時雨①

「浜田さぁーん、この書類、営業に持って行ってくれるぅ??」


襲い来る睡魔と戦いながらパソコン入力をしていた私は、不意に上司に名前を呼ばれてハッとした。


現在、時刻は午後2時。


昼休みを終えてからのパソコン業務は、毎日眠気との戦いである。


「はーい。」


デスクの影に隠れ、どこにいるのか姿が見えない上司にむかって大声で返事をすると、私はノロノロと椅子から立ち上がった。


パソコンの画面にロックをかけながら、キョロキョロと私の上司である本田さんの姿を探す。


すると、奥のデスクの影から、ちょっと高くて鼻にかかったような、独特の彼女の声が小さく聞こえた。


あぁ、また新人指導か…。


私の会社において、奥のデスクというのは、専ら派遣さんや新人さんが使用しているのだ。


足早にそちらへ近づいていくと、足音で気がついたらしく、彼女の話し声が一瞬止まり、立ち並ぶパソコンの影からひょっこりと顔が覗きでてきた。


「こっち、こっちぃー!!」


キャピキャピと嬉しそうに手を振る彼女に手を振り返しながら、急ぎ足で彼女の方へ向かう。


「はぁい、これ営業に持っていってねぇ~!」


元気にそう言いながら、まあまあな枚数の書類を手渡してくる。


「かしこまりました。」


返事をしながら、しばしうっとりと彼女を見つめてしまう。


本当に綺麗な人…。


パッチリとした大きな二重。うっすらと茶色がかった黒目は、長いまつげで囲まれている。血色がいい肌にはオレンジ色のチークが程よく色づいていて、全体的に厚みのない唇に塗られたリップは、チークと同じオレンジ色だ。


服装やメイクの全てが彼女の持っている雰囲気と調和していて、全体的にハツラツとした印象を与えている。とても30代とは思えない。おまけに性格もいい。


「なぁーに、ぼーっとしてんのよ!」


ふふっと微笑みながら、彼女が私の肩をパシっと叩く。


「あぁ、もしかしてっ…」


ふと、何かを思いつたようにパッと顔を明るくすると、ニヤニヤといたずらな笑みを浮かべながら私の方へにじり寄ってくる。


「菊池君いるかなぁーって考えてた??」


小声で言いながら私の脇腹をつついてくる彼女は、とても愉快そうだ。


本当に可愛らしい人だと思う。


「いえ、そんな…。もーやめてくださいよ~。」


そんな彼女に対し、私は困ったように笑いながら、小さく抗議の声をあげることしかできない。


なぜなら、最近の私は、彼の彼女であるということが、あまり嬉しく思えないからである。


書類を持ってその場を離れようとした時、彼女はこうつけ加えた。


「まあ、元気そうでよかったぁ。昨日、顔色悪かったし、心配してたのよねぇ。」


急に真剣な顔になった彼女は


「本当に、何か起きる前に相談するのよ?私はあなたの上司であり、友達なんだから。」


そう言った。


営業課……。本当は行きたくない。彼には悪いけど、今は会いたくない。


しかし、これは仕事である。悩んでいる暇などない。本田さんに、大丈夫ですと言って踵を返すと、オフィスを出て、エレベーターホールへと早歩きで進んだ。



私、浜田美沙は、営業課のエースである菊池昌太と交際している。


そしてこの関係は、およそ1年半年ほど続いている。


彼は、営業課のエースと言われるだけあって、本当に仕事ができる。


私の勤めている会社は、とあるアパレルブランドの本社なのだが、毎回地方の大型モールへ商談に行っては、ブランド進出のために最適なフロアを、最適な坪数で契約してきているらしい。


"らしい"というのは、私は経理の担当であって営業ではないため、今回のように営業のフロアへ行くことになった際に、そこの人たちからなんとなく聞かされて知っているというだけだからである。


いつぞや、本人にこのたぐいの話をし、すごいねと言ったことがあったが、全然そんなことはないと、穏やかな微笑みと共に軽く否定された。


彼と出会ったのは、会社の同期として参加した新入社員歓迎会での飲み会だった。そこで私たちは、たまたま向かいの席だったのである。


新入社員といっても、アパレルの本社に勤務する新入社員というものは非常に少なく、私が入社したとき、彼と私としかいなかった。


飲み会で、初めて彼を見たときのことを、私は今でもはっきりと覚えている。


細身で背が高く、爽やかな人。ベリーショートの黒髪に彫りの深い顔立ちは、"真面目そう" や "硬派" という言葉がよく似合っていた。世間で言うイケメン。


「菊池昌太です。」


落ち着いた温かみのある声で自己紹介をした彼は、新入社員とは思えないどっしりとしたオーラがあり、その場にいた先輩たちは、良くも悪くもざわついていた。


飲み会では、彼が先に自己紹介をし、私が2番目だった。何とも言えないざわざわした空気のなかで、自分が何を話したのかはあまりよく覚えていない。


その場にいた全員の自己紹介が終わり、乾杯をすると、彼の周りに人が集まってきた。案の定、大半は女性社員。彼と向かい合わせで座っていた私は、先輩社員の1人に席を替わって欲しいと頼まれ、快く席を譲った。


