時雨②



なになになに…!?


正直、私の頭の中はパニックを起こしていた。ただ一つだけ確信したのは、この状況をどうにかできるのは、自分でしかないということだった。


とりあえず、目の前の彼に視線を戻すと、さっきまでの鋭さはどこへやら、何故かぼんやりと私を見つめている。


「あの…、私、気にしてませんので…ほ、ほんとうに大丈夫です。」


戸惑いながら私が言うと、彼は一瞬だけハッとした表情をし、もとのキリっとした表情にもどった。そして、そそくさと立ち上がると腕時計にちらりと目を向け、


「申し訳ございませんが、電車の時間が迫っているのでお先に失礼致します。この度は、このような会を開いてくださってありがとうございました。」


と、丁寧にお辞儀をして去っていった。


あまりの出来事に、私も含めてほとんどみんなが唖然とした。


しばらくぼーっとしていると、誰かに脇腹をつんつんとつつかれた。そっちを見ると、本田さんが、さも可笑しそうな顔をしながら私を見つめている。


「なんですか~。」


むすっとして軽く睨みながら彼女に問うと、ふふふと笑った彼女が


「とりあえずお店出よっかぁ」


とあっけらかんと言った。


私が先輩社員の方々に挨拶をするのを待って、私たちは外へ出た。


一部の女性社員の方々には無視され、一部の男性社員の方々には連絡先の交換を迫れ、正直大変だった。その度に後ろについていてくれた彼女が何とかしてくれた。


外に出ると、ひんやりした四月の空気に心地よく包まれた。


「ね~みさっちぃ。本当になんにもわかってないのぉ?」


クスクス笑いながら先に言葉を発したのは、本田さんだった。


「七海さん。さっきから何をおっしゃっているんですか!」


さっぱり何がなんだか分からない私は、抗議の声をあげた。


「あの子、ほら、菊池くんだっけ。絶対みさっちのこと好きだよ。間違いない!」


クスクス笑いながら、彼女はまた、とんでもない発言をした。


「いやいやいや。そんな訳ないですよ!だって普通、好きな人にあんな変な態度とります??」


私の全否定の言葉を聞いて、本田さん、もとい七海さんは、堪えきれなくなったように大爆笑をした。


呆気に取られて見守ること数分、笑いすぎて目に涙を浮かべた七海さんは、その涙をハンカチでささっと拭くとこう言った。


「まぁ、私に任せなさい」


そんな会話をしていると、ぞろぞろと他の社員さんたちも外に出てきた。どうやら、菊池優太がいなくなって、女性社員の方々の間に"私たちも帰ろうか"という雰囲気が漂い、会はお開きとなったらしい。


