時雨③
新入社員歓迎会の次の日の話を、初出勤日である月曜日、早々に七海さんこと本田さんに話すこととなった。
配属になった経理課は、私と本田さん以外が男性で、課の社員全て合わせても10人程度。比較的こじんまりとしたオフィスだった。
午前中から覚えることは山ほどあって、お昼休みにはくたくたになっていた。
「お疲れぇ~」
本田さんが熱々の珈琲を両手に持って、にこやかに現れた。そのうちの一つを私に手渡しながら、二人でオフィスがあるビルの外へ出た。中庭までくると、そこにあるベンチに腰掛ける。四月の風は、まだ冷たい。
「ねぇねぇ、この休日のあいだ、例の彼とはなんかあったりしなかったのぉ?」
前のめりになって小声で訊いてくる彼女は、さながら女子高生だ。
なんとなくこの人になら、話しても問題ないような気がして、一から十まで起きたことを話した。
話している最中、「きゃー」と「いやー」とか言いながら、彼女は一人で盛り上がって、話を聞き終えたあとは、興奮冷めやらぬ様子でしきりに「応援する!」と言っていた。
「まだ友達です…。」
応援してくれるのは嬉しいけれど、彼が本当に誠実な人間なのかは未だに確信がもてない。私は、照れながらそう言ったのだった。
私の言葉を聞いた本田さんは、急に真面目な顔つきになった。そして、こう言った。
「友達未満恋人以上の関係をいつまで続けるつもりなのかは分からないけど、あんまり長引かせないほうがいいわね。あたしは、あなたに対してなにかしてくる人のことなら対処出来るけど、彼の方までは無理だから。」
確かに、言う通りだと思った。そして、私のことをここまで考えてくれる人が先輩だということが素直に嬉しい気持ちだった。私が黙っていると、彼女がが言葉を続けた。
「とにかくぅ、難しいことはさておきよぉ!みさっちはもっと自分に自信をもって!だってぇあんた可愛いもん!」
屈託ない微笑みでそう言うと、私の頭をわしゃわしゃとした。
ぐぅと二人のお腹が鳴った。
よく考えたら、私たちは何も食べず話し込んでいた。時計を見た本田さんは、焦って立ち上がる。私も腕時計を確認して、目が点になった。
午後12時45分
お昼休みは、残り4分の1しか無くなっていた。大変、大変と大慌てしながら、近くにあった自動販売機で菓子パンを購入し、かじりながらオフィスまでもどった。
他の会社の人にじろじろ見られているような気がしたけど、本田さんが一緒だったからか、不思議と平気だった。
何とか午後の就業時間に間に合って席に戻ると、ゆったりしている暇もなく、あれやこれやと教わった。
あっという間に退勤時間になり、私は帰り支度を始めた。ゆっくり荷物を詰め込んでいると、私のデスクから数メートル先にある出入口がザワザワとしていることに気がついた。
みんな早く帰りたいんだな。
そんなことを思っていたが、どうやら違うようだ。ちらりと顔だけそちらに向けてみると、菊池君らしきシルエットと、その周りに集まっている男女の姿が見えた。
嬉しいような嫌なような複雑な気持ちになってソワソワとしていると、コツコツとヒールの音がして、ふわりと柑橘系の香水の香りがした。
「大丈夫。あたしがいるから。」
後ろから声がして、そちらを振り向くと帰り支度を整えた本田さん…ともう1人、男性が立っていた。
午前中に何度か仕事を教えてくれた男性で、畑中という名前だった。この男性は、この部署のいわゆるムードメーカーだったので、何となく印象に残っていた。切れ長の瞳に子犬のような笑顔が特徴的な、明るくて面白い人。
「僕は、畑中俊ですっ!よろしくお願いしまうますっ!ふふ…」
自分で言って、何故か自分でウケている。私は苦笑いすることしか出来なかった。
「畑中くん、面白くない!しょうもないからやめな!」
見かねた本田さんが一刀両断すると、しょぼんと肩を落とした。
私たち3人は、連れ立って出入口まで歩いた。そこはまだザワザワとしていて、見知ったシルエットがキョロキョロとこちらを見ていた。
人だかりから少し離れたところまで来た時、本田さんが畑中さんにコソッとなにか耳打ちした。畑中さんは、分かりましたと小声で言って、1人、人だかりの中へ消えていった。
何が起きているのか分からない私は、不安そうに本田さんに視線を送った。彼女は、大丈夫と小声で言うと、ぽんと私の肩に手を置いた。
しばらくすると、「みなさんなにか経理に用事ですかー?」と言う畑中さんの声が聞こえてきた。すると、キャーキャー言う女性の声とともに、人だかりがほんの少し減った。
「ちょっとここで待っててねぇ。」
そう言うと、今度は本田さんが人だかりの方へ歩いていった。手前で足を止めた彼女は、群がっている女性のたちに
