオルを持ってこようとすると、珍しく腕をつかまれた。


「行かないで。」


そう言った彼は、そのままぎゅっと私を抱き寄せた。彼の腕の中に収まった私は、思考停止状態となっていった。


雨に濡れたシャツの冷たい感触の下から、伝わってくる肌の温もりが一気に私の心拍数と体温を上昇させる。


「……どうしたの?」


やっとの事で絞り出した声は、緊張で掠れていた。


「ちょっと、出先で嫌なことがあって。」


すっと私の身体から腕を離して、俯いた彼は、目を伏せながらポツリと言った。


彫刻のように整った顔に、一気に哀愁が広がって、やっぱり美しいなと思った。


「そっか……。」


先を続けたくなさそうな彼に、それ以上深堀りすることはできなくて。そう返すことが精一杯だった。


「あの……。これ……。」


しばらく続いた沈黙を破り、彼は小さなブルーの包み差し出した。不思議に思いながら、ありがとうと受け取ると、恥ずかしそうに微笑みながら


「プレゼント。よかったら、開けてみて。」


そう言った。


今日、なんかあったっけ……?


そんなことを思いつつ開けてみると、小さな聖書型のロケットペンダントが入っていた。


「ロケットペンダントなんて古いって、お店の人と喧嘩になって。」


照れながらそう話す彼におかしさと愛しさが込み上げた。


「今日は、僕たちが知り合ってから2ヶ月だから……。その……。」


続きを聞かなくても、彼が何を言わんとしているのかわかった。



照れてうつむき加減になっていた彼が、意を決したように正面を向くと、私の瞳を見つめた。


「浜田美沙さん、よかったら、僕とお付き合いしてください。」


真っ黒な瞳に、真っ直ぐに見つめらて、しばし言葉を失ってしまう。でも、答えなんて考えなくても出ていた。


「私で良ければ。お願いします。昌太さん……。」


勇気を出して名前を呼んでみた。なんだかこそばゆい感じがした。


くしゃりと笑顔になった彼は、「Yes!!」とその場でガッツポーズをして一回転した。そして、ふぅーと大きく息を吐き出して、こんなことを言った。


「もーほんとに緊張したんですよ?断られたら、死んでしまいそうだった…。」


目をうるうるさせながら、そんなことを言う彼が愛しくて、思わずぎゅっと抱きついた。


ちょっと驚いた顔をしたあと、幸せそうに微笑んだ彼は、さっきよりほんの少し強く抱きしめてくれた。


昼食を取りながら、色々と助けてくれた本田さんと畑中さんにそれぞれ報告をする。


どちらからも温かい祝福のメッセージが返ってきた。


本田さんカップルのススメもあり、私たちは社内で交際していることを公表することにした。


公表したとき、最初こそお互いに色々と陰で言われたが、盗聴器や付きまといのような行為はなくなっていった。


こうした嫌がらせ行為がなくなったのは、ひとえに交際していることを周知させたからだけではなく、本田さんや畑中さんの尽力があったからだと思う。


そうして月日は流れ、1年が過ぎた。


相変わらず私たちは平和に仲良く交際していたが、私はちょっとずつ、この人の隣に自分がいてもいいのかという気持ちに苛まれていた。


私が持っている過去は、あまりにも複雑だ。学校でのいじめによって精神を病み、リストカットや、オーバードーズをしたこともある。また、家庭環境があまり良くなかったために家出をした過去もあるのだ。


この類のことは、何となく彼に話したこともあるが、まだまだ秘密にしていることの方が多い。打ち明ける自信もない。


彼は見目麗しいうえに、いい家庭で育っている。


こんな過去があって見た目もごくごく平凡な私が、とても彼と釣り合っているとは思えない。

私のどこが好きで付き合っているのだろう。

そんなことを時々考えてしまうのだった。


そんなモヤモヤした気持ちを誤魔化しながら過ごしていた11月のある雨の日。私は偶然、会社の前で、営業の男性2人が話しているところに遭遇してしまう。


うっかり聞こえた内容は私を中傷するもので、なんとも酷いものだった。「菊池はあんな地味なやつと、なんで付き合っているのか?」とか「体の関係目当てだろう」とか。


本人に言われたわけでもないのに、涙が溢れて辛くなった。


ひとしきり女子トイレにこもって泣いたあと、私は自分のデスクにもどった。


本田さんがいち早く私の異変に気づいて、どうしたのかと訊いてくれたけれど、話すことは到底できなかった。


その日、会社を早退した私は、暗い部屋で電気もつけずに泣いていた。


ピーンポーン


暗い部屋に玄関のチャイムが鳴り響く、なんとなく昌太さんだと思いながら、私は出ることができなかった。


しばらくしてから隣の部屋のドアが開いて閉まる音がした。


ごめんなさい、そう思いながら何も聞かなかったことにする。ふと、部屋の片隅に投げ出されていたスマホの画面が明るくなった。そして、コンコンと壁を叩く音が1度だけ。


気にはなったが、ここでなにかすると自分が何を言い出すのかわからなかったので、何も応答しなかった。


「大丈夫?」


壁越しに小さく、彼の声が聞こえたような気がした。大丈夫なわけはなかったが、うんとだけ答えた。泣きすぎて枯れた声は、あまりにも小さくて、果たして聞こえたかどうかはわからなかった。


いつの間にかウトウトしていたらしい。私は、気がついたら床で眠っていた。


目が重苦しい。そして、身体中が痛い。


シャワーを浴びるべく浴室へ向かって、ふと洗面台の鏡に映った自分の顔を見た。


元々、猫のような楕円形をした目は、泣きすぎて重く腫れており、涙で滲んだアイライナーのせいでより不気味に見えた。青白くて不健康そうな肌も、肩まである長くて真っ黒な髪の毛も、暗闇の中で見ると、よけいに幽霊じみていて、あまりの醜さに目を背けた。


浴室に入っても、鏡は絶対に見ないようにしながらシャワーを浴びる。私は、自分のガリガリで傷だらけの醜い身体が嫌いだった。


昌太さんも七海さんも、俊さんも本当に身も心も綺麗な人だ。人を恨んだり、羨んだり、悪口を言ったりしないもの。


それに比べて、私はどうだろう。


私は、学生時代に私をいじめていたクラスメイトの全員を恨んでいるし、さっき私を悪く言った男のことも、酷い育て方をした親のことも恨んでいる。そして、昌太さんや七海さんたちが心の底からうやましい。


ダメだ、やっぱり私は醜い。


どう頑張っても自分を好きになれなくて、どう足掻いても自分に自信をもてなくて、そんな自分がものすごく嫌いだった。


シャワーの水が流れる音が響く中、私はとめどなく涙を流した。


どのくらい時間が経ったのか。浴室から出て部屋に戻ると、隣の部屋から小さく音楽が流れていた。


“Every thing gonna be alright..“


小さく壁越しに聞こえるそのメロディと音で、Alicia Keysの曲だとわかった。


また、涙が溢れた。


いつだか私が、酷く落ち込んでいる彼を励ますために、この曲聴いてみてとオススメしたのだった。


どうして自分自身でさえ、愛すことなど出来ない私のことを、彼はこんなにも愛してくれるのか。


私は、自分を納得させる答えが見つからないままに、夜明けを迎えたのだった。

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