遺伝する思考

おこげ

第1話

 男は一人路地を急いでいた。


 冬空の下。

 吹き付ける向かい風に乗って、玉雪の槍が容赦なく男の顔面を突き刺してくる。


 薄汚れた灰色の空はどこまでも陰鬱で、 美しいはずの銀世界をどこか不吉な気配に染め上げているかのようだ。


 だが男は凍えるような寒さに身を丸めながらも、ただ真っ直ぐ前だけを見据えて積雪の街を足早に進んでいた。

 指先がかじかむのも構わずに、不穏を掻き消すほどの光をその瞳に溜め込んで――。



 男が目指すのは市立病院、産婦人科だ。



 愛する妻が無事に出産したとの連絡が病院から会社にあったのだ。


 男は小さな広告会社に勤めている。当然この日も勤務日ではあったが、課長始め、部署の全員が快く男を送り出してくれた。



 今の時代、子はまさに宝である。


 十年前の法律改案により、日本では両親の優れた遺伝子のみを抽出することで、ずば抜けた知能の子どもを産むことができるようになった。


 それにより誕生した新生児は平年の1.5倍の知能を有するようになり、年齢が二桁に達した第一世代たちにおいては、既に学士級の知識を保持している。


 古臭い道徳観念から解放された人間社会。日本の科学技術は更にこの先十年で飛躍的に発展するだろうと言われている。



 だが男にとってそんなことはどうでもいいことだった。

 なんたって子どもが産まれたのだ。自分と最愛の妻との間に新たな命が誕生したのだ。これほど心躍る喜びはありえないと男は胸を張って言える。



 しかし、同時に少しばかりの不安の種もあった。



 (俺は本当に子育てが出来るのだろうか……)



 息せき切る男。

 熱く白い息を顔に浴びながら、自身の幼少期を振り返る――。


 DV……ネグレクト……そんな単語ばかりが記憶を塗り固めていた。



 (いいや、大丈夫だ!俺はあんな男とは違うっ!)



 ぶんぶんと激しくかぶりを振る。

 くだらない妄想と自分に言い聞かせ、芽の出る間に弱い心根を握り潰した。



 時刻は午後二時まえ。


 すっかり足許が白で埋め尽くされた街には男以外に歩行者の姿は見られない。男も本来はタクシーに乗車していたのだが、この雪の量だ。車道は凍結で渋滞してしまい、一向に進む様子がなかった。ネット情報によれば電車も発車を見合わせているらしい。


 たった二駅分の距離なのだからと、男は意を決してタクシーの扉を開けると、無鉄砲にも立ち往生する自動車の群れへと飛び出していったのだった。



 男の我が子に向ける愛は本物だ。大した感情も持てないのならば、ここまで必死になるはずがない。


 聖なる夜クリスマスに雪が降ることを多くのカップルは幸福だと感じる。

 だったら出産日に積もるほどの雪が降ることも同様ではないか。生命の喜びに、空が、世界が祝福してくれている。


 どれだけ過酷な道のりだろうと、男は意に介さず前向きに捉えていた。全ては子のため妻のため。家族が自分を待ってくれている――それだけで夫として、父として、男は全力になれた。



 なのに。

 

 それなのに、男は脚を止めた。

 自分の前方を突然見知らぬ若者が塞いだからだ。


 それはまさしく“現れた”と表現するべきものだった。

 脇道からやって来たわけでも、最初からその場に突っ立っていたわけでもない。雪しかない街の景観に突如として出現したのだ。若者の周辺に足跡は一切なく、驚き立ち尽くす男の方をただ睨むばかりだった。



 何が起こったのかさっぱりではあったが、男はなぜか全身から敵意を放つ若者に向かって声を上げた。


 「何だ君はっ。何でそんな怒った顔を俺に向ける!俺に用でもあるのか!」

 「ああ。とても大事な用事がな」


 若者の口調は落ち着いていた。

 少しささくれた、けれどもどこか聞き心地の良い声だった。まるで毎日のように聞き続けていて、耳が慣れ親しんでいるような――。


 そこで若者の声が自分の声に似ているのだと気付いた。



 「そうか。ならじっくり話は聞いてやる。だがな、俺は今急いでるんだ。妻が子どもを産んだとついさっき連絡があった。早急に駆けつけてやりたいが、生憎の天候で交通網は壊滅的だ。だからこうして自分の脚で病院へ向かっている。大切な日なんだ。君にも分かるだろう?家族というものがどんなものかを。何を怒っているのかは知らないが、とにかく後にしてくれないか。後でならいくらでも時間を作ろう」