私と七海さんは、連絡先を交換してから駅まで一緒に歩き、改札前でそれぞれの帰路に着いた。



その日の夜、一人暮らしの部屋に帰宅した私は、すぐにベットに倒れこみ、仮眠を取るだけだと自分に言い訳をしながら、朝までぐっすり眠ってしまった。


「ちょっと!いくらなんでも初日から遅刻はダメよ!!」


本田さんの怒った声が聞こえて、ガバッと起き上がり、慌ててスマホの画面で時間を確認する。今日は土曜日で時刻はまだ午前5時。


夢か…。


ホッとしてもう一度眠りに就こうとしたが、違和感を感じてまた起き上がる。


昨日来ていた紺色のジャケットが無造作に床に落ちている。顔を触ってみるとうっすらと手のひらにファンデーションがついた。


やらかした…。


昨日の記憶を辿ってみるも、どうやって家にたどり着いたのかすら思い出せない。


諦めた私は、スマホを片手に浴室へ向かい、音楽をかけようとホーム画面を開いて、SNSの通知と不在着信が数件きているのを発見した。


不在着信は全て実家からで、SNSもほとんどが母親からだったが、その中に本田さんからのメッセージと、会社のグループトークへの参加招待が混ざっていた。


とりあえず本田さんに、昨日のお礼を伝えるメッセージを送り、グループトークに参加しておいた。


シャワーを浴びていると、早朝だというのに本田さんから返信が来る。SNSでくらい名前で呼んでよ~というもので、思わず笑ってしまった。


私は、仕事と私生活をきっちり分けたいタイプの人間だ。だから、職場では名字呼び、オフの日は名前呼びと決めている。


浴室から出た私は、いそいそと母親に謝罪のメッセージを送ったあと、朝のお散歩へと出かけることにした。


時刻は午前6時30分だった。


玄関を開けて外へ出ようとしたちょうどその時、隣の部屋のドアも開いた。


目の前に現れた人物のスラリとしたシルエットには、見覚えがあった。瞬間、昨日のことが走馬灯のように頭を駆け巡り、この後に起こるであろう嫌な展開を予測して、私は固まってしまった。


玄関のドアノブを握り、左半分だけ外に出した状態のまま、私は外に出た隣の住人と見事に目が合ってしまう。"菊池昌太" 紛れもなく本人である。


「お、おはようございます…。」


なんとか頑張って笑顔を作った私は、戸惑いながら声をかけた。


驚いたように目を見開いたまま彼はしばらく黙っていたが、ぎこちない笑顔で慌てて挨拶を返すと、バタンとドアを閉めて慌ただしく鍵を探し始めた。


しばらくのあいだ、私は呆気にとられて見ていることしかできなかった。しかし、昨日といい今日といい、私に対する彼の態度は明らかにおかしい。まるでお化けを見てしまったかのように硬直し、慌て始める。


だんだん腹が立ってきた私は、玄関から外に出て彼の前に立ちはだかり、喧嘩をふっかけた。


「あなた、同じ会社の菊池さんですよね?私たちって、過去に何か揉めましたっけ?それとも、私の見た目ってそんなにお化けっぽいんですか??」


目の前に仁王立ちしてまくし立てた私を見て、彼は動きを止めると、困ったように視線を宙に泳がせた。


「困ったなぁ…。」


長い沈黙が続き、私はその間中ずっと彼を睨んでいた。小さくため息をついて、最初に沈黙を破ったのは彼だった。視線を下に落としてポツリと呟いたのだ。


「実は…、あの…、あなたに一目惚れをしてしまって…。信じてくれないかもしれないんですけど…。」


俯いて照れくさそうにはにかみながら、本当に困ったように、恥ずかしそうに彼はそう言った。


え、何この人。可愛い…。


予想だにしていなかった彼の言葉と、普段のクールでしっかりしていそうな様子からは想像できない仕草に心底驚いて、そのギャップに少しだけキュンとしてしまった。


しかし、本当に彼の言葉を真に受けてしまってもいいのだろうかという疑問が頭をよぎった。そもそも、彼と関わった記憶などないし、会社には私よりも可愛くて綺麗な女性などたくさんいる。おまけに彼はイケメンである。きっと女性に困ったことなどないはずだ。ひょっとしたら、誰にでも言っているのかもしれない。