私は昔から、大勢の人と話すこともお酒を飲むことも苦手だったし、イケメンにもそれほどの関心がなかった。


はじの席に座り、黙々と料理を口に運んでいると、後に私の上司となる本田さんが隣に座り、話しかけてきた。


「あたし、本田七海!よろしくねぇ!」


ほんの少し高くて鼻にかかったような声。見ているだけでこっちも笑顔になってしまうような、キラキラと輝く笑顔。ふわりと香る柑橘系の香水と、オレンジブラウンの巻き髪がよく似合う素敵な人だった。


「浜田美沙です。よろしくお願いします。」


彼女から出ているキラキラオーラに圧倒されながら、無難な言葉を口にする。


「美沙ちゃんねぇ。あっ、あたしのこと七海って呼んでね!」


ニコニコしながら差し出された手を、私は恐る恐る握り、よろしくお願いしますと口にした。



意外なことに、本田さんと私とは共通する部分が多くあった。趣味が読書であること、洋楽をよく聴くこと、実はお酒が弱いことなどなど。


好みの本や音楽のジャンルは違うものの、話していてとても楽しく、気づくとお互いを下の名前で呼び合うほどに仲良くなっていた。


この人が上司だったらいいな、という淡い期待を込めて所属の部署を訊いてみると、なんと彼女は私が配属になった経理課の先輩だった。


本田さんとの会話は本当に楽しかったのだが、私は始終、時々背中に感じる誰かの視線が気になっていた。


一人でモヤモヤしていると、向かい合って話していた本田さんが小声でこんなことを言った。


「ねぇねぇ、さっきからあの新人くん、ちらちらみさっちのこと見てる気がするぅ。」


え、と思考が止まったあとに、いやいやいやいやいや!!ないないないない!!ぜっっっっったい有り得ない!!と心の中で全力否定をした。


「いや、まっさか~。そんな訳ないですよ~。」


動揺を隠しつつ、小声で否定した。


私はなるべく平和に生活をしたいのだ。どんな理由であれ、彼と関わったが最後、この会社での平和な生活は永久に手に入らないであろう。


しかし、その後もしばしば視線を感じ、とうとう私は気になって、恐る恐る振り返ってみたのだった。


大勢の酔っ払った女性と男性がごった返しているなか、私と視線がぶつかった人物は、驚くことに、やはりその中心にいる人物だった。


お酒に酔っているのか、彼の目は据わっていて、獲物を捕らえるワシのようにじっとこちらを見ている。


わわっ、なんだろう。


なんだか少し怖かった。


しかし、私と視線がぶつかった瞬間に、彼はふい、と視線を下に逸らして、何事もなかったかのようにテーブルの上のグラスを口に運んでいった。


うわ。なーんか、嫌な感じだ。


何とも言えない気持ちになりながら、私もまた元の方を向く。すると、一部始終を見ていた本田さんがあっさりとこう言い放った。


「ちょっと!菊池昌太!こっちに来なさい!」


ええええ…。


ガヤガヤしていた部屋が一瞬にして静まり返った。あちこちで、なになにという声やヒソヒソと何かを話す声が聞こえてくる。


「早く!こっちに来なさい!!」


焦る私をよそに、本田さんは大きな声で彼を呼び出した。


しばらくすると、渋々という感じで彼がのっそり現れた。


「みさっちに謝って。」


彼の姿を認めると、すかさず彼女は言い放つ。


「だれ」という声や「なんで」という声が、あちこちから聞こえてくる。


やれやれという顔をして、彼は私をちらりと見た。真っ黒な瞳に射抜かれて、ぎくりとする。


「先程は失礼致しました。」


彼は膝をつくと、さながら騎士のような仕草で私に謝罪をした。


女性社員たちの黄色い歓声で、またその場がどよめいた。時を同じくして、私に対しての鋭い視線も注がれた。


「あ、いいえ。とんでもないです。」


なんとしてもこの気まずい空気から逃れたくて、私は自分が持っている愛嬌をフルパワーで発揮し、彼の目を見据えると全力の笑顔でそうこたえた。


また、会場がざわざわとどよめいた。今度はなにやら男性の声も聞こえてくる。怖くなった私は、彼の顔から視線を外し、隣の本田さんの方を見た。


彼女は、いたずらそうな笑みをたたえて、私をニコニコとみている。

























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