 恨みを買われるようなことに身に覚えはなかったが、若者の瞳に宿る憎悪は間違いないものだった。男は若者をヘタに刺激しないよう提案してみたのだが。



 「その必要はない」


 若者の淡白な声は白い靄となって空に融けていく。男の頼みはたったひと言で掻き消されてしまった。


 吹き付ける雪風の音だけが二人の間に響く。



 「なんなんだ君は!」


 男の怒声が空気を切り裂いた。


 「必要がないだと……?こっちが急いでるにも拘わらず謙虚な物言いをしてやっているというにっ!我が子との初対面をコケにする気か!」


 憤慨する男。

 男の呼吸はますます荒くなる。


 「だいたい君は誰なんだ!俺は君みたいな子どもを知らない。こんな寒空の下で、赤の他人を足止めするような子どもを!」



 その時、若者は突然ケタケタと笑い出した。

 首をもたげ、雲に覆われた空へと甲高い声を轟かせる。


 その光景に男はびくりと身体が跳ねた。



 「確かにあんたは知らないだろうな。だがな、俺はあんたのことを知っている。それもとても深く、ずっと間近で見てきた」

 「な、何を言ってるんだ……君はいったい……」


 男の声は震えていた。冬の寒気かんきに体温を奪われ、眼の前の不気味な若者に恐怖を覚えて。



 「あんたはさっき、我が子との初対面を素晴らしいことのように言っていたな」

 「そ、それがどうした?」

 「だったら喜ぶといい。なんせ俺は十八年後の未来からやって来たあんたの息子なんだからな」

 「なにを……何を言ってるんだ。未来から?そんな馬鹿げた話をしたくて俺を邪魔してるのか……ふざけてるのかっ!」

 「だったら証拠を見せよう」


 言って、若者はズボンのポケットから何かを取り出した。手のひら大の、真ん丸とした機械の塊だった。機械中央の縁周りは僅かに細い溝ができている。



 若者はその溝と平行に球体の上下を両手で持つと、そのまま拈った。


 瞬間、男は眼を見張った。


 球体はまるで意思を持ったかのように若者の手から離れ、宙空に浮いたのだ。

 上部と下部とが自動的に逆回転を続けている。


 やがてボルトが外れたみたく球体は二つに分離し、両端からバチバチと青い稲妻を発生させ始めた。機械同士の距離は縦に広がり続け、人の背丈ほどになったところでその場で浮遊するだけに留まった。


 二対の機械は筋のような青い光に繋がれる形で細長い隙間を作り出していた。

 ビルとビルとの間にあるような狭い通路のように、人がちょうど行き来できそうな空間だった。



 「俺はこのタイムゲートを使って十八年前の今日、俺が産まれた日まで時間を遡ってきた。全てはあんたを殺すため」


 男は耳を疑った。


 殺す?

 聞き間違いではなかろうか。


 あまりにも非現実的な状況に男の頭では理解が追いつかないでいた。



 だがそうこうしているうちに若者は胸ポケットに手を入れ、引き抜いた手には銃のようなものが握られていた。


 それだけは混乱する男でもよく分かった。

 モラルを吐き捨てるための道具。

 圧倒的な死の象徴。


 自分はこの初対面の若者に、今殺されようとしている――。



 男は一歩後退った。だが若者はさらに二歩脚を踏み出して、距離を詰め寄ってくる。その動きに男の顔は引き攣る。もう一方の脚で再度後ろに下がろうとしたが、膝に力が入らず、男はそのまま雪道のなかに尻餅をついてしまった。

 銃口を向けられ、若者のなかに渦巻く殺意をその身に受けた男は、とっくに肉体の内側までもが恐怖に縛り付けられていた。



 若者は言う。


 「あんた、さっきこうも言ったよな?家族がどんなものかって。ああ、よーく知ってるよ。あんたの心の底に眠る、ヘドロのように腐ったもんだってな」


 心を殺したように、とても静かで感情の起伏がほとんどない。ただ眼前に転がるガラクタへの、独白だった。


 「愛する妻?可愛い我が子?そんなもん、あんたの思い描いたくだらない妄想だろ。ガキの頃の俺によく言ってたぜ。『お前の爺さんはとんだクズ野郎だった』って。毎日のように虐待されてたんだよな?だから俺にも同じ思いを味わわせてやりたかったんだよな?今でもあんたが言ってた言葉が耳にこびり付いてるよ。『これが教育だ』ってな」


 男には若者の言葉がまったく入ってこないでいた。何を口にされようと、自分に向けられるものは全て悪に満ちているものにしか感じられなかった。男の視界にはもはや闇しか映らない――。


 「くだらない父親だよ、あんたは。自分より出来た息子に嫉妬して、手を上げて。挙げ句の果てには殺そうとまでした」



 カチャリという金属音。若者の親指が手元の銃らしきものの後端に触れる。


 「大事な大事な我が子に殺されるのはどんな気持ちだい?」



 スッと、空気の抜けるような音が二人の間を走った。若者から男の元へ――。

 だが男はそれが何だったのか分からなかった。否、知ることは一生不可能だった。なぜなら、男は既に絶命していたのだから。


 男の頭を中心に雪が鮮やかな赤に染まっていく。

 頭部を撃ち抜かれ、雪の中に埋もれる男の様子を若者は暫く観察していた。

 やがて真に息絶えたことを確認すると、隣で役目を待っていたタイムゲートの中へと入り込み、ゲート共々その場から消え去った。


 雪の街に取り残されたのは、激しく吹き付ける風と男の死体だけであった。





 男が死亡したことにより、歴史は変動した。


 男の息子は父なき家庭で育つこととなり、母はたった一人で家事に育児に仕事にと奮闘した。涙を流す暇も悲しみに暮れる時間もなく、それでも愛情を持って息子を育て上げた。おかげで息子は虐待を知らない平和な暮らしのなかですくすくと成長していき――やがてあの若者と同じ年齢に達した息子は、あどけなさを残しながらも他人に優しい青年となっていた。その表情には殺意や憎悪は一切感じられなかった。