急に黙ってしまった私を、彼は不安そうな表情で見つめている。


ああ、困った…。


思考停止しそうな脳を無理やりに働かせて、出てきた言葉が


「お友達からお願いします。」


この一言だった。あまりにも平凡すぎる言葉に、我ながら笑えてくる。


私の言葉を聞いた彼は、さっきまでの不安そうな表情から一転し、嬉しそうな少し残念そうな表情をした。キラキラと目を輝かせながら、右手を差し出すと


「じゃあ、これからよろしくお願いしますねっ!み、美沙さん…。」


照れ笑いしながらこう言った。


「よろしくお願いします。んとー、き、菊池君?」


急に名前で呼ばれたことが、なんだかくすぐったくて、困惑しながら右手を差し出した。男性を名前で呼ぶことに慣れていない私は、苗字に君付けが精一杯だった。


「んー、菊池君か~。できたら名前で読んで欲しいんだけどなぁ…」


繋いだ手にきゅっと力を込めた彼は、ほんの少し目を伏せながら残念そうに呟いた。


その表情があまりにも美しくて、可愛らしくて、どきっとしてしまう。


「こ、これが精一杯ですっ!」


それを悟られまいと平静を装おって私はそう言うと、そそくさと手を離した。


その日、私たちは丸一日一緒に過ごした。家の周辺をぐるぐるお散歩したり、隣の駅のカフェでのんびりモーニングを食べながらお話したり、なかなか楽しい一日だった。


ただ、容姿端麗な彼が隣にいるからか、どこに行っても注目の的となった。彼とすれ違うたびに、多くの女性が振り返り、見つめ、ため息をついた。そのなかには、隣にいる私に敵意と羨望の入り混じった嫌な視線を送ってくる人や、明らかに悪意のある言葉をかけてくる人もいた。


昔から私はイジメられっ子だったため、そうした心無い言葉や悪意のある視線には慣れていた。ただ、その当時の影響からか、はたまた生まれ育った環境のせいからか、自己肯定感というものも著しく低いため、こんな私がこの人のそばにいていいのだろうかという不安はいつも付きまとっていた。


ただ、そんな言葉をかけてくる人がいても、彼はいつも気にするなと言って、優しく微笑みかけてくれた。



丸一日一緒に過ごしてみて、彼と私とは驚く程に共通点があったことが判明した。まず、驚いたことに、出身の県が一緒だった。私の地元は、福島の県南である。就職を機に東京へ引っ越してきたのだ。一方彼は、福島の県央であった。彼は進学のタイミングで東京に引越しをしてきたらしいので、彼のほうが先に今のアパートに住んでいる。それから、読書や洋画や洋楽といった趣味関係。本も映画もミステリが好きなところ、洋楽を聴くなら絶対にR&Bというところまで共通だった。


それから意外な一面も発見した。絶対にオカルトの類は信じなさそうに見えるのに、実は結構信じていて怖がりだということ。クールに見えるけど結構表情豊かでよく笑うし、ふざけたりすること。ちょっと意地悪なこと。


たった一日一緒に過ごしただけなのに、たくさんの驚きと発見があって、気づいたときには、気になる存在になっていた。


午後8時


されぞれの玄関前でおやすみとさようならを言い合って、帰宅したとき、スマホがなった。見てみると、会社のグループトークだった。


業務連絡のメッセージを確認して、画面を閉じようとし、あることに気がついた。


あ、菊池君と連絡先交換するの忘れてた。


直後、ピンポンと玄関チャイムが鳴った。インターホンを見ると、偶然にも菊池君の姿があった。インターホン越しに彼は、


「あの…、美沙さんと連絡先交換してなかったなって…。」


と、申し訳なさそうに話した。


その様子がなんだか可愛らしくてふふふと笑みがこぼれた。


スマホを持って外に出ると、困ったように微笑む菊池君が立っていた。


「あんまり夜遅くに訪ねたくはなかったんですけど…。美沙さんが良ければ、これからもお休みの日に会いたいから…。」


そんなことを言いながら、SNSのQRコードの画面を遠慮がちに差し出してくる。


「ありがとう。」


気遣いも、会いたいと言ってくれることも素直に嬉しくて、ニコリとしながら差し出された画面を読み込んだ。彼のプロフィールが私のアプリに表示されたのを確認して、彼は微笑みながらおやすみと言った。


おやすみと返して、ふと思いついたことを口にしてみた。


「今度からお互いの部屋へ訪問する時は、仕切りになってる壁を2回ノックしてからにするのはどう??」


彼はしばらく考えてから、そうしましょうと答えた。


そうして私たちは、友達以上恋人未満の関係を2ヶ月続けたのだった。

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