「あんたたたち!!なんなのか知らないけど、さっさと帰って!!仕事の邪魔よ!!」
大声で怒った。
「なによ」という小さな声があちこちであがるなか、菊池君の不機嫌そうでいてはっきりとした声が聞こえてきた。
「僕は、経理の浜田さんに用があるんです。他の方は知りませんけれど。」
彼を取り囲んでいた女性たちがざわざわ、ひそひそとしているのが、空気感で伝わった。
「彼はそういうことみたいだけどぉ、あなた達も誰かに用事があるわけぇ??」
本田さんのイライラした声が響いて、諦めたように女性たちが解散した。
通路に人がいなくなったのを見計らって、彼女は静かに、菊池君に来なさいと促した。部屋に入ってきた彼は、私を見つけて照れたように微笑んでいる。
「ちょっとぉ、そこから動かないで。」
背後にいる菊池君に声をかけて、出入口付近の廊下をキョロキョロと見渡した本田さんは、大丈夫そうだと判断したタイミングでドアを閉めた。そして、菊池君を背後からじーっと見て、正面に回り込み、またじーっと見つめた。
「上着、貸しなさい。」
本田さんの、突拍子もない発言に驚いたのは、彼だけでなく私もだった。
「なんでですか?」
明らかに不機嫌そうに、菊池君が訊いたのと同時に、私も訊いていた。二人の声が重なって私は照れくさくなってしまった。
そっと2人のいる方向をうかがうと、笑いを堪えている本田さんの姿と、耳がほんのり赤くなっている菊池君の姿が見えた。
「ふふふ……。もうダメ……。」
耐えかねたように本田さんが笑い出す。
「笑わないでください……。」
また、私たちの声は重なった。いよいよ本当に恥ずかしくなって、私は、顔をおおって黙った。
「はぁ〜。困ったわね。」
笑いながら、彼女は困ったように眉根を寄せると、とにかく上着を寄越して、と菊池君に促した。
ため息を着いた彼は、観念したように上着を脱ぐと、彼女に差し出した。
何かを探すように、前身と後身を入念に調べていた彼女は、内ポケットになにかを発見して取り出した。小さな丸いそれを床に置くと、ピンヒールの踵で思いっきり踏み潰した。
「やっぱりねぇ……。」
もう動いて大丈夫といいながら、菊池君に上着を返すと、ぐちゃぐちゃに潰れた丸い何かを拾い上げて、私たちの元に来た。
私は何かわからなかったが、彼の方はカッと目を見開いて、それを凝視している。
「それ、なんですか?」
私は訊いた。
「盗聴器。」
本田さんが答えるよりも早く、ポツリと呟いた菊池君は、なんでこんなものがと頭を抱えた。
その時、ガラガラと音がして部屋のドアが開いた。ハッとしてそちらを見ると畑中さんが疲れた顔をして帰ってきた。
「は〜、大変だったよぉ〜。ななちゃん勘弁してよぉ〜。」
きちんとドアを閉めて、ふらりとこちらへ来ると、本田さんの近くにあるデスクから椅子を引き出し、どかっと座る。
あまりのタイミングの悪さにその場にいた全員がやれやれと困った顔をした。
「あのねぇ、しゅんちゃぁん。タイミング悪すぎぃ。しかもうるさいっ。」
本田さんに厳しい一言をかけられて、またもしょぼんと肩を落とす畑中さんは、飼い主に怒られた子犬のようだった。
あれ……。“ななちゃん“ に “しゅんちゃん?“
ハッと本田さんを見上げると、にこっと微笑まれる。
「あたしたちがくっつくかくっつかないかって時も、あったわよねぇ。これ。」
本田さんは、畑中さんの目の前に、ひらひらと潰れた盗聴器を見せる。ちらりと目だけでそれを確認した畑中さんは、驚くほど冷静にこう言った。
「あー……。もーそれは見飽きたなぁ。」
なんて物騒な会社なんだ……。
きっと菊池君も同じことを思ったに違いない。驚愕した顔でこっちを見ていた。
「まあ、とにかくよっ。こういうことが多くなると思うからぁ、上着は肌身離さず持っていることっ。ポケットにぃ物を入れないことっ。定期的にカバンとポケットはぁチェックすることっ。あとはぁ……そう、スマホ!!絶対どっかに置きっぱなしにしないでっ!」
本田さんは一気にそう言った。
「あ、同性の社員にも気をつけてっ!君達を妬んでるやつは、いっぱいいるから!」
畑中さんからも忠告された。
不安そうに私と菊池君が顔を見合わせていると、まあ、私たちがいるからと励まされた。
何か気になることがあったらいつでも相談してと、4人全員が連絡先を交換し合ってビルを出た。最寄り駅まで歩いた私たち4人は2人組になって解散し、それぞれの帰路に着いた。
それから、彼と正式にお付き合いするまでの2ヶ月間、私たちは必ずに4人で帰るようになった。
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