 そして青年は成人を迎え、社会に出て働き始めた。住み慣れた我が家を離れて一人で暮らすようになり、数多の恋愛を経た末に心から愛せる女性とも巡り会えた。住んでいたアパートを引き払い、小さいながらも設備の整ったマンションへと移った。そうして再び、大切に思える人との二人暮らしが始まった。今度は自分が守る立場として、立派なとして――。




 男は一人路地を急いでいた。


 冬空の下。

 吹き付ける向かい風に乗って、玉雪の槍が容赦なく男の顔面を突き刺してくる。


 薄汚れた灰色の空はどこまでも陰鬱で、 美しいはずの銀世界をどこか不吉な気配に染め上げているかのようだ。


 だが男は凍えるような寒さに身を丸めながらも、ただ真っ直ぐ前だけを見据えて積雪の街を足早に進んでいた。

 指先がかじかむのも構わずに、不穏を掻き消すほどの光をその瞳に溜め込んで――。



 だが男の前に突然、若い男が出現して立ち塞がった。


 男は叫ぶ。


 「なんだ君は!いきなり現れたら驚くじゃないか!それに今の、タイムゲートだろう?駄目じゃないか、あれは時間航行基本法によって、先月から公共施設にあるもの以外の使用は禁じられたはずだろ。不完全な時間移動で肉体が崩壊してしまったらどうするんだ」


 「タイムゲート?ふん、そんなもの知らないね。これはワープホールというものだ。俺は時間ではなく時空――つまり別世界から移動してきた、あんたの息子だ」


 「はあ?何を戯けたことを……くだらない冗談はよせ。俺は今急いでるんだ。ついさっき病院から連絡があった。愛する妻と子どもが俺を待ってくれてるんだよ」


 「そんなこと言って、結局は虐待をするんだよな。あんたの父親と爺さんと同じように」


 「何を言ってるんだ。俺の父は俺が産まれた日に事故に巻き込まれて――」


 「ああ、そういえばこの世界ではそうだったっけな……いいか、優性遺伝子には危険思想が潜んでいる。どんなものも利点ばかりじゃないんだ。必ずどこかに落とし穴がある。眼に見えないほどの小さな種も放っておけばやがて芽がでて巨大な花を咲かせるんだ。そうなれば良心なんてあっという間に花の毒にやられちまう。この世界はあんたとは別のあんたが自分の父親を過去で殺したことによって生まれてしまった、平行世界パラレルワールドなんだよ」



 絶句する男。

 若者は構わず続ける。



 「もう一人のあんたは父親を殺しさえすれば虐待もなく、平和な日常が得られると考えたようだが、結果的には不幸な世界が二つに増えただけだった。虐待思考は遺伝子レベルで引き継がれ、俺の世界のあんたも、こっちの世界のあんたも、どっちも愛する我が子ってやつに虐待を繰り返して、挙げ句の果てには殺そうとまでするんだよ」


 「殺す?待てっ、何で俺が自分の子どもを殺す必要があるんだ!」


 「嫉妬だよ。たったそれだけの理由さ」



 若者は眼を細めて、寂しげに顔を曇らせる。


 「未来なんて酷く暗いもんだ。自分たちが望んで生みだしたくせに、役立たずの伝統や風習に常識を重ねるジジイどもは自分たちを凌駕する知能を持った俺たちを邪険に扱った。そのくせ、必要な知識や技術は無理やり引き出させる。俺たちは皆、道具としか見られなかった」


 若者は手のひらを右横に出した。すると空間が水面のように揺れて、今度はそのなかに腕を突っ込んだ。


 驚愕する男を他所に、若者は呑み込まれた腕を引き抜く。手の中には指貫のようなものがあった。

 若者はそれを人差し指に嵌め、男を指差す。先端には細く透明な針が装着されていて、男を真っ直ぐ捉えていた。



 「だから俺はあんたを殺す。正確にはあんたの脳組織を破壊する。平行世界が生まれた原因であるあんたを二人とも始末すれば、世界は統合化されてあるべき姿に戻るはずだ。俺が変えてやる。この腐った遺伝子を絶ってやるんだ」



 若者は一歩、また一歩と近付いてくる。

 いつしか腰を抜かし、逃げることも出来なくなっていた男に向かって締め括りの言葉を述べた。



 「大事な大事な我が子に殺されるのはどんな気持ちだ?」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

遺伝する思考 おこげ @o_koge